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語彙の量が多ければ、それだけで文章が書けるものか

2021.01.12

 

◎語彙の量が多ければ、それだけで文章が書けるものか
 この点については、入試問題に次のような文章があった、出典は不明。
 否である。語彙の質というものがある。語彙の質とは、言葉のひとつひとつを自分の経験によって定義し得ているかということである。言い換えれば、ことばの意味の深さを自分の身につけているか、ということである。

 以上引用。

 以下は上記出典の筆者の見解を踏まえた私見です。
 例えば、「死」について
 辞書的な意味ならだれでも知っている。動物の死、虫の死、植物の死、たいていは自分の外の世界の変化程度にしか感じない。
 「死」の意味を知るのは、生活を共にした、苦楽を共にした、一心に愛を注がれた人の「死」を通してしかない。「死」を知らない子に死は書けない。
 ひとりひとりの人間の経験によって与えられた意味でしか書けない。
 これを、このことを無視して、何の作文教室なのか、わたしには、さっぱりわからない。
 ことばを知らないから書けない文章があるのである。辞書で意味を調べて書いた言葉には生命がないということだ。言葉一つ一つには生命の火を灯さなければならないのだ。
 自分にふさわしくない文章、まねごとの文章は、生命の宿らない言葉をただ羅列するだけだからだ。
 どんな人間にも書ける文章と書けない文章がある。生命の宿らない言葉を使って文章は書けない。
 書けない文章を書けないと知ることが大切なのだ。
 ここでも言葉と事実の関係性の問題が問われている。昨今は、事実の根拠なしの言葉だけでもの言う輩が増殖して、社会をわかりにくくしている。
 
 事実に目を向けること
 言葉は事実、経験で定義できること、それを知っただけで君たちは一つ偉くなったといっていい。
 頭の中だけで言葉を考えるというのは、言葉の含んでいる内容を思い出すだけのことであるから、思考の袋小路に入るだけである。発展のしようがない。
 私たちは、現実のありのままの体験や実感を「そのまま」言葉で伝えるのではなくて、むしろ言葉で考えて、固定観念で現実を割り切ってしまう。つまり、現実がどうであろうと、固定観念のどれかに現実をおしあててしまう。これは、現代社会の学歴のある大人たち一般の現実でおると思う。つまり私たちは事実を知らない、知らないで想像だけでものを言う。事実については素人ということの自覚がない。
 知識人とされる大人でもこれだから、子どもたちに事実、経験で裏づけられた言葉を使えというのは無理を強いているように見える。しかし、子どもは素直である。指導者がしっかりと導いてやれば偏見と狭隘に浸かり切った大人たちよりも、ずっと事実学を吸収していくのではないか、と思う。

 事実よりも言葉が先にあり、言葉によって事実を辻褄合わせしてしまう人間ばかりである。
 このような思考態度の人が溢れている。政治家、教授、弁護士、医師、専門家といわれる人たちには、そういう人たちで溢れている。
 外国の学説や理論を要領よく導入し、それが直ちに日本の諸現象に適用される、そういうことが、明治以来半ば公然と行われてきた。今の日本でも、学者や評論家にはそういう人が多い。
借りてきた学説や理論によって、日本の現実を分析し解釈するのである。そうなるとその理論にあてはまる事実だけが取り上げられ、あてはまらない事実は捨てられる。すると理論こそ絶対であって、都合よく取捨選択された事実はそれを証明するためにのみあることになる。
 事実によって理論を組み立てるのではなく、理論が先にあって、事実をそれにあてはめていくやり方である。法律学では、こういうやり方を、「演繹法的アプローチ」と言う。これに対置されるのが、帰納法的アプローチである。例えば、刑法の場合、まず法律があって、その文言解釈から、構成要件該当事実を法文と照らし合わせて、事実認定するという構造になっているからである。しかし、私たちが、現実に扱う事実は、規範などないのが普通である。事実からあるべき規範を探るといってもいい。
 先ほど述べたように、事実は如何にも危険である。
 事実は自分の都合のいいように解釈される!からである。
 銃乱射による多数の犠牲者が出たという事実は、銃禁止論者の根拠とされるが、銃を推進する人たちは、だからこそ身を守るために銃が必要だ、と言う。つまり、事実は、理論を変えることはできない。私たちは、事実はいかに評価するのか、人間の認識に常につきまとう認知バイアスは、事実の評価を危うくする。
 いや待てよ!われわれは事実を自分の都合のいい事実だけ取り上げて自分の主張の根拠としていないだろうか。
 私は子どもたちに、言葉を事実で定義しろ、と言った。作文が書けないのは言葉を辞書的意味でしか理解していないからだ。
 そうなのだ。事実は、言葉にするのは危険に満ちているが、言葉を事実で定義する分には問題はないのだ。

 

