2021.04.09
見えないものを予測することの困難
そもそも人間は、これから起こることなど予測できるのか。
占い
星占いとか、タロットとか、トランプ占いとか、信じる人も多い。げんをかつぐスポーツ選手、芸能人も多いようだ。
さて、もし占いが当たるのなら人の未来はすべて決まっていることになる。もし当たらないのなら占いは不要である。人の未来が、生まれたときから、決まっている? そんなことはないでしょ。
もっと科学的な予知というのもある。
天気予報はかなり正確にはなったが、長期予報はよく外れる。
天気予報が正確になったのは、人工衛星の進歩、レーダーの進化に負うところが大きいと思う。
地震予知は、難しいようだ。
未来はわからないから信仰がある。未来は、未知であり、不安であり、恐怖である。
原始の昔から人間は、恐怖というセンサーがあるから生き延びて来た。動物はまず恐怖心で行動する。人間の赤ちゃんは、まず恐怖心が分化すると聞いたことがある。恐怖は、外敵から身を守る。動物や人間が生き延びていくために研ぎ澄まされた恐怖心が必要なのである。
しかし、恐怖心は行動を萎縮させる。思考を停止させる。これは本能的なものであるからしかたないのか。
ところで、人間は本性的に怠惰なのではなかろうか。
怠惰心というのは、律する心で制御するしかない。これはなかなか防御的なものである。
怠惰心は、むしろ積極的な行動で制御するものだ。なぜなら行動しないことが、すなわち怠惰だからだ。つまり、行動というのは、考えてからやるものではない。考えないでやるのが行動である。行動している限り怠惰はない。表裏である。怠惰は行動の裏である。勉強はやろうと決意してやるものではない。すっと机につく、何も考えずに本を開き読む、考える、これが勉強するという意味である。勉強しない人間は、方法がわからないからできないのだと言う。勉強の仕方がわからないからしないのだと言う。しかし、これは違う。方法というものは、予め、事前に用意しておいてから勉強するというものではない。方法は勉強する中から生まれるものだからである。方法は勉強という母が産むものである。母のいないところに子の方法が生まれる道理はない。
やるかやらないか、そういう問いは、実行する者にはない。そういう問いを発するのは、怠け者の論理だ。やることに踏み切れない、それだけのことだ。
やり始めたらやめない。勉強のこつはそういうことなのだ。家族旅行で勉強を休むのは小学低学年まで。今は新型コロナのため家族旅行をすることもないかもしれない。子どもが勉強するようになると、特に、中学、高校になると家族と旅行するなどなくなる。そういうものだと思う。
竹の会では、受検の期間は、勉強一筋でやっていただきたいと希望しています。習い事、稽古事は、やはりマイナスと思います。かつてはそれでも「合格できる」とたかを括っていた母親もいましたが、現実は甘くはなかったと思います。そういう親子は悉く失敗しているからです。小6になってもこっそり習い事、稽古事を続けていたことは、不合格となった後、耳に入る情報で知ることが多かった。受検に専念してなかったんだな、と後で知る。
話しは脱線してしまいました。
私たちは、見えないものを予測するのは苦手なのだと思います。新型コロナの政府の対応を見ていると、この人たちは、東大出て官僚になり、曲がりなりにも政治家として先の見えない世界の中では日本を導いていくのが仕事なのではないか。しかし、何も見えていないではないか。新型コロナウィルスというものをなんと甘く見ていることか。世界の蔓延が現実なのに何か日本は別と考える思考が私には理解できない。こんな状況になっても、これまでやってきた利権優先の政治をやめようとしない。隙さえあれば利権政治の復活を目論む。しかし、新型コロナはそういう甘い認識を決して許すことはなかったし、これからもないだろう。
よくイスラエルのワクチン判断が称えられるが、あれはイスラエルの国民が日常に生死の境にいることと関係があるのではないか。日本のようにいつでも蛇口を捻れば清潔な水が出てくる、スイッチを入れればたちまち明るく電気が灯される、そんな環境に生きている国民とは、違うのである。
見えないものを予測する。私たちは真剣にそういうことを考えなければならない時期に来ている。何もかも、そう未来のことは予測などできない。クリアに見通せることなどないのだとは思う。予測は難しい。長い間、合否予測をしてきたが、苦い記憶が蘇る。不幸はいつも予期せぬ形で訪れた。後から考えれば「ん?」という引っかかりはあった。平均点より低い点を取っているのに判定が高い、ん?なぜ? 流石に模試の成績があまりにも低いのは、プラス判断とはならない。生徒の実相を完全に掴んでいなかったということにつきるのか。そう言えば、英文解釈をあまり出さなかったなとか、数学のレジュメの解答率が低かったな、とか予兆はあった。
