2021.05.06
羽ばたけ、竹の会の子たちよ‼️
竹の会の卒業生の心に竹の会がいつまでも残っていることに驚きを禁じ得ません。
短い子で一年にも満たない、長い子で、創業期には、8年とか、9年という子もいました。
竹の会は、退塾者の多い塾です。様々な事由で退塾をお願いしてきました。こういう人たちは竹の会には1月か、3月かくらいしかいませんし、長くて6月かな、まあ、竹の会を卒業した人たちではないわけです。 また不運にして不合格となられた方たちも二つに分かれます。落ちたのが分かった時点で音信を断つというのが、普通かもしれません。これは大手では当たり前ですから、むしろ普通のことと捉えていいのかもしれません。
もともと8倍とかの高い倍率のあるところでは、落ちる方が多い。落ちるのが当たり前なのが都立中受検です。これは竹の会のような小塾では受検生が少ないですから落ちるとにはそれなりにインパクトがあります。受検生はこのところ5人前後です。みな大手に行くので、こんなものです。
合格できないということが予想されても、親や子は、「やってみなければわからない」という思いが強いのか、諦めない。落ちると落ち込みというか、嘆きも強い。そこまで合格にこだわるのなら、合格の見込み、見通しが立たないと分かった時点で、受検しなければいい、したがって退塾すればいい、わたしの本音はそうです。ですから親御さんにはわたしの正直な感想をお伝えしてきました。また、模試の結果などから合格が難しいということが予想できていても、だから受検しない、退塾というのもほぼ皆無です。
つまり、受検生、親も、どんなに無理とわかっていてもあきらめない。
竹の会の場合は、実は、基礎学力をつけるという点に秀でている。受検でやってきて基礎力がしっかりとつくということがある。その意味では、合格見通しがなくても意味がある。
竹の会の指導は無駄にはならない。むしろこれからの中学、高校における勉強の下地となっているはずです。学習の基本をそれぞれに作り上げてきた。しかし、不合格の一事が竹の会を否定する一大事なのか、そのことまでも否定してしまうほどに重大事なのか。受検の親はそういう判断をします。
竹の会は、受検という建前で、実は、子どもたちの基礎学力、思考力を訓練してきたのだと思います。すべての子が合格できるわけではない。やはり性格や能力からだめということもある。さらには、そこに家庭の方針というのが大きく負荷をかけてくる。習い事、稽古事は絶対という家庭もある。スポーツが命という家庭もある。家族旅行を欠かさない家庭もある。そういう様々な人たちが自分たちの所業は棚に上げて、落ちたという一事で竹の会を否定するとしたらそれが小塾ということの報いなのでしょう。
竹の会は、どんな子にも常に誠心誠意で指導を尽くしてきた、それだけは偽りはないことです。子どもたちの心情を思いやり、疲れたときには、温かいココアや冷たいジュースなんかを振る舞ったりして、子どもたちの心を和やかにすることをあれこれと心を砕いてきた。しかし、親たちはそんなことは1ミリも期待していないし、感謝もしていないのは、不合格のときの態度、退塾のときの態度からわかっていたことであった。
合格というのは、たまたまの結果です。8倍の倍率なら、不合格が普通です。しかし、親はそう思っていない。落ちたら、竹の会はダメだったです。これまでに培ってきた基礎学力という竹の会からの本当の贈り物には全く気づかないか、子どものもともとの力だと思っている。想像力の欠如はこういう人たちの共通した特徴です。中学、高校で伸びても、それは我が子が頑張ったから、それを可能にしたのが、竹の会だったとは思いも至らない。そんなもんです。
しかし、子どもたちが、一番よく知っている。自分たちが竹の会で力をつけたことを一番よくわかっている。感情的な親たちとは裏腹に。
さて、それでです。竹の会を卒業して3年後、6年後に「合格しました」と報告してくる子たちがたくさんいます。彼ら、彼女らは、ほとんどが私に会いたい、と言ってきます。落ちた子は普通音信不通になるのですが、竹の会では必ずしもそうではない。とても竹の会に通っていた頃を懐かしんでいる子もいるのです。合格した子の中にも音信不通の子がいる。音信不通の子はいます。たぶんうまくいかなかったのだろう。そうですよね。うまくいかなければ報告できないですよ。
今年と去年は、報告が多かった。
26年白鷗補欠で涙を飲んだ女子 宝泉理数インターに進学して6年、東北大に合格したと報告
この子は、「会いたい」組でした。小2のときに会ってから長い付き合いの子でした。
26年桜修館失敗の子は3年後に、日比谷高校と慶應志木高校に合格したとお母さんから長文の手紙をいただきました。慶應に進んだそうです。
26年小石川に失敗した女子からは、今年電話がありまして、日比谷高校から杏林大学医学部に合格したと報告がありました。
