2021.10.16
竹の会通信2021年10月16日
◎自分を信じるしかないこともある
旧帝大に行きたい、私の夢であった。少年の頃、父親だったかな、九大という言葉を初めて聞いた。なんだかすごいところらしいというのは幼ながらにわかった。
あの頃、英語の辞書を覚えたら食べるという人の話しを聞いた。九大に入るとはそれほど難しいのだと教えられた。
中学3年生のとき、クラスのまあできる級友Mに「九大に行きたい」と言ったことがある。 Mは「阿部、お前は無理だ」と言われた。九大とは、当時の級友たちの世界ではエベレストほどにとても手の届かない高いところにあった。中3の修学旅行で京都を訪れたとき、京都大学に行ってみた。キャンパスを歩く学生が神様に見えた。「俺もいつか必ずここを京大生として歩きたい」と胸が騒いだ。
以来その思いは私の胸の中で燻り続けた。
高校は別府鶴見ヶ丘高校に入学した。当時の県御三家の一つ、ただし、御三家と言いながら、上野ヶ丘、舞鶴とは格落ちな気がしていた。私は進学校というものにあまりにも生であった。勉強というものに覚悟がなかった。たちまち落ちこぼれた。辛うじて国立コースに残った。私は卒業してから独学してでも旧帝大をめざすということを心に決めていた。この独学の過程は私が受験勉強とは何か、に到達する苦難の道であった。父親との折り合いが悪く、衝突しては家を飛び出した。6トン車の世界に飛び込んだり、とかなり遠回りをしてしまった。数学が鬼門だった。最初旺文社の数学解法事典を買い込み、読みまくる戦法に出た。今から考えればメチャクチャなことをやった。次第に、シンプルを求めるようになった。
例えば、英語なら、原仙作の「英文標準問題精講」と赤尾好夫の「豆単」だけに絞った。
国語は、「新釈現代文」のみ。古文は「古語2000」。
漢文は名前は忘れた。薄いまとめ一冊のみ。
数学は、数Iと数IIBを一冊にまとめたZ会の解答付き問題集一冊のみ。200問ほど。一問1ページの詳細解答がよかった。
生物 数研の薄い問題集のみ。
日本史 山川用語集のみ。
世界史 山川の用語集のみ。
一冊を50回回すこと
完全ということを知っているか。
例えば、山川用語集なら完全に回すということは、その中のどれが出ても答えられるということだ。赤尾の豆単なら、約8000語ある単語、熟語の全てを完全に頭に入れるということだ。
私は旧帝大に合格するために必要とされる知識は完全に覚えなければならないと自らに課したのだ。模試の結果は、私がまだ一回も回していなかった時期の結果だと言い聞かせた。全ての科目を50回回したときが私の勝負どころだと考えた。
わたしは実行した。黙々と実行した。このときのわたしは規則正しいリズムで生活をした。勉強した。朝9時から12時まで。昼飯は祖母が用意してくれた。両親は、転勤で官舎住まいだった。今のNTTに就職した弟と祖母、私の三人の生活だった。午後は1時から5時まで。それから温泉に行った。7時頃夕食。夕食後見直し程度に勉強した。勉強の方法は、机の左に参考書を積む。順番にノルマを読むと右に積んでいく。すべて右に積みおわったらその日のノルマは終わり。赤鉛筆で線を引きながら読んだ。原仙作の英文標準問題精講は英文を読むと訳を読む。慣れてくると英文を同時通訳しながら読んでいけるようになった。20回を超えると英文を見ただけで、あっ、これはロバートリンドの文体だなとか、サマーセットモームの文調だなとわかるようになった。単語は豆単を読む前に三省堂のgemディクショナリーを黒のボールペンで塗り潰しながら読んだことがあり、あれで1万2000語は覚えていた。
現代文は得意で高校生の時の全県模試で3番を取ったことがあった。あの時は担任が目を白黒させていた。
日本史と世界史は、教科書や参考書を読むのがかったるくて、用語集を完全に覚える作戦に変えた。1日20ページほどを読み、何回目からは、覚えた用語を黒く塗り潰していった。最終的に真っ黒になった。
生物は時間がなくて、またこの科目は覚えることが多すぎて、最初から捨てていた。数研の問題集のまとめのところを読むだけにした。なにしろ遺伝の計算なんかまともにやっていたらとても無理、分類表なんて最初から捨てていた。