データの取り方、判断の持って行き方など、難しい。
自分の中で、「これは合格する」という域まで確信するのは、ある意味怖さもある。わたしの判断が、主観的なのではないか、と懼れる。だから客観的な傍証をしていく。模試で名前を載せたこと、普段のレジュメの解答率の高かったこと、課題の正確度(字がしっかりしていること、正解率、意味取りの正確性、レジュメの管理の丁寧さなど)、礼儀正しい態度、言葉使いの丁寧さ、そういうことが、わたしには、「この子は合格する」という判断には大きな要因だと感じている。
わたしは、合格の確信を得たかった。だから主観的ないものを排除して、客観的に、生徒の実相を見定めたかった。
私は、そう思うと、過去問を静かに読み、わたしの心に、私のセンサーに反応する問題に立ち止まり、ひたすら考えた。「これだ」、これなら子どもの思考の質を調べられる、試せる、私は、子どもの思考の質を正確に測定したかった。そのために、私は、どうしても、脳を測るレジュメを制作したかった。私のレジュメで、子どもの正確な力を測る。私のレジュメの意図は「これしかない」というほどに固まっていた。だからわたしはレジュメの制作において、執拗に能力の質を測るのに使えるかという視点から問題を丁寧に掘り下げていった。問いに対して直感で答えられる問題では思考は測れない。私が単層問題と名付けたものだ。私は多層問題を理想とした。問題を読んでいる最初は隠された層が見えてこない。論理的な推論でこの見えない層を見つける。わたしはそういう問題を目標とした。
竹の会では、適性問題について思考を測る指導をしている。
しかし、竹の会では、その前に、算数による思考訓練が必須である。
算数は思考を深める訓練として最適である、
算数の魁5
兄と弟はエスカレーターに乗ってホームのある階から改札のある階まで移動します。兄が5段歩いて上がる間に弟は3段歩いて上がると、兄は50段、弟は40段歩いたところで改札のある階に着きました。エスカレーターの階段は何段ありますか。
青山学院の問題です。実は、小6の子が、「先生、この問題おかしいです」と言ってきたものだ。他の子を指導中だったので、サラッと目を通して、問題の深層が読み取れなかった。それで家で読んでから、ということで保留した。新作のテキストの場合、センサーが反応したものを取り上げるので、質問が来てから解くことにしている。忙しいというのもある。
エスカレーターの問題の盲点は、例えば、この問題に即して言えば、兄が50段歩くのにかかった時間と同じ時間、エスカレーターも移動している、点だ。これは目に見えない事実だ。このことを前提として辻褄合わせをすることだ。そうすればこの問題の意味がわかる。別に間違ったことを言っていないことがわかるはずである。
ちなみにわたしは件の小6から質問を受けて、その日帰るとすぐ目を通した。問題が、複雑そうなときは、家に持ち帰り、朝解くことにしている。しかし、この問題は、帰宅してお風呂が沸くまでと思い取り組んだ。5分ほどで解けた。しかし、子どもたちを惑わすにはいい問題だ。算数の魁5に、これから取り組む子については、教えることはしない。自分で、カラクリを解明してほしいからだ。そうなのだ。算数というのは、問題を作る人が、なんらかのカラクリを想定している。だから私たちは、製作者、出題者の意図、カラクリを見抜がなければならない。それが、問題の意味がわかるということである。
竹の会は、算数を通して、思考の力を最大限に極める方法を開発してきた。算数の力をつけることが、すなわち思考力をつけることになる。
どんな子でもとは流石に言えない。だから入会試験を実施している。
入会試験の趣旨
都立中高一貫校の合格をめざす、志しある児童を求める。
入会試験は、入会後の指導が円滑に進められるか、すなわち学習の進捗が滞りなく進められるか、をも視野に入れている。と言っても、一度限りの入会試験だから見落としもある。入会試験にたとえ合格したとしても、実は、指導に堪えない場合があるのは避けられない。こういう事態については、指導に耐えない子は入会をお断りするという入会試験の趣旨から、やはり退塾をお願いするしかない。
進捗が甚だよろしくない、という事情は、紛れもない退塾相当事由です。ご相談があるとき、私としては、それは竹の会の指導についていってないのだから、退塾のご判断をして然るべき事情かと考えております。
