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制御できないものを作る人間はバカなのか‼️

2020.04.04

制御できないものを作る人間はバカなのか‼️
 福島の原発事故のときは、メルトダウンを起こした。つまり、燃料棒の溶融を止めることはできなかった。あの時ほど人間のできることのないことを思い知らされたことはなかったはずである。原発の暴走を制御できなかったのである。人間とはこれほど愚かなものはない。自らの制御できないものを作り出して、自らを滅ぼすの愚をやろうとする。
 あの時は、東大大学院、東工大大学院の教授、あるいは卒の東電幹部、東大卒のエリート官僚、人権派弁護士出身の民主党の国会議員たる大臣などが、なんとも無様で間抜けに見えたことか。危機管理能力はゼロに等しい人たちであった。危機に際しては、全くの素人であったということだ。危機管理の専門家というのがいて講釈はするけれど政府全体としてみればやってることは素人と変わらなかった。
 考えてみると、日本の歴史で、政権が崩壊したのも、ある意味危機管理の失敗であったと言えなくもない。
 新型コロナでの政権の対応を見ていると、福島の時と何も変わっていないことがわかる。危機管理の内容は、原発事故とウィルスでは、当然全くと言っていいくらい違う。しかし、政権の認識のなさは、あまりにも露骨であった。これに対して、東大出ましたの官僚たちも何も言えない、言わないのは、森友事件、桜を観る会の時と変わらない。人類の危機に際しても、忖度して何も言わないなどという人間たちが、政権の中枢を占めているのである。
 第二次世界大戦のとき、英国のチャーチルは、戦時内閣として、国民を危難から救った。元禄内閣、元禄官僚などに政治を任せていたら、どうなるか、結果は見ての通りである。
 危機管理内閣が、こういうとき、必要なのだろう、と思う。
 テレビのワイドショー見て、スーパーに買い占めに行く国民たちが多数を占めるのである。いわゆるB層が日本を滅ぼす。テレビのコメンテーターも有害である。肩書きで飯食ってる連中で好き勝手を言う。そもそもテレビ局はバカな国民を何も考えないバカに洗脳することしかしてないでしょ。民放5局は要らない。新聞がその生命を終わろうとしているとき、テレビもその例外ではいられなくなる。やがてそのような時代がそう遠くないうちに必ずやってくる。

 自分で制御できるか、を問え‼️
 勉強というのは、制御の見極め、訓練の実践である。
 制御というのは、集中を制御することである。怠ける心、遊びたい心、テレビを見たい心、ゲームをしたい心、友だちと時間を過ごしたい心、家族とレジャーを楽しむ心、ごろごろしたい心、すべて制御しなければ、制御できなければ、自堕落な人間になるだけである。
 勉強というのは、その他のすべてを犠牲にして成り立つ。他の楽しみを諦める、それが制御である。わたしはよく自己を律する心の形成こそ子どもから大人への変化の証だということを述べてきたが、これを言い換えれば、すなわち自己の心の暴走を制御することのできる人間を大人というのだということである。
 他を犠牲にして「諦める」というのは、心の段階としては、まだ幼い。制御するまでもなく、勉強が当然のルーティンとして、生活の中に取り込まれている状態、これが、ノーマルなことでなければならない。何かを「諦める」という意識には、まだ心の段階の未熟さが読み取れる。
 制御不能、あるいはその可能性のあることに手を出してはいけない。自己の能力を知り、それを超えることから逃げる、回避する、これが賢い人間である。
 ゲームに手を出す。最初は本当に軽い気持ちから手を出す。しかし、気がついたら、1日の大半をゲームに費やしている。そうなるともうゲームを止められない。制御できない。いつでもやめられると思いながら、止めることはない。昨今は子どもが喜べば親が率先してゲーム機、ゲームソフトなど高価なものを買ってやる時代である。
 

 自堕落の暴走を抑えることができない、これが問題なのである。タバコをやめられない、お酒をやめられない、これも制御不能の一例である。
 漫画を読む、テレビを観る、みな楽なのである。頭を使わないから、楽なのである。頭を使うことは、面倒くさいと避けられる。そうなるとちょっとでも手のかかることには、すぐに面倒くさいと背を向けるようになる。
 頭を使わないということは、脳が楽なのである。脳の神経を集中させるということはかなりのエネルギーを使う。だから面倒くさいのである。
 こう見てくると、制御不能なのは、自己の中に巣食う、頭を使わないで楽をしたい、という本能的な欲求と言えないか。
 私たちは、この欲求のままに、自分を甘やかしていると、いつしか自己の意思では、制御できない怪物を心の中に創り出してしまうことになる。
 制御できないもの、それは自己の中にある、面倒くさい心、である。
 スポーツは、勉強を面倒くさがる心が、勉強から逃げる口実となる。習い事、稽古事も同じことである。
 もちろんそうだと一色で塗り潰しているわけではない。そういうところがあるということを言っているのだ。
 私たちは、制御できないものとして、まず自分の心、楽をしたがる心を制御しなければならない。制御できないものを創り出してはならない。楽をしたい芽を育ててはならない。だからこそ子ども時代からの勉強の生活習慣化が大切なのである。楽をしたい芽は遊びの要素のあるところならどこでも芽生える。スポーツも勉強との兼ね合いからは、楽をしたい芽の温床となる。習い事、稽古事もこの文脈で問題となる。家族のレジャーは楽をしたい芽のビニールハウスの役目を果たすであろう。
 
 新型コロナウィルス取扱説明書
 私たち(新型コロナウィルス)は、人間の目に見えないほどの大きさなんです。とにかく軽い、あなたたちが普通にする息でも私たちは瞬く間に舞い上がります。風が吹けばどこかに飛んでしまう。つまり消える。人間が苦沙味をするとき、私たちはその水分の中に取り込まれて飛散します。
飛沫は水分ですから、すぐに蒸発します。私たちは瞬く間にカラカラになります。私たちは、空気の中を浮遊することはできますが、風が吹けばたちまち吹き飛んでしまいます。
 私たちは、仲間を殖やすために、生物とは、違う方法をとります。生物は、基本的に、オスとメスから子孫を殖やしますが、私たちは、人間などの動物の粘膜に張り付いて、タンパク質を合成して、いわばコピーを作ります。私たちが生き残るには、動物の体がどうしても必要なんです。
 私たちが体内に入ると人間などはたちまち生命活動を阻害されてしまうようです。そうなのです。私たちウィルスは、人間には、天敵なんです。
 ところで、私たちは、どうやって人間の口の中に入るのか、これは私たちに死活問題なんです。なんとしても人間の口の奥の喉の粘膜に取り憑きたい、そう考えています。
 そのために私たちはいい方法を知ることができました。人間というのは、社会的生物であるので、人どうしの接触が多いのです。私たちはそのほとんどの場合、保菌者が撒き散らした咳、苦沙味を通して、周りの物に張り付きます。私たちが物にただ静止しているだけで、人間たちが手で私たちを口に運んでくれます。私たちは人間の手に張り付けばもう彼らの口の中に入るのは実に簡単なんです。かれらは、いつも手で他人を触り、周りの物を触っていますから。エスカレーターの手すり、エレベーターのボタン、ドアのノブ、デパートのトイレのドア、もう至るところに、私たちは、張り付いて人間の手を待っています。
 私たちは、あなたたち人間の手を待ち受けています。早く手を差し伸べてください。私たちはあなたたち人間がいなければ仲間を殖やせないのです。
 

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