古文は今考えると文法がわかっていなかったと思う。古語を覚えて強引に訳そうとした。
本番では、和歌が出て、出典を書かせる問題だった。これは誰もできないと思った。
数学は、技法という参考書が役に立った。最後に使ったのはZ会の通販で買った、詳細な解答付きの問題集だった。これを50回回す。
数学は私の課題だった。旧帝大の数学に勝つこと、どうすればいいのか。私はZ会の200ページほどの問題集を問題を読み、すぐ解答を読んだ。赤鉛筆片手に読んでいった。精魂込めて読んでいった。この問題集は、数Iが少し、ほとんどは数IIBの問題だった。二次関数、高次関数、三角関数、楕円、微分積分、順列と組合せなど問題は高度な問題が200問。私は黙々と3回、4回と回していった。10回回した頃だろうか、私の中に変化が起きた。問題を見ただけで、頭の中に解の道筋が、数式が流れるようになったのだ。私はさらに回した。ある時、一つの過去問を解いたことがあった。今度は、200題で用いた解のパーツ(過程)が、これはこのパーツだと、たちまち解けていた。回すごとにわたしは、解の方法どうしが融合してよりよい解を導き出す、そういうことを無意識にやれていることに気づいた。わたしは毎日毎日黙々とひたすら回した。
本番ではなんと数学95点を取ることができた。入学してわかったのは、合格者に聞いてわかったのだが、たいてい数学50点そこそこという人ばかりだった。
帝大の英語は、長文ばかりで、傍線部の解釈だけだった。だからひたすら単語を覚えた。
文法もかなり問われる私立とは違う。わたしは旧帝大に特化した勉強をした。もちろん英作文も出た。知ってる単語を繋いで並べる。それだけだった。
山川用語集作戦はどうだったか。九大の日本史、世界史とも、一問1点の各60問。わたしはひたすら用語を埋めた。世界史の地図絡みの問題には慌てたけど。
生物は60点満点。半分は取れたかな。細胞分裂の様子を図でかく問題が出て、これは数研の例題にあったからかけた。生物は捨てていた。ただ一通り基礎知識はもともと得意科目だったからやってはいた。
迷わない。したがってブレない。
菊池寛の「恩讐の彼方に」では、耶馬溪が出てくる。
おんしゅうのかなたに【恩讐の彼方に】
小説。菊池寛作。1919年(大正8)「中央公論」に発表。主殺しの罪を負いながら豊前耶馬渓の難所に隧道を開こうと志す了海と、彼を父の敵とねらう実之介とが協力して、了海の悲願を達成するまでを描く。
絶対に合格するという一念を持って一身をかけて励む者には不可能と思われた岩盤さえも貫き通す力が宿ることをわたしは知っている。
過去問はやったことがない。正直なところ最初やろうとしたが、歯が立たなかった。だからやめた。
模試は10月だったか、一度だけ受けた。大分県全県模試だ。
判定は、「合格不可能」、絶対不可能の成績だった。
でもわたしはめげなかった。わたしのノルマはまだ始まったばかりだ、と言い聞かせた。私は50回回したときこそ勝負だと思った。だから目の前の絶対不可能な事実はスルーした。
結局、過去問も一度もやることもなく、問題集の類いもやることなく、私はいきなりの本番に臨んだのだった。
国立一期校、旧帝大、九州大学の入試は、3月3日4日5日の3日間に渡って行われた。
わたしは別府から前日に博多の街に宿を取った。前日は雪が降りしきり積もって寒かった。明けての朝は晴れ上がり、積もった雪を踏み分けながら六本松の試験場へと向かった。私は心を無にして本番に臨んだ。
朝、冷たい空気が身体に染み込んだ。あの空気には独特の臭いがあった。今でも冬の朝の空気に触れると、ぶるっと武者振るいして、あの試験場に向かう日の朝を想い出す。
この時の空気の匂いはいつも冬が来ると私にその時の空気を思い起こさせた。
3月15日合格発表の日。当時、九州大学の合格発表の掲示板はテレビで西日本全域にライブ放送された。スポンサーは九州英数学館予備校だったかな。
母と祖母が手を取り合って喜ぶ光景が目に浮かぶ。
その母も祖母も今はいない。