2020.10.10
何が欠落していたのか~自生の芽について
一球入魂
一撃必殺
全力投入
現実、今やっていることに全力を尽くす姿勢というものが、未来の勉強の成否を左右するということがわかっていない。これは小学生の話しだが、指導の際、レジュメを出してくると、まあ、たいていはできてないわけです。それで「これはこうだ」と説明するわけです。それで「わかった」とサッと引き上げていく。そこまではいいのですが、次に、次のレジュメをやってまたやってくる。とにかく速い。デタラメ書いているから速いのは当たり前なんですが。オイオイ、さっきのはちゃんとわかったのか、もう一度考えろよ、そのままに終わらせるなよ、ノートにくらいちゃんとまとめろよ、とツッコミたいところは多々あるわけです。
それから字がとにかくひどい。ノートにまとめるなどいうことが虚しいほどに乱れた字を書く。
こういう子を指導するというのは、実りある指導ができるのか、難しいわけです。
公文で悪字の訓練してどうするのか、親がやるべき義務を果たしていない。
公文に通うことは別に悪くはない。だが、字はそっちのけで成果ばかり褒め称える。そんなことをやっているから、一番大切なものを見失うことになる。これは親も子も同罪だ。
子どもには、その時に、やることに全力をかけさせる。これが教育である。親が親の都合で勉強を蔑ろにするから子どもが勉強を舐めてくるのだ。
せっかく勉強やってるのに、親の都合で勉強は後回しにする。盆だ正月だと勉強はいつも先送りされる。習い事、稽古事、スポーツ、勉強を先送りする原因に事欠かない。
それで受検落ちたと泣くな。どんだけ勉強を、軽く見ているのだ。
合格という獲物を狩るために、どれだけ寄り道しているのだ。どれだけ手を抜いているのだ。どんだけ余裕があるのか。
よくそろそろ真剣になどという人間がいるけれど、何を言っているのか、最初は手抜きかよ、とツッコミたくなる。
教育というのは、将来立派な人間になるためにやるのではない。それは建前だ。将来一人立ちして食っていける算段をしてやるのだ。生存競争の中に放り込まれても立派に食っていける手段を持たせる。生存に使える智恵を用意してやる。だから字がまともに書けるというのは、生存に必要な手段として必要なのだ。子どもがバトンに夢中、子も親もサッカー命、親子でバスケに夢中、野球がすべて、いやそれはかまわない。ただそれで受検も成功するつもり、というのが、わたしには理解できない、と言っているのである。スポーツをやって勉強は適当にやる。それでもいい。親がそれで食っていける算段があるのだろう。しかし、それで受検も成功するなどという虫のいい話しはないし、そもそも多くの人にとっては受検は食っていくための戦いである。
生存競争を生き抜く戦いとは、いやその戦いに必要ない素養とは何か。
考えれば簡単なことである。文字を覚えることである。人間が社会的存在である以上当たり前のことである。文字で自分の意思を表現し、伝える。何を伝えるか、自分の考えである。わたしたちは考える存在である。いや存在でなければならない。私たちは、だから、知恵をつけなければならない。知恵とは工夫である。知識ではない。知識をつけただけの人間には思考がない。知識ではなく知恵である。学問は人間が知恵をつけるために必要である。例えば、算数ほど人間の知恵を涵養するのに、最適の方法はない。算数というのは、数学と違って文字で推論しない建前だ。公式もない、大手が公式を教えて解かせるなどと言うことを当たり前のようにやっているが、公式などというものは、知恵を腐らせるだけである。私たちは知恵の使い方を算数を通して学ぶのだ。知恵を絞るということを何度も経験するのだ。あ~でもない、こ~でもないと悩み、知恵を使う。そうすると次第に知恵の使い方をコントロールできるようになる。知恵というのは、四六時中そのことばかり考えていると、ある時、いや突然閃くことがある。そうだ、私たちはほとんど偶然に解の糸口を見つけている。知恵というのはそういうものなのである。