2019.10.21
秋台風は治水の重要性を教訓として遺しました。人はなぜ何十年に一度の災害には備えようとしないのでしょうか。福島第一原発のときも同じ発想でした。千年に一度となるともう「ない」としてかかる、人間の尊大さは救いようがない。自然をなめてかかる。根拠もなく安全だと言い切る。災害・事故が起きると、想定外だなどと平気で言う。そもそも自然、もちろん原発も人間の想定など最初から無意味である。想定できるほど人間は偉くも賢くもない。
第22章 どんどんわかるようになるのが嬉しくて
わたしにはわかるのです。この子らの心の中が手にとるように見えるのです。「できた!」と喜びに満たされた、幼い心は、それでもうはちきれんばかりなのだということがわかります。「先生、もっと課題出してください。この前の課題、少な過ぎてすぐ終わってしまいました」。「わかる」ということが、「できる」ということが、ほんとうに嬉しいんだな、とわかりました。子どもたちには、小さな目標、課題を立てて取り組ませる。ちょっと難しいかな、そんな思いもある。いいややってみるか。最初は、きっと何をやっているのか、わからない。繋がらない。それでゆっくりと分解して解いて見せる。「あっ、わかった」、喜び勇んで席に戻っていく。実は分数の繰り下がりを理解させていたのです! もちろん分数の引き算です。通分はマスターした上での話しです。わたしは、分数を理解させるために、分数のはたらきを何個かパートに分けました。例えば、最小公倍数、通分、帯分数⇄仮分数、繰り下がり、小数⇄分数、約分などに分けて、それぞれのパートをマスターさせる。約分のパートには、こっそり分数のかけ算、割り算を忍ばせてある。約分を理解すれば、それはとりも直さず、分数のかけ算と割り算をマスターしているしかけである。もちろん約分やってる本人はそんなことには一向に気づかない。これを分数のかけ算とか割り算とか言って始めると途端にわからないが先行する。わたしは、長年の経験から、子どもたちには、それと気づかせないで、本人はかなり高度なことをやっている、という指導技術を使うようになった。長年子どもたちの指導をやってきて、子どもたちの脳に即して変幻自在に対応する中から、子どもたちが、新しい概念に示す抵抗の強さは尋常なものではないことを知っている。新しい概念が出てくると子どもたちは、構えた、難しく考えた、わかるものもわからないことにした。それでわたしはすでに子どもたちが知っている概念に新概念を忍ばせておく方法を考えついた。すでに知っていることなのだという意識を利用した。竹の会の子どもたちは、わたしの戦略に見事にひっかかり、気がつけば、高度な分数、小数の混合した、四則混合演算をこなせるようになる。まるでそれが自分の能力の結果であるかのように得意顔である。わたしは、計算を徹底した鍛えた。子どもたちの多くが、難渋する逆算についても、工夫に工夫を重ねたマスター法を開発してきた。まず、計算の名人をつくる。
それからわたしは、割合を指導した。子どもたちには、聳え立つ壁であった。かつて公立小の6年生でさえも、満足に割合を理解しているのは、ほとんどいなかった。流石に「よくできる」が、8割前後の子は、そこまで酷くはなかったけれど、それでも、割合のベタな問題、例えば、「1000円の5%は何円ですか」という問題がわかる程度だった。この点、私立受験の小学生は流石にそれなりにできる子もいた。ただそれも入試ベタ問題までで、ちょっと捻った問題にはたいていはお手上げだった。
わたしが小学生のための割合教授法の研究に本格的に取り組むことになったのは、平成19年に集まった小6たちのあまりの低レベルにあった。小6の6月というのに満足に通分もできない。割合を理解するどころではない子たちであった。分数がすんなりと理解できない子たちであった。ようやく少し難しい分数の計算ができるようになっても、逆算の壁が立ちはだかった。逆算については、分数をすんなり理解した子でも結構躓いた。当時は、辛抱強くできるまで何度でも説明したものだった。今は、逆算を科学する方法の研究が進み、比較的スムーズに理解してくれるようになった。
ミクロマクロ法の開発
これまで割合の理解法としては、速さの問題でよく使われるのが「はじき」という方法である。「は」は速さ、「じ」は時間、「き」は距離。これと同じものが、「くもわ」として、割合でも使われる。「く」は、比べられる量、「も」は、元にする量、「わ」は、割合のこと。小学校では、いわゆる「かけわり図」というのが、使われる。問題は、子どもたちが、割合とは何か、ということをそっちのけで、処理の方法を覚えようとするところにある。
