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言語論的転回とは

2022.11.22

 

矢印「→」という方法
 知識の整理に「→」が効果的ということを知ったのは、いろいろな参考書を何気なく読んでいるときに、それとなく→で示された図であった。かつて読んだ民事訴訟法、民事執行法の体系書は、わかりにくいものであった。その後、ある弁護士の書いた本を読んだとき、これはわかりやすいと思った。その理由は、すべての法律関係を「→」で図示していたから。私は、もしかしたら「→」というのは、理解の特効薬なのかも、と思った。「→」という記号は、山道の分岐点の立て札、道路交通標識、鉄道の通路の誘導、遊園地、動物園の通路順などに使われるように、実は便利この上ないものである。
 「→」が、印象的だったのは、高校数学IIBで習った「ベクトル」だった。ベクトルは空間で用いられる→であり、端的に「方向」を表す。また、→の長さは、「大きさ」を表す。数学というのは、まず約束(定義)だから、そこからです。かつて都立西の生徒を高校3年間指導したことがあった。大変優秀な生徒で、西でも3年間学年50番内にあった。英語と数学を指導していたのだが、数学は、「大学への数学」の別冊シリーズを使っていた。その生徒が家で解いてくるのだが、質問として持ってくる問題は、かなりの難問と決まっていた。わたしは、問題を読んで、問いの意味を取ることに集中する。そして私のやり方は、必ず、定義から考えて行くことだった。それでわたしはそもそもの定義を述べていく。すると不思議と解の糸口が見つかるのだ。東大とか、東工大とか、理系だったので、かなりの難問ばかりだった。今思い返しても、よくあれだけの問題を解決していったな、と思う。その生徒は、わたしが、定義から問題を読み返して分析していると、たいてい途中で「あっ、わかりました」と言ったものだ。彼は、東大受験にまで成長していた。彼が竹の会に来たのは、小6の4月。「東工大に行きたいです」と既に進学したい大学も決めていたのだ。結局、東大2回受験。慶應の理工に進んだ。全国模試20番台の天才であった。
 わたしが出会って来た天才たちは、類い稀なる集中力において卓越していた。
 ここで、集中のコツを述べておきたい。
 最初から1時間集中しようなどと思わないことだ。30秒でいい。30秒だけ全集中をしてほしい。全神経を集中させてほしい。そしたら、まだいけそうだ、そんな気持ちになる。だからもう30秒だけ集中してみよう。それでいい。5分間すると不思議なことに、脳内のモードが変化していることに気づくはずだ。
 私の今の関心は、「→」の効用の研究である。理解、記憶に、この「→」を効果的に用いる方法、である。
 私が、なぜこのようなことに意義を認める、気持ちになったか。
 岩波講座第4巻「言語論転回」の影響を受けたことは、正直に告白しなければなるまい。言語論的転回とは、哲学の世界のコペルニクス的転回に相当するとされている。いわば天動説から地動説への転回である。哲学では、ソクラテス哲学で説明すれば、対象とその認識を軸として、存在を論じた。しかし、言語論的転回は、対象は、言語で表せられて初めて言語世界に登場する、言語で表せないものは、存在しない。ゴミという言葉があるから、ゴミがある、というわけである。人が言葉に涙するのは、言葉そのものに真理がある、根拠となるだろうか。母の手紙に涙するのは、母の言葉にだろうか、母という存在を思ってのことだろうか、「母」という言葉、そこから生起する、言葉で語られるエピソード、物語、追憶、すべて言葉である、
 よく私たちは、謝ってほしい、という。それは言葉を求めているのであろうか、態度という存在を求めているのであろうか。
 末期癌で若くしてこの世を去る、母親がまだ幼い我が子に語りかけるのは、言葉ですね。
 自分が死ぬということを納得するのも言葉ですよね。
 わたしたちは、言葉によって暗示を受ける、影響される。
 宗教は言葉で人を洗脳する。言葉がなければ宗教は成り立たない。仏教のお経は言葉に不思議な力があるとするものです。ハリーポッターは、魔法の呪文という言葉がなければ、魔法は使えない。名僧の説法は、言葉がなければありえない。チャーチルの演説も言葉の芸術、人を魅了する言葉の芸術でした。
 わたしたちは自由に言葉を操る錯覚に陥っているが、実は、言葉が私たちを支配している、コントロールしているのではないか。 
 詐欺師は、言葉巧みに嘘をつく。言葉が人を騙せることを知ってのことである。わたしたちは言葉に騙される。本物の明の壺という言葉に騙される。壺を見て本物かどうかを判断はしない。いや、できない。言葉が真贋を左右するのだ。骨董屋の饒舌、著名な鑑定家の無責任な言葉、好事家の超主観な言葉、言葉が人の心を動かすのだ。壺そのものではない。なにしろ誰にも真贋なんかわかるはずがないのだから。哲学の世界は、言語論的転回に目覚めたが、わたしたちの社会も言語によって支配されていることは、自明のことではなかったか。小説だって、評論だって、言葉でしか、この世に存在できない、ではなかったか。
 哲学は既にその対象を物そのものではなく、物の認識の手段である言葉、言語にまさにコペルニクス的転回を成し遂げている。
 私たちは、言葉を付属品の一つほどの認識しか持たない。少なくとも、物、人間という実在を信じてきた。しかし、認知症の親が自分の子どもを認知できないとう事態になって、実在に疑いが生じてくる。認知という言葉による理解がなくて、ほんとうに存在すると言えるのか。生きているとは、言語の世界の話ではないのか。

 「生きている」というテーマで、都立小石川の作文で問われたことがある。日野原さんの文章を読ませて書かせるもの。こういうときに、普段「生きている」ということについて考えたことがないと文章は書けない。日野原さんの文章は、「悲しいときの自分も大切だよ」というものであったが、日野原さんの考えはどうでもいい。「生きている」ということの言語の意味をあなたたちが一度でも言語世界で検証したか、である。そうでなければ書けないのはあたりまえだ。そういうときに、言語論で、「生物多様性」という「生きている」に関わる言葉を思いだしていただければそれだけで書くことが広がる。言葉とはそういうものである。作文を書くときに、「生きている」という実在論ではなく、言語に回答を求めてはどうか。生物多様性は生物が「生きている」世界の必然性である。人間の心だって多様性こそが「生きている」ことの必然なのではないか。

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