後記2021.01.12

 紅葉が好きだ。秋の京都には魅かれた。秋の金沢も風情のある街だった。春は風薫る草原が好きだ。もうすぐ春がくる。またあの頃のように志高湖には、蕨(わらび)が群生し、胸を躍らせながら、蕨狩りに興じた春がやってくる!
 小学生のとき、初めてバスで志高湖に行った。遠足だったのかな、よく覚えていない。志高湖は別府市街からバスで40分くらいの山頂にある火山湖である。ちょうど鶴見岳(標高1300)の麓にある。春には桜が綺麗で野焼きした山々には蕨やゼンマイが群生する。だから蕨狩りの人たちがたくさん訪れる。少年の頃、夢中で蕨を探したことがある。あの時は帰りのバスの時間を気にしながら夢中で小さな袋に入れていた光景を思い出す。
 バスは山と山の間を何曲がりもして別府市街に下りていく。途中堀田村を通るときいつも懐かしく見た。私たち家族は堀田村に住んでいたことがある。祖母の実家のある村である。村には2か所に温泉があって私たち家族は毎日入った。もちろん無料である。幼い記憶に母が私と弟を背負って温泉まで雪の中を小走りでかけて、私と弟を湯気のもうもうと上がる温泉に放り込んだものである。
 遠足で山を突き抜けて志高湖まで登山したことがあった。別府では有名な遊園地兼動物園「ラクテンチ」が山の高台にある。その遊園地を周りこんで上に出て、それから4kmほど、時間にして40分から2時間、急坂なのでかなりきつく時間もかかる。途中すぐ乙原(おとばる)の滝がある。その上に周りこみ、くねくねした山道をしばらく歩くとやがてひっそりとした杉林に差し掛かる。ひんやりとした空気が汗を吹き飛ばす。途中湧き出る清水を手にすくいとりよく飲んだ。杉林が途絶える頃、道は最後の急坂に差しかかる。ここは一気に登り上げる。尾根を超えると眼下に緑の草原と志高湖が広がる。
 水筒を取り出しゴクゴクと水を飲む。それから適当なところに陣取り、握り飯を頬張る。母の卵焼きとからりと揚げた魚肉ソーセージが美味かった。
 腹拵えが済んだら、いよいよ仕事に取りかかる。蕨の群生したあたりを探して見つけると一気に摘む。時にはゼンマイの大群に出くわすこともある。大きなズタ袋がぎゅうぎゅうになる。
 時間を忘れて気がついたらもうすぐ日没ということもあった。急いで帰り支度をして、ズタ袋を背負い足早に家路を急ぐ。帰り道は急勾配の下り坂、速足でラクテンチの上まで一気に駆け降りる。もう薄暗くなった道を速足で駆ける。「ただいま」、迎える、祖母の、母の、笑顔がわたしには一番の喜びであった。夕飯に蕨の味噌汁、ゼンマイのおひたし、蕨の煮付け、みんな美味しかった。
 母も祖母もわたしを最大限の褒め言葉で労ってくれた。
 わたしはそれが一番嬉しかった。
 わたしの家族は、ばぁちゃんと父と母が、あと姉がいて、弟がいた。
 父は姉と弟を可愛がり、私には冷たかったのだと思う。その理由はなんとなくわかっていたと思う。いつかこの街を出る、私の中にずっと燻り続けた思いだった。
 高校は一度か二度退学を考えた。父との仲は悪くなるばかりだった。高校卒業して一度は家を飛び出した。高校卒業の時、母に頼んで、自動車教習所に2か月通った。18歳で大型免許を取って家を飛び出した。東京-横浜間をISUZUの6t車で毎日往復した。この6t車の操舵術を私は1か月でものにした。これにも一つのストーリーがあった。また機会があれば触れたい。5か月ほど働いて、旧帝大に入りたいという気持ちが募るばかりで、止めて別府に帰った。京大に行きたかった。数学I、数学IIB、英語、現国、古文、漢文、文学史、日本史、世界史、生物、これだけやらなければならなかった。なかでも数学は難関だった。いやどの科目も一つとして楽なものはなかった。わたしは1科目ずつ旧帝大の合格レベルを想定して勉強していった。1科目ごとにストーリーがあった。苦難、苦節の時期だったのだと思う。一度だけ受けた模試は番外だった。正直不安だったが、メラメラと燃える情熱は凄かったと思う。激しい熱情をもって受験した。わたしは奇跡的に合格を果たした。3月の3日4日5日の3日間にわたって行われる一期校入試まで5か月ほどしかなかった。わたしは朝目を覚まして夜寝るまで勉強した。世間の行事も何も関係ない生活を送った。早い朝食を食べてから12時まで勉強、昼食を食べてから夕方まで勉強、温泉に行き、夜は早めに寝た。仙人のような生活をした。食事は祖母がみなやってくれた。実家には、NTTに就職した弟と祖母と私の3人だけだった。父は駅長になり母と官舎住まいだった。姉はすでに嫁いでいなかった。仲の悪かった父との確執もなく、勉強に専念できた。幸運な環境がわたしを助けてくれた。
 わたしは、母と祖母の喜ぶ顔が好きだった。
 少年の頃、いつもわたしを庇ってくれた祖母と母、わたしが真っ直ぐな気持ちを持って生きてこれたのは、祖母と母を悲しませまいと心に思い続けたからなのだと思う。だから旧帝大はわたしの譲れない道だった。いつもわたしを高く評価してくれていた母と祖母、わたしにはいつもその思いがあった。
 もうすぐ春が来る。またあの頃のように志高湖に駆け上ることはもうできない。少年の頃は軽い足取りで登れた山道も今はもうきっと登れない。
 母と祖母の元気なあの時、怖かった父、気の強い姉がいて、仲の良かった弟がいたあの頃、懐かしい家族に囲まれた私がいた。
 春が来たら故郷のあの山のあの道をまた歩けるだろうか。
 少年の頃を懐かしみ草花のたおやかに咲き乱れた故郷の春、まぶしい春の陽光が心を輝かせたあの頃に心は躍る。
 

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