「先生、これからもお願いします」とはならない。それは、入会試験の趣旨に計れば、そもそも入会を許されない場合だったのだから。
進捗が捗々しくないというのは、竹の会の指導をもってしても指導困難とされることが、明らかな場合であり、先生と相談してなんとかなるという問題ではない。さらに、これから頑張ればよくなるのか、という問題についても、一つの答えがすでに出ている。
私が「合格するだろう」と言うとき、あるいは「合格させてやろう」というとき、合格した。不思議と合格した。見えないものを予測することは難しい。だからわたしは様々な検査をして、未来の結果を予測した。確かなものを一つ一つ積み重ねて予測した。子どもたちの心の静けさが、私には確かな徴憑になった。子どもの不安な表情、落ち着きのない仕草、お喋りは、私には不安材料でしかなかった。静かな落ち着きを感じる、不安を悲壮感で打ち消す強い意志を感じるとき私は安堵した、少し安堵した。不安を強く打ち消す決意は子どもの強い合格の決意である。
子どもを送り出すとき、来し方の子どもとのやりとりが、わたしには蘇る。確実に合格ハンコを取った、その事実だけが、わたしを安心させた。わたしの勝負問題が「できない」とき、わたしは不合格を確信した。無理かな、と脳裡に走る。わたしの合否判定レジュメを確実に解く子、解いた子は、合格した。これほどはっきりとしたことはない。
わたしにはわかっていた。わたしの勝負レジュメに負けた子は決して受からない。わたしは子どもたちをわたしの勝負レジュメでとことん突き詰める。私が、「合格するだろう」と言うのは、そういう過程を経て、検証を重ねて、のことである。確信の持てるまで私は検査をするだろう。わたしの渾身のレジュメに合格ハンコを取った、そのとき、私は心に平安を感じる。心の中で、「あなた、受かるよ」とつぶやく。私が合格を確信するのは、そういうときです。
あなたたちは、わたしに、「受かるよ」と言わせるほどにならなければならない。私が何も言わないのは、受かるという実感がないからだ。そういうときは何も言わない。わたしは頑張っている子たちの背中を応援することしかできない。奇跡が起きればと思いつつ、送り出すしかない。
塾の先生というのは、辛いものだ。非情な判断をせざるを得ない。早くからダメ、無理とわかるから、だから、高校入試でなんとかしてやりたいという気持ちになる。ダメなものにそんなに執着することはない。そう思う。高校入試は、努力で能力をある程度カバーできることを知っている。ただし、ある程度である。トップ都立、難関私立は、地頭が良くなければやはり無理と思う。しかし、わたしは、数学がダメな子が、青山に入った例を体験した。
都立失敗を嘆くことはない。
戸山でも青山でもそして日比谷でも、合格して浮かれて舞い上がり、落ちこぼれた子たちならたくさんいる。かたや都立に落ちて、東北大、早稲田、慶應、明治などに受かった生徒もたくさんいる。最後は、大学で決まる。高校入試は、最終ではない。都立に受かって舞い上がる、そこが最終着地点ではないのに、もうなにもかもうまくいくと思い込むのは、あまりにも短絡であろう。時期尚早である。臥薪嘗胆という言葉がある。
がしんしょうたん【臥薪嘗胆】
(名)スル
〔「史記越王勾践世家」「呉越春秋」などから。中国の春秋時代、越王勾践に父を討たれた呉王夫差は常に薪の上に寝て復讐の志を奮い立たせ、ついに仇を報いた。敗れた勾践は室内に胆を掛けてこれを嘗め、そのにがさで敗戦の恥辱を思い出してついに夫差を滅ぼしたという故事による〕
敵を討とうとして苦労し、努力すること。目的を達するため苦労を重ねること。肝を嘗む。嘗胆。
私たちは、臥薪嘗胆を肝に銘じて生きている。失敗は人間には当然のこと。だからそこで潰れない。決して潰れない。臥薪嘗胆。君たちは、この言葉を座右の銘として、積年の恨みをいつか晴らして欲しい。
都立高校に合格した途端に、臥薪嘗胆が消えてしまうこと、そのことのほうが怖い。人は臥薪嘗胆を失くしたら、油断だらけだ。
人生とは、失敗であり、臥薪嘗胆である。生きるとは、臥薪嘗胆を生きることにほかならない。小さな失敗、大きな失敗、そして束の間の成功、成功は一瞬のもの、成功にいつまでも浮かれるな、常に臥薪嘗胆を肝に銘じて努力している者がいつかはあなたの成功をはるかに凌ぐ時がやってくる。だから成功は将来の大きな失敗の予告である。臥薪嘗胆の精神は常に胸に秘めて艱難辛苦に敢えて身を投じてこそ未来に襲いくる苦難に打ち勝てると知らなければならない。