26年受検組はこの3人だけです。
27年桜修館合格の女子からは今年、早稲田大學に合格したと、お手紙がありました。
27年富士合格の女子は、今年、早稲田大学政経に合格したと報告がありました。
平成30年都立小山台を失敗した女子は、今年、早稲田大学国際教養学部に合格したとメールがありました。
28年戸山合格の男子からは、去年一橋大学に合格したと報告があり、「会いたい」組でした。
平成26年都立駒場合格の女子が29年5月に学習院大学合格の報告に来ました。
過去に遡れば、
22年桜修館合格の杉山太一君から、28年京都大学法学部合格のメールがありました。
23年小石川合格の男子が、29年東工大合格の報告に来ました。
19年九段合格の男子のお父さんから、25年東工大合格の報告がありました。
20年桐蔭理数合格の男子が、24年東大文II合格の報告に来ました。
20年西合格の女子のお母さんから、24年お茶の水女子大合格のメールがありました。
これまで多くの子達を中学、高校、大学へと合格の道案内をしてきました。
記憶に残る合格
昭和62年青山学院高等部(男子)、市川高校 竹の会初めての高校入試
平成元年都立国際高校(男子) 都立国際高校開校倍率26倍、渋谷区で唯一の合格者
平成2年獨協中学 竹の会初めての中学受験
平成3年青山学院高等部(女子) 上原中学年1番
平成4年都立青山高校3人合格の快挙
平成6年東洋英和女学院大学 初の大学入試 新宿、駒場高校など指導クラス
平成7年東邦大東邦高校→順天堂医学部、都立駒場の生徒を中央の法へ
平成8年東京理科大建築 ※獨協中学合格の子を高校3年まで指導
平成9年都立青山高校3人合格の快挙
平成10年★早稲田実業高校普通と商業 ※渋谷区で唯一の合格者
★日大二高→津田塾大
平成11年青山学院高等部(女子) 立教池袋中学
平成12年都立新宿3人合格の快挙
平成13年都立西 都立国際(女子)
平成14年★慶應義塾大学、上智大学
平成15年吉祥女子中学 国学院久我山中学
※都立鷺宮→千葉大工学部
不登校児の復活
平成16年日大第二中学
平成17年
平成18年
平成19年千代田区立九段※竹の会初めての公立中高一貫校合格
平成20年都立西、豊島岡女子、桐蔭理数、立教新座高校
※レジュメ世代のデビュー
★はエピソード有
※エピソード1 ★平成10年日大二高合格
私は数学が苦手だったのですが、竹の会に入っている友人が「数学のテストの点数が上がった」と言っているのを聞いて、入会を決めました。私自身も入会後、いつの間にか数学と英語の力が伸びていたように感じました。
竹の会は先生と生徒がよい具合にうちとけていたと思います。
冗談を飛ばしあったり、学校の事を話したり、時には厳しく叱られたり。こういう光景は竹の会ならではの温かみがあって、とても印象に残っています。先生と生徒が信頼し合っていたから、わからないことは、先生に質問しやすかったし、私達が納得のいくまで、説明して頂くことができたのだと思います。生徒同士も学校や学年を問わず、仲が良かったので、精神面で助け合うことができ、とても楽しんで勉強できました。
今から考えれば、三年生の夏期講習や冬期講習はすさまじいものでした。
朝9時~夜10時という長時間の勉強は初めての経験でした。
最初の頃はすぐに疲れてしまい「体がもつわけがない」と思いましたが、日が立つにつれ、体力と集中力がつき、「一日があっという間にすぎてしまう」といった感じでした。長時間、机に向かうことができる環境を先生が与えてくださったので、自分なりの勉強のリズムをつかむことができました。
それは高校生になった今でも大変役に立っています。
竹の会で毎日勉強していたので、家では単語や漢字を覚える程度。入試の直前や前日も数学と英語を見直しする程度でゆとりのある生活でした。
入試の日は少し緊張したものの、やるべきことはすべてやっていたので、心には余裕があるぐらいでした。数学でわからない問題が出ても、日頃から先生に「捨ててもよい問題」と「絶対に解かなければならない問題」の区別を教えてもらっていたので、特に焦ったりするようなことはありませんでした。
竹の会に入る前、私は数学でわからない問題があればすぐに答えの本を見ていたし、英語もただ問題を解くだけで、要点をおさえていない勉強をしていました。しかし、竹の会に入って私の勉強の仕方では伸びないということを教えられました。
例えば数学ではまず基本を教えていただき、次にプリントで問題を解きます。
この時点で、私が理解していないところを先生が熱心に教えて下さるので、基本問題は完璧にできるようになります。入試の問題は一問につき一時間くらいは自分で考えます。それでもわからなかった問題は先生が解説して下さいます。一生懸命考えた問題はその分、解法も頭に焼きつきます。