知恵をちょっと使ったからといってすぐにわかるということはたいていはない。知恵は何度も何度も挫折を繰り返しながら働かせ「続ける」、そうやって初めて閃く瞬間があるのだ。ちょっと考えてわかりませんとか、もう1時間も考えたのですがわかりません、とか、そういうものではないないのだ。それから知恵を働かせる訓練をしているということの自覚がないのか、誰かに尋く、訊いて解決しようとする子が必ずいる。しかし、そうやって、ヒントを、もらって解いても、それは知恵を使うということをやっていない。ヒントを根拠に考えるという頭の使い方を訓練しているだけである。ヒントをもらって考えてできたのをちょっとヒントをもらったといって自分で解いたようなことを言う。しかし、こういう子は決して知恵というものの使い方に熟達することはないし、閃きを得ることもない。もちろんヒントをもらって「あっ」というのを閃きと勘違いもする。しかし、ヒントというのは、実は、閃きの芽を摘み取る行為にほかならない。つまり、知恵を殺す行為である。
わたしは子どもたちに将来生きていくために是非に必要なもの、それこそが考える、知恵を働かせるということであるが、を手にすることを最良の教育と考えてきた。それは与えるものではなく、子どもたちが自ら知恵を働かせることによって自己のうちに育てるものである。私たちは、その手助けをすることしかできない。ここで、手助けというのは、問題解決のヒントを与えることでは決してない。私たちが為せるのは適切な教材を与えるところまでということになるが、わたしは特に、低学年のみなさんに考え方の枠組みというものを考案して与えてみた。しかし、子どもたちが知恵を働かせる場には踏み入れない。そこは子どもの自生の芽を育む神聖な場であるのだから。いったん大人たちがその領域に足を踏み込めばたちまちその自生の芽は枯れ果てて、依存の嵐が吹きすさぶことであろう。
わたしは、竹の会は、常に、子どもの自生の場を尊重して、その教育に携わってきた。しかし、自生というのは、生まれ持った才能に規定される面が多い。病弱な心、打たれ弱い心、甘えた心、依存の心が、自生を阻む。
子どもが本来持つ自生の本能を如何にして育むか、これこそが竹の会が長い間テーマとしてきたことにほかならない。しかし、自生の芽はいつでも摘まれる運命の芽ではある。
親の恣意的な口出し、行動が子の自生をいとも簡単に摘み取る。
竹の会で失敗する子の特徴を一つあげてみよう。これは中々に興味深いものである。
親が一切指導に口出ししない子は成功し、何かと口出しをする親の子は失敗しやすい!
いわゆる注文を出す親は、子を破滅させる。
口出ししない理由を子に聞いてみると、いや親御さんのメールにもあったが、「わたしは勉強のことは一切わからないので」とか、「算数はもうわたしにもわからないので」とか、いうのが多い。他方、何か口出ししてくる親というのは、とにかく子どもの自生の場に平気で入り込み、支配する。この中には、自分でも教えるという親から、自分ではわからないから、画策するという親まで、多様である。画策というのは、学校説明会やママ友などの情報交換でふくらんだ情報で攪乱することである。
竹の会は、自生を促し、自生の成果を見る。だから時として、自生に失敗するケースも出てくる。
能力が追いつかないために、自生に失敗するのは、いたし方ないことである。
人は最低限の持って生まれた能力がない限り自生はできないのだから。自生とはそういうものである。
自生の芽と習い事、稽古事、スポーツ
小学生の場合の習い事等はどうしても親の深入りが大きい。そのために自生の芽が育つことはない。自生の場に常に親が入り込むからだ。自生の場で過ごす時間も断続的で、芽が育つ環境にはない。稀に中学などで野球をやりながら受験に成功したなどという話しが聞こえてくるが、これはもともと自立精神の高い子が自生の場を大切にもしていたということであろうと思う。通常は、部活に流されて自生の場そのものが消滅しているのが普通だからである。