子どもたちの多くが、原理を理解してそこから演繹して問題を考えるという過程が取れなくて、つまり原理を理解できなくて、操作の方法、処理の仕方を理解しようと頭をいっぱいに使っていることは、分数を処理していく方法を学ぶ小学生を見ていればわかる。よく大手に通う子たちが、公式を習い、公式で解こうとするのと同じである。大手塾もよくわかっていて、バカには本質など理解できないということがわかっているから、公式を覚えさせて、これはこの公式を使うんだよといったことばかりを授業する。大手のやり方が悪いのではなくて、大手はバカをどう処理するかをよく心得ているということである。
世の中には、本質を理解できない子たちがリアルに存在しているということである。大手のやり方が、処理論、操作方法マニュアルであることは、大手が世の中の現実をよく知っているということである。そこから、商売繁盛に最も資する方法が、マニュアルをつくることであった。大手に限らず、塾のテキストというものが、マニュアル、つまり取扱説明書的な内容でできているということはだれでも知っている。まず例題で取扱を説明する。それから類題で練習させる。この方法の利点は、大量のバカな生徒を一斉に処理できることである。親も子もこの取扱説明書の習得に全力を尽くす。中には、家庭教師を雇ったり、大手のための補習塾に行ったりと、この取扱説明書のマスターにカネと時間をかける熱心な家庭もある。力の入れどころが、間違っているのに、赤信号みんなで渡れば怖くない、の大衆心理が見事に働く。これこそ大手の真の怖いところである。どんな間違った方法も「みんなが、やっている」という、それだけで正当化されてしまう。だからわたしはバカ製造教育と言っているのである。
親の能天気が、見事に、下級国民を作り出す構造が、そこにはある。
真の教育とは、物事の本質を理解し、そこから演繹的に推論する、そういう能力をなんとか育てる、そういう苦悩に満ちた試みでなければならない。これは商業主義の大手塾ではできない。また何の工夫もない、大手の物真似塾たる実質をもつ地元塾でもなし得ない。そもそも思考力を育てると一口に言っても、それなら具体的に何をするのか、またどのような教材を使うのか、といった基本的な方法のところで、躓くことになる。子どもたちにただ「考えろ」と言うことが、思考力を育てることにはならない。
そこで考えるということを分析して、考える過程を、科学的に見直して、考えるということの意味を可視化することが必然になる。
そこでまず概念を学ぶ過程について、考えてみる。
何かを学ぶとき、まず定義の正確な理解が、前提になる。わたしたちは、何かを考えるとき、まず、定義に沿って、定義に即して、考える。定義から問題を評価する、定義から問題を判断する。
そもそも問題が定義通りなのか、定義と齟齬がないのか、定義とのズレは解決できる問題なのか、とにかく思考の最初は、定義との比較対照である。
例えば、割合の定義を考えてみよう。
よくあるのが、%とというのは、百等分したうちの何個かを表すという定義。有名な学者がなにかの本でそう書いていたのをみた。
ここから話しを組み立ててわかる秀才も多いであろう。割合の何たるかをこれだけで悟ってしまう天才少年がいることは当然である。だが、しかし、この定義だけで割合の本質を理解してしまう小学生はそんなに多くはない。ほとんどの小学生が、これだけ言われても鶏のようにキョトンとしていることであろう。偉い学者が、あたりまえのような顔をして説明してみても、鶏小学生には、何も伝わらないのである。塾の先生というのは、鶏小学生にどう分からせるかで格闘しているのだ。何を言ってもキョトンとしている。単一の言葉、一つの言葉しか、頭に入らない、関係を理解することなど不可能という小学生もいる。こういう子たちに定義を理解させることはそれほど難しいことではない。定義というのはシンプルにできているからである。難しいのは、こういう子たちが、この理解した定義を問題解決の糸口、根拠として、生かすことができないことだ。何か一つの結果なり、結論なりを言うには、必ずその根拠がなければならない。その根拠とは、常識であり、定義であり、定義から論理必然的に出てくる亜定義である。0.01を1%と呼ぶのは、亜定義である。約束である。こういうことにしよう、と決めたのである。だから「なぜか」という話しにはならない。定義では、百等分したものの一つとは、100分の1、つまり小数で言えば0.01であり、これを1%と呼ぶのは定義だからである。