この「考える」というスタイルは竹の会で得た一生ものの宝です。
英語では、オリジナルテキストが大いに役立ちました。
重要な構文や文法、入試頻出問題を選りすぐったものなので、このテキストだけで、英語はほぼ完璧です。長文も普段から難しいものを出されるので、入試問題を解くときに簡単に感じました。
竹の会で学んだことのすべてが、高校に行っても役に立つことばかりなのです。
私にとって、現在の高校は挑戦校だったのですが、ここでも竹の会の勉強法は通用するので、塾に行かなくても十分上位の成績がねらえます。大手の塾には決して真似できない入試指導だと思います。少人数なので先生の目が隅々まで行き届いているように思いました。また、個別指導とも違い、友達をライバルとして意識し、切磋琢磨することも出来ました。
塾長・追記
Nさんは中学1年生のときにほんとうにひょいという感じでやってきました。
いつも笑顔を絶やさず話すとき必ずにっこりとほほ笑みます。Nさんは、平成10年に早実に合格したS君と同期です。たしかどこやら評判の英語塾に行っていたと思うのですが, いつしか竹の会の受験英語を信頼し、熱心に私の作成した「英語ポイント集(現在は絶版)」という小冊子を読みこんでいました。
中3のときは竹の会のSシステム(注釈:当時のシステムで、竹の会の指導時間すべてに自由に参加できるコース)でしたから、毎日のように長時間いた感じです。12月の代ゼミ模試では確か日大二高は無理との判定でした。S君と同じでした。
このころの竹の会は過去問指導法の完成記で、過去問電話帳(選りすぐった過去問を紐で綴じたもの)を何回も解き直すという合格スタイルもこの時期に完成しました。
彼女は結局日大二高に合格します。
しかも入学後に実施された日大系列(二高・鶴ヶ丘・櫻丘・豊山等々のすべて)の統一テストで8番という成績をとるのです。
エピソード2
2015.10.28
平成10年早稲田実業高校合格
★お母様からの寄稿
早いもので息子の高校入試から一年が過ぎ、親として心配と不安と、あのように努力しているのだから絶対に希望の高校に道はひらかれているはずだから、という思いがいろいろ交差していたことを思い出します。
息子が竹の会にお世話になったのは、中学入試を間近にひかえた小学校6年生の12月の上旬でした。
それまで大手の進学塾に小学4年生から通っていたのですが、6年生の夏頃から少しずつ成績が下がり気味で、何か壁にぶつかっているように見えていました。算数の問題がただ流されているような、理解していないように感じられていました。
このとき竹の会から届いた葉書の内容にひかれて、お尋ねたしたのでした。
本当に迷っていました。もう中学受験ギリギリの時期ということに。
もし、本人の希望の学校をやめてランクを下げた学校に入ったとしても本人の為にいいのかどうか。志望の学校に合格できなくても(これは本人にとってとても残酷でつらい経験としても)、阿部先生の御指導にお願いして、ただ、大手の進学塾の流されるようなやり方ではなく、じっくり自分で理解して考える勉強の仕方をしっかり見つけたほうが将来の為に必要なのではということを、主人と話し合い結論を出しました。
中学受験を本当に受けたい所だけにしぼり、挫折しましたが、今だから言えるのかも知れませんが、あの時に親も悩み子供もつらかったでしょうが、良い選択をしたと思います。
上原中学に行き高校受験をして本当によかったと。
小学校からの仲間、新しい友人達にも恵まれ、三年間柔道部でがんばり、生徒会長の仕事を自分から立候補して責任のある役を一年間やりとげました。
竹の会では、阿部先生に全面的におまかせしました。
この時期は親離れ子離れしなくてはいけない準備段階の時期だと考え、本当にお世話になりました。本格的に受験態勢に入ったのは三年生の六月頃ですが、学校と竹の会とで一日のほとんどを過ごし、家では食事と眠るだけの時間にいるような感じでしたが、本人はとても充実してすごしているようにみえました。
家では口数が少ない子でしたので、あまり詳しい事はわかりませんでしたが、先生を信頼している様子がわかりましたし、たくさんの問題を何回も繰り返し解き少しずつ自信がついたのではと思います。
立教高校の発表の時は、私が先に先生に電話でお知らせしてしまったので、早実の合格はどうしても自分で報告に行くと云いました。
先生が御自分でおやつを買いにでかけて下さってごちそうして頂き、ものすごく喜んでくださったと本当にうれしそうに話をしてくれました。家族の他に自分のことでこんなに喜んで下さる方がいて頂けるということで、改めて先生に対する感謝の気持ちが倍増したようです。
このことは、自分が他人の為に役に立つ人間に成りたいという自覚ができたのではと、喜んでいます。
