2021.11.27
習ったことしかできない、
一を聞いて十を知る、これを才能という。試験とは、そういう才能のある子の中から選抜する方法である。ところが、世の中には、実は才能がないのに、周囲からは、優等生と見られている子がいる。学校の優等生とはほとんどがこの型である。特に、男子に比べて早熟とされる、女子に多い。才能というのは、いつ発揮されるかは、わからない。早熟な女の子が低学年から集中力を発揮して勉強ができるということはよくあることで、しかし、たいていは普通の人になっていく。ただ才能というのは、ほとんどが早期に兆候を見せるものであり、大器晩成というのは才能なのか、むしろ性格の問題なのかと思う。
才能は早期からその片鱗を見せるものである。
学校の優等生とは!
言われたことはできる、そういう子である。このタイプの子が優等生であり得るのは、言われたこともできない子が多数派だからである。そうなのだ。世の中のほとんどの子は言われたこともできないのだ。だから塾が流行る。言われたことができない子が塾に行けば、言われたことができるようになるか、と言えばそんなことはない。だから親には悩ましい問題となる。
学校の優等生は、言われたことはできる。だからきちんとしている。授業態度は真面目で先生の話しを熱心に聞く。言われたことに素直に従う。予習、復習もサボらない。しかし、こういう子は伸びていかない。言われたことをこなすだけではだめなのである。
才能のある子は一つ学べばそれを抽象化する。シンプルな原理として再構成する。事実の違いに敏感であり、その違いが本質的なものかどうかをよく理解する。これが才能である。事実から本質的な原理を読み取り、抽象化して頭の中に格納する。問題に応じてその抽象化した原理を使う。
頭の悪い子というのは、そういう抽象化して格納するというところが抜けている。事実を具体的に、しかも事実と事実を個別化してしか格納できないのだ。それは事実の本質的な部分とどうでもいい部分の区別ができないという現れ方をする。本質的部分が同じなら事実としては同じものだという理解のしかたができない、というかそういう能力が欠落しているのだ。
言われてもわからない子には、そもそも教えるということはできないのだ。
それでは、言われたことはできる子はどうなのか。
訓練してもやはり才能がなければ言われたことしかできないというのが、経験値のようである。
ここ2年、算数は進んでいると思われたのに、適性問題がさっぱり解けないという子が出るに及んで、才能ということを考えざるを得なかった。
習ったことしかできない、そのかわり習ったことならきちんとできるという子は、都立中高一貫校は無理である。
ただこの中にもそれなりの都立高校には行けるという子はいる。言われたことができる子は、都立中高一貫校はだめだが、そういう選択はある。ただトップ都立は無理であろう。
言われたこともできない子は受検そのものは無理と言ったが、高校受験はと言えば、それなりの都立は無理であろう。私立単願、つまり事実上の無試験というのがこれまでの倣いである。
ただ、今は時代が変わった。少子化でこれまで威張っていた中堅どころの私立も定員割れが常態である。だから昔なら簡単には入れなかったようなところにできない子が普通に行けるようにはなってきた。