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脳が薄い、「浅い」ということ

2021.07.29

脳が薄い、「浅い」ということ
 深みが感じられない子は、やはり受からない。同じ80点取っても、これが限界という子とまだまだ余裕があるという子がいるのだ。考えてみれば本番の時に限って「できなかった」、「難しかった」というのは、前者の「浅い」子だったように思う。もうギリギリ、限界という点の取り方をする子は、やはり受からない。まだまだ伸び代があるな、という点数の取り方というのがある。そうなのだ。これまで本番に限ってできなかったという子は、60点、70点しか取れないのが、すべて運も勘も出し切っての素の点であったように思う。これは模試の点である。竹の会でやる過去問チェックについては、30年分で理社平均85点を取っているのに、本番だけできないという珍事が起きている。わたしの経験を根底から覆す結果であった。私の経験則からはありえない事態である。過去問ができないから、手を打つ、手当てをする、という発想である。過去問ができるなら手当ての必要はない。ただ、過去問チェックで平均85点を取っているのに、模試の点が常に悪いという事実はあった。模試の結果の方が信用できたということである。過去、模試の結果がいい生徒は過去問チェックもよかった。今回は、その逆である。一つ言えるのは、過去問チェック30回全てに85点以上というのはある意味疑うべき事実なのかもしれない、という事である。それよりか、私が、数学、英語で感じた「浅さ」の方が問題であった。
 都立指導は1985年開始、1987年3月に初めての都立受験の生徒が、駒場、目黒、都立大附属などに合格して以来2021年まで、36年になる。指導に際して、本当のところを「隠す」生徒に悩まされた。成績表は一切見せない、定期テストの結果も詳らかにしない、私の指導を仰がない、模試も外部で受けて隠す、こういう事態になっては、受かるはずもない。竹の会では過去にも何例かあった悲劇であった。都合の悪いことは隠す、私の指導を封じる一番の手であった。
 浅いとは、どういう事態か?
 英語なら、一度は、英文の読解に没頭したことがなければならない。私が、英文の訳を逐一添削したことがなければならない。私が、あなたたちの英文読解力を検証した事実がなければならない。「新英語指導案」は7回解いたというノートを私に見せなければならない。努力したという事実を私に示さなければならない。私は、確かめているのだ。英語の五文型をきちんと踏まえた英文の読解思考ができているか、英文の構造を正確にとらえているか、そういうところが私が確認したいところである。それから単語である。単語は毎日でも覚える。忘れることは承知である。だから忘れるから何度でも覚える。それから英文を毎日読む。毎日読んで読み慣れる。私が効果的だったのは、英文を1つ読んで、その訳を読む。また同じことをやる。そうして、一通り訳を通したら、英文を読みながら頭の中で訳に変換していく。このやり方で一つのテーマ文を数回読む。これを毎日やる。私の場合は、原仙作の英文標準問題精講を使ったが、これは大学入試用だから、高校入試は別のものを考えなければならないだろう。
 とにかく勉強が薄っぺらなのだ。だから過去問やっても何か浅い。こういう生徒は形は合格圏内にあるとしても、本番では必ず「できない」。私が、言い知れぬ不安に駆られるのは、「浅い」ということなのであるが、それは、私の指示が、曖昧なままに流されてきた、ということがいつまでも私の心の中で尾を引いているからでももある。課したはずの問題がそのまま返ってこない、わたしの手元には、解答などのコピーが積み遺されている。やりかけをそのままにしてしまう。
 理科、社会で与えられたテキストは、徹底して繰り返し読み返さなければならない。とにかく全体を終わらせることだ。だから最初は基本問題だけを終わらせる。次に、基本問題を読み返す。これは問題を見て答える形で何度もやる。基本問題の答えは予め解答を見て書きこんでおくのが望ましい。17回読み返したら、知識を広げていく。注意したいのは、基本問題の答えは、一々抽象化しておくことである。例えば、金閣寺が答えなら、金閣寺というのが、当時のどういうコンセプト(思想)から生まれたのか、と結びつける。それはまとめのページの抽象的な記述から探す。こういう作業を面倒くさがらずに丁寧にやっていく。
 理科なら、例えば、電池の並列と直列の違いは、これは正確に理解しておかなければならない。そのためには、練習問題を解いて、理解を確かめる。
 とにかく、知識を生きたものにする努力は怠ってはならない。理解したものしか解けない。知識は知識としてあるのではなく、使える知識、生きた知識にすることだ。勉強とはそういうことだ。単なる暗記としてやっていると頭には残らない。知識は必ず一旦抽象化という知識の立体化をやっておかねばならない。
 私が、英文読解用として、課すものに、高校用英語副読本というのがある。これはなかなか難しいので、なかなかまともにやってくれる生徒がいない。しかし、そうすると、受験が近い11月あたりから、模試の点が伸びないという事態に必ず直面することになる。苦しいからと言って逃げていては、「浅い」ままに本番を迎えるだけである。
 今は、高校用英語副読本は、研究社のものは絶版のままである。幸いなことに、私は、全5巻のうち3巻を保有している。このシリーズは逸品である。今後の計画としては、現中1のために、レジュメ化することを計画している。またまた時間のかかる仕事を背負い込んだが、もっともいい形で子どもたちにいい指導をしたい、というわたしのプロ意識が、安易な代替を許さない。手をかけただけ子どもは伸びる。子どもが伸びないのは、手をかけないからだ。大手は、テキストと授業と講師の三種の神器を揃えればそれでベストと考えている。そう、今まではそれで通用した。しかし、パソコンが普及し、優秀なソフトが出て、様々な参考書、問題集、過去問集などが豊富に溢れている現代では、優秀な指導者が、手をかけてやれば、いくらでも伸びる、伸ばしてやることができる時代である。
 もはや大手には、少なくとも竹の会は負けない。
 よく大手から来た子が、もっと早く竹の会に来ればよかった、ということを言う。それが大手から来た子が全てそういうことを言う。私が言う大手とは、エナであったり、栄光であったり、Z会であったり、様々である。この子たちは、それなりに優秀なのに、それまで大手で過ごした期間が、なんとも無駄であったことか、少なくとも同じ期間を竹の会で過ごしていれば、合格への道を確立できたのにと悔やまれてならない。
 なぜ大手に行くのか、繰り返されてきた反問であった。無名の竹の会などに来る理由はないからである。
 「こんなに竹の会がいいところだとは思わなかった
 これも繰り返されてきた言葉であった。

 

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