息子の人間形成の大切な時期に竹の会で御指導頂き本当にありがとうございました。
エピソード3
平成11年、青山学院高等部・合格(女子)
★平成14年 慶應義塾大学(総合政策学部)・合格
下記に紹介するTさんが、お母さんに連れられて竹の会にやってきたのは、中学入試に失敗し、失意のままに再起をかけて、サピックスに通って慶應女子を目指すと決めた、小6の3月のことでした。竹の会は、サピックスの補充ということでした。
彼女は、確かお茶の水女子大に通う姉がいて、自分はどうしても東大へ行きたいのだという強い意志のもと、小学校時代を有名塾で猛勉強してきました。
しかし、女子の東大への登竜門とされる桜蔭女子中に失敗するのです。
高校入試となると、女子で東大を目指せる私立はほとんどないという現実から、彼女は慶應女子を目指すことにしたのです。中1から中3の10月まで、彼女はサピックスに全力投球で、竹の会ではほとんど勉強もしていなかったと思います。
中1の1学期のときでしたか、サピックスの首都圏模試で、なんと3番という成績をとったことが私の唯一の記憶でした。そのときは嬉しそうに私に報告してきましたから、よく覚えています。その彼女が中3の10月になるまで、どのように成績推移していたのか、私は何も知りません。彼女はその間、一度も休むことなく、竹の会にいつも顔を見せていましたから。
中3の10月になって、初めて彼女のお母さんから、相談を受けます。
成績はかなり落ちていて、このままでは慶應どころではないと知らされます。話し合った結果、サピックスを止めさせて、私の指導一本に専念することとなりました。受験の下地を既にできていたので、私の「英語ポイント集」を完璧に覚えるまで繰り返しやらせることと、「高校入試数学100問」という私の編集したテキストを解かせることとしました。
数学100問は、解き終わっても最低3回の解き直しが必須です。また、解き終わるといっても、自力では無理で、私のわら半紙解説が活躍しました。理社をやってこなかったので、私立一本勝負でした。なんとか入試に間に合わせたのですが、第一志望の慶應女子は失敗でした。しかし、青山学院に合格。青山学院の女子の偏差値は、慶應女子に次ぐ日本第二位の難関です。
彼女は高校入学後、東大を目指すと決めていました。
そして入学後、サピックスの高校部にあたる予備校から再三の誘いを受けたそうです。しかし、このときばかりはお母さんも、もう大手はこりごりと、私に白羽の矢を立てました。竹の会が高校生を見るなどということは、超異例のことです。しかし、1時間近くも電話で熱っぽくお話しされ、私は引き受ける覚悟をしたのです。
青学の授業は高度ですが、受験には全く配慮されていませんでした。
私は数学と英語を指導しました。かつて新宿高校や青山学院の生徒たちを授業したことがあり、そのとき大学受験英語のための研究をかなりやったことがありました。その経験と、当時東大教養学部の教科書として使われていた英語テキストの訳を、Tさんとともにやりました。彼女がノートに訳してくる、それで私も予習して訳を作る、その訳を照らし合わせる、というようなことを、1年以上も続けました。数学は青学の授業レベルは非常に高いと思います。それで私は、数研出版が出している分厚い参考書をテキストとして使いました。彼女に勘所を説明した後は、徹底してひとりで考えさせました。
あっという間の3年間でしたが、彼女は通年で大学受験予備校に行くということもなく、また3年生になったからといって、予備校の夏期講習や冬期講習に行くということもありませんでした。私と二人三脚で、数学と英語に取り組んできたのです。クラスの子の中には、やはり慶應などをめざして代ゼミや河合塾などに通う子などがいたそうですが、彼女には全くその気はないようでした。
高校3年間は、数学も英語もすべて内申10を取り続けました。高校3年の1月、センターの結果を受けて、東大を断念。私立を受ける場合、日本史では浪人に絶対的に有利と私の方からも勧め、私立を数学で受けることを決意します。そして、慶應大(総合政策)と上智大に合格しました。りっぱな現役合格でした。
合格したとき、青学の担任や諸先生、そして級友たちがびっくりしたそうです。
「Tは、塾にも予備校に行っていないのに、どうして受かったのだ」ということが、学校で話題になったそうです。受験を目指す友だちは皆、河合塾など大手に行っていたのですから。
彼女は大学入学後、クリスマスの頃、「母からです」といってワインを届けに来ました。お母さんは私のことを恩人と仰ってくださり、忘れることなく感謝の印を届けにきたのです。その彼女から、「新聞記者として就職しました(※大手新聞です)」という報告を受けたのが大学4年のことでした。
あれから彼女には会っていません。元気に活躍していると思います。
ちなみに彼女はシャイですが、とても美人です。