割合を定義するとき、2つの数(量)を比較するとき、割られる数を比べられる数、割る数を元にする数と定義して、割合とは、比べられる量➗元にする量 と定義することができる。
2つの数の関係は、普通は、比べられる量が、元にする量の一部である。2つの数を比べるというのは、比べられる数が、全体の、つまり元にする数のどのくらいの割合かを示すものである。
このときこの2つの数の割り算が、なんと先ほどの定義、割合とは、百等分したうちのいくつか、を表すという定義どおりになっているのである。
例えば、125が500のどのくらいの割合にあたるかを、調べるとしよう。
125➗500=0.25
これは、実は、
0.25➗1.00=0.25
を表す。
125を0.25とすると、500は1.00になる。
つまり、500を1としたとき、125は0.25になる、
さらに、
500を100としたときは、125は25になる。
100等分したうちの25個だから、25%
これで、割り算というのが、そのまま割合の定義になっていることがわかります。
つまり、割り算をやるということは、割合の定義に従って、大小関係を数値で出している、ということなのです。
そうなのです。割合というのは、大小関係を数値で比較する方法なんです。
言い方を変えてみましょう。
割合とは、全体を100(もしくは1)として、分布の様子を表す、ことです。割合という言葉には、「どんな割合」というニュアンスがあります。全体100としたら、40と60で色分けできるといったイメージです。このように割合で表すと広さのひしめき合いの様子が視覚的にわかるのです。とにかく全体を強引に100として、ひしめき図にする。割り算だから、割り切れるのは例外です。ですから割合図というのは、四捨五入して%で表すのが、当然の前提です。
例えば、ある工場で働く1250人のうち250人が見習いだとすると、その割合の分布を表すには、全体を100として、つまり全工員1250を100として、見習い工員を表すとその分布がわかるという仕掛けです。
見習工員の分布数を計算するのは、簡単で、250➗1250 を計算すればいいだけです。この計算が、全体を100等分したうちの何個かを計算していることになるのです。
250➗1250=0.2
ですが、
これは、1250を1としたときに、250が0.2と表せることを表しています。
もっと言えば、1250を100としたとき、250が20と表せることを表しています。
1250を100とするというのは、1250を100等分したうちの一つが、12.5であり、
250は、12.5が、250➗12.5=20 個分あるということを表しています。
簡単です。要するに、各部分をそれぞれ全体で割れば分布図が、つまり割合の図が書けるということですから。
子どもというのは、わかることがとてもうれしいのです。わたしは、低学年指導の名人です。もし子どもに才があるならば、伸びる、わたしの指導は神の指導となる。もし子どもに才が備わっていなければ、凡夫の才にはわたしには施す手はない。人にもって生まれた才能によって伸びる。決して何もない人間が伸びることはない。これが天の配剤です。神の下した判断です。
医者は最後にはもともと人に宿る治癒の力を頼むしかない。人の生命力を期待するしかない。これと同じである。わたしは、子どものもともと備わった才能に手を貸しているだけである。ともすれば埋もれそうな才能の芽を引き出すこと、芽を大切に育てること、独り立ちして、もう自分の力で伸びてゆくことができる、そこまで付き合うこと、そこまでである。
生きる力を感じられない子は、指導しても効果はない。徒労とはこのためにある言葉である。勉強するということに、喜びを示し、わかるということに目を輝かせる、そういう子が、指導を生かす子です。そうなんです。指導が生きるかどうかは、子どもしだいです。指導というものが、絶対的にすぐれた物として聳え立っているわけではない。指導とは被指導と相関するものです。すぐれた指導は、指導を受ける子どもがすぐれているから可能となるのです。