2021.06.15
◎考えるとは、疑問を背負うこと
子どもたちには、よく「考えろ」と突き放す。考えるとは、具体的には、どうしろ、と言っているのか。子どもたちの答案を見てみて、いつも思うのは、誤解に満ちた答案、問題の表面とか、断片しか、読み取れていない、それで、平気で「できました」などと言ってくる。
思考が不十分なほど、知識が不足しているほど、子どもというのは、自信家なんですね。知識のある人は、周りも自分と同じくらい知識があるだろうと思うから、なかなか自信を持てないわけです。
よく試験が終わったとき、「できた、できた」という子ほど落ちている。周りが見えてないんですね。本当にできた子というのは、むしろ浮かない顔をしている。それは周りも自分と同じようにできているだろうから、とても自信が持てないわけです。
考えるというのは、まず、読み取ることです。しかし、そこで詰まる。だから考える。考えるとは、どうして? なぜ? と問い続けることである。問いかければ、当然その答えを探す。こうして、考えるとは、どうしてと問いかけ続けることです。どうしてだろう? わからない。なぜか? もう一度問題を読み直してみる。図をかいてみる。図を睨み、あれこれと関係を考える。わからない。また問題を読み返す。見落とし、読み飛ばしがないか、誤解してないか、思い込み、決めつけがないか、もう一度チェックする。考えるとは、都合このようなことを言うであろう。
思い込み、先入観、決めつけが、判断を狂わすことはよくある。
今風に言えば、バイアスがかかっている、だから正確に事実を捉えられないということはよくある。私の場合、考えるとは、自らの中に張り巡らされたバイアスをそれとして認識し、バイアスを解除していく過程かもしれない。
人間というのは、事実をバイアスのかからない状態で、認識することは、ほとんど不可能のように思える。何か判断を迫られるとき、バイアスのない判断なんてあるのか、
私がこのブログで初めてバイアスの問題について、書いたのは、「正常性バイアス」についてであった。ところで、この言葉は、専門書というか、心理学の本には、探したが、出てこない。どうしてか、気になったので、何冊かに当たった。しかし、載っていなかった。
私が、唯一この語を使った本と言えば、「人はなぜ逃げ遅れるのか」という本だけだった。
子どもは答えが合っていることに狂喜する!
答えが合ってさえいればそれで終わり、つまりもう考えない。自分の考え方の正当性を検証しない。他人の解答の正当性から学ぶこともしない。答えが一致しているかいないか、がすべてなのだ。例えば、「小数第2位を四捨五入して答えなさい」とある場合、仮に答えが、「7.7」としたら、どうか。答えの元となる計算式が、多少ずれてても、四捨五入すればある程度の幅で7.7になる。こうなると元になる計算式までチェックしなければなるまい。
答え至上主義にバイアスがかかると、考えることが軽視されるようになる。行き着くところは、カンニングである。カンニングと言ってもテストではないから、テストのそれとは違う。家で前にやって解説してもらったレジュメを見るとか、採点のときに答えを盗み見るとか(実はこれが一番多い)、親に訊くとか、とにかくいろいろある。とにかく自分で考えた結果ではない場合を広くカンニングと呼んでいるだけである。
よく7回解き直しを頑張ったという子がいるが、なぜか落ちる。これなどは、答え至上主義の子の7回解き直しなら、よくわかる話しである。
答え至上主義は、とうもろこしの収穫のときにスカスカの実がついていたということの根拠と見て間違いない。
自分の考えた過程が、正しかったのかどうか、などまるで気にならない、これでは、脳はスカスカでも仕方ない。
竹の会で、何のために算数をやっているのか、そこのところをもう一度考えてみてほしい。
思考の層を重ねる、二重、三重、さらに多層を重ねて、深い思考の深淵に到達すること、これである。層と層を繋ぐのは、論理の鎖である。論理とは、前提関係にあることである。
ここで考え違いしてはいけない。
算数の訓練を重ねて、結果、深い思考が取れるようになること、これは近い未来、あなたたちが取り組むことになるであろう、適性問題を有意的に進めるためである。
都立中高一貫校に「行きたい」という小6が竹の会に集まったのは、平成19年4月から6月のことでした。その年に、竹の会から初めて受検した年でした。3人いた受検生は、一人は倍率11倍の九段に、残りの二人は東大附属に合格しました。そしたらその年受検の小6が何人か集まってきた。びっくりしたのは、その学力の低さであった。それが私の小学生指導の終わりのない苦難の始まりだった。私は来る日も来る日も小学生指導の闇の中で悪戦苦闘した。毎日が発見と工夫の日々だった。わたしが小学生のために作ったレジュメの試作品は夥しい種類と量に達した。長いトンネルの中でわたしは確実に一つの方法を確立しつつあった。私の方法は確実に合格をもたらすことで、一つの道筋を作っていった。
何が合格をもたらしたのか、わたしはその真実を突き止めることに情念を燃やした。
考えるとは、どういうことか。
これが私のライフワークとなった。
考えるとは、いつも疑問を背負うこと。
考え始めたら、終わりはない。わからないから考え続ける。頭に中に疑問を投げかけ続ける。
寝ても覚めても考える、常に頭に疑問が浮かぶ、これが考えるということだ。
頭の中では、問題が何度も反芻される。読み直す。何度も引っかかる箇所を読み返す。そしてまた考える。図にかく。文言を一字一句確かめながら図を描く。図に数値を書き込んでみる。それから鳥瞰する。また考える。わからないままに寝る。電気を消して暗闇で頭をめぐらす。いつしか眠りにつく。朝目覚めると意識が勝手に動く。問題を想い出しながら考える。「あっ」、閃いた。解けた。これでうまくいくはずだ! わたしの場合は、難問はいつも明け方目が覚めたら解けていた。
ああでもない、こうでもない、考え得る可能な仮説はもうすべて試した、出尽くした、もうない、こんなとき、これはないと捨てていた仮説をもう一度考え直したら見つかったこともある。まさかこんなことはないよなーと思って捨てていた仮説が実は正解に繋がったということもよくあった。
考えることを放棄することの意味
考えるのを諦めて、先生に聞く、親に聞く、友達に聞く、解答の解説を見る、そんなことをしたら、あなたたちはせっかくの脳の固い扉を開く機会を捨てることになる。
あなたたちの脳は開くことなく永久に扉を、閉ざしたまま、錆ついていく。
この脳の営み、働きをいとも簡単に廃棄するのは何故ですか。
脳はいつも問いかけることによってのみそれに応えて扉を開ける。1㎜動く。また1㎜動く。あなたたちが扉を閉じたままの脳にしてしまうのだ。自分で開いた扉でなければあなたたちはいつでも自由に扉を開くことはできない。他人が開けた扉から入れても、次は開けない。