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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

試験と集中

2022.11.01

竹の会通信2022.11.01

冬期指導 11月早期締め切り予定です!!

 ご注意 

 申込みは、お早めにすることをお薦めいたします。

 外部の体験申込みを受け入れるため、早期にテキスト等の教材を引き渡すため。

試験と集中
 範囲を確定(画定)するから集中、つまり「絞る」ことが可能となる。記憶の最大の敵は、拡散する知識群である。増殖する、これから覚えなければならない、理解しなければならない、未知の知識群が、思考を妨げる。際限のない拡散、境界の曖昧さ、理解部分の曖昧さ、輪郭が暮夜け、そういうものが、思考を無力化する。
 試験の集中を極大化するのは、知識を絞るからである。「これだけでいい」「これだけで戦う」そういう「だけ」という限定が、先述したすべての問題を解決する。いいですか、勉強というのは、「だけ」でいいという、これが精神を集中させ、極限にまで思考の力を高めるのです。
 そういう意味で、難関試験は、ここまでという見切りが大切なのです。
 そもそも範囲が画定しなければ、何回も回すということはできない相談です。司法試験受験生が、ノートにまとめる、というのも、できるだけ最少の知識量に確定しようとす意図からです。直前に回せる量は少ないほどいいのです。しかし、問題は、そのまとめの対象となった質と量です。これは選ばなければならない。人間の限界を越える量をまとめるというのは、あまりにも不毛だからです。また、質の悪い知識は使いものにならない。つまり、もともとの量もあれもこれもと広げては意味がない、また価値のない知識をまとめる価値もないということです。価値とは、偏に試験に合格できるかどうかで決まることです。学問的に価値が高くても、試験で重視されていなければ無価値です。
 わたしはノート派ではないので、もっぱら出来上がったテキストの選択を重視することになります。かつての時代と試験の環境はまるで変わりました。情報化が社会に浸透し、試験の情報もネット、ネット市場を通じてたいていのものは手に入る時代です。だから選択の時代です。私たちは、必ずしも、高いカネを出して予備校に通わなくても必要な資料は手に入れられる時代にあります。もちろん司法試験、公認会計士試験などに合格している人の99%はどこかの予備校に行っていたことでしょう。しかし、公認会計士はいざ知らず司法試験は、予備校は必須ではない。法科大学院という簡易ルートができたからである。公認会計士もアカスクという抜け道がありますけど。
会計大学院とは、会計プロフェッショナルを養成するための専門職大学院です。 アカウンティング・スクールやアカスクと呼ばれることもあります。 一般的な大学院は各分野での学者を養成することを主目的とした課程ですが、会計大学院は会計分野の高度な実務専門家を養成することを主目的とした課程です。
 アカスクを利用すると、短答式試験の科目の一部が免除になる。ただし、費用は、2年間で300万円ほどかかる。ちなみに法科大学院は年間108万円(初年度)ほどである。
 中学受験・受検について
 範囲を画定するのは、変わらない。私立なら理科、社会の範囲を確定する。これは進学塾のテキスト一式を揃えればいい。小5・小6のもので足りる。中学受験の理科、社会は、高校受験の理科、社会と重なる部分が多い。中学入試に特有なところももちろんある。例えば、理科で、滑車とかまず高校入試では出ない。例えば、オームの法則は、高校入試では、数学を使うので、中学入試とは出方が違う。社会だと概ね重なる。まあ、小学生に、理科の理論を理解させるのは、中々に難しいことはある。数学のできる中学生に理論を教えるのとは自ずと異なる。電流とか抵抗とか、根気強く教えていかなければなるまい。社会は、地理、日本史、公民と知識は小学生には広範囲過ぎると言っていい。問題集を軸に、逆読で、何が重要かを理解させながら、ノートにまとめる、カードを作る、など地道に覚えさせるようにすることである。
 適性問題の理科、社会は、やや事情が異なる。適性の理科、社会は、問題にヒントが必ずあり、理科は、重要なテーマに絞られ、社会は、知識よりも資料、グラフの読み取りが、主力である。特に、理科、社会を別仕立てでやる必要は感じられない、と言いたいところだが、理科については、近年やや中学受験に似てきたかもしれない。電磁誘導、水溶液の性質など重要テーマについては一通りやっておくのが、ベターだろう。もっともこれも過去問題集の逆読みで間に合うレベルではある。
 受験・受検の成否は、算数にかかる、であろう。つまり、算数を極めた者が成功する可能性が高い。受験・受検にとって算数は、生命線である。時間をかけなければならないのは、算数である。算数は、才能がものを言う科目でもある、才能がなければ受験は考えない方がいい。算数にかける時間を考えると、理科、社会を如何に要領よく済ますかが、成否の鍵になる。国語の読解については、読解法の類いがやたら出ているが、そんな方法論よりも、小学生は圧倒的に語彙が不足しているのだから、まずはそこからである。中学受験の評論文は高々小学生にどれだけ高い読解力を求めているのかと思うのだが、これは幼児性から抜け切れない小学生には不可能を強いるものである。意味と論理を求めている。語彙力と社会的視野、教養を求めている。読書ということでもない。読書好きという小学生、中学生が必ずしも国語ができるわけではない。問題意識を持って、国語の教科書なり、問題集の問題文なりを読めているか、である。これを哲学できているか、と言い換えてもいい。読むとは、偏に「意味を取る」ことであり、文脈を追跡する、つまり意味を繋ぐことである。文脈の定義については、受験国語の著作が数冊ある石原千秋は、何も触れることはない。当然わかってる、という態度である。石原の恩師らしい高田瑞穂の「新釈現代文」は、現代文読解のキィーワードとして、「追跡」と「停止」をあげる。追跡とは、意味の追跡であり、停止とは、その停止である。つまり、石原も高田瑞穂も文脈とは、追跡と考えている。文脈とは文の意味の追跡であり、読み手は、執拗に意味を追跡していかなければなならないのである。この意味の追跡という意味での文脈を追う訓練は有効と思う。適性問題は実に意味の追跡にほかならないからである。

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