2019.03.23
3月23日になりました。3月の指導日は、Aが明日24日(日)を最終とし、Bが25日(月)を最終とします。明日の朝は真冬並みの冷え込みということです。調べて見ましたら6℃でした。なかなか春というのは定まらぬ気候です。寒暖の落差が大きくて暖かいと思って薄着をすればたちまち底冷えの寒さが襲ってくる。用心に越したことはない。
◯お願い 4月月謝は、3月中にお支払いください。
●能力の際を見定める指導
今のわたしは自分の指導にかつてのように迷うということはなくなりました。指導しているときは、もうその子の脳と対峙して、極限的な、能力の際(きわ)を見定めることに集中しております。指導というのは、一人一人に対して、その子の脳の状態、理解の際(きわ)を知り、理解の段階を見定める。そこから如何にして理解の際(きわ)を広げるかに腐心する。ひとつの理解のステージ(段階)からより高いステージにステップアップするには、様々な準備指導が必要となる。様々に脳を耕すわけである。指導というのは、より 詳細に言えば、具体的に考えることしかできない脳、つまり具体脳を、次第に、抽象脳へと変えていく操作の諸技術を指すとでろうか。初期の指導段階では、特にそうである。
具体というのは、物と名前が対応する世界の思考形態である。概念には必ず対応する物があるから、物を思い浮かべて考えることができる。幼児の頭の中は具体的な物で完結している。
例えば、分数は、それに対応する物はない。しかし、分数は、ノートに分数を書くことによって、あたかも物との対応を作り出すことができる。ただ例えば、柿という言葉に対応するものとしての柿のようにはいかない。分数そのものが、数という抽象概念の約束で作り出され物であるからである。この「約束」こそが、物との対応のない抽象概念にほかならない。子どもたちは、分数という姿、形をイメージしながら、つまり高レベルの具体的な世界に引き直して、「約束」のなんたるかを理解する。通分という約束、約分という約束、繰り下がり、繰り上がりという約束、カッコの約束、分数を理解するためにどれほどの約束があることか。子どもたちは、計算という世界の中のたくさんの約束を意味の数珠に通していく。
そうなんです。約束はさらに約束を必然的に必要とする。子どもたちは、約束を意味の糸で通していく、そして意味の数珠を作る。
国語とは何か。物語文から、論説文へという流れは、もちろん具体脳から、抽象脳への過程と対応する。そして言葉にはそれぞれ物が存在する、対応することも変わらない。子どもたちは、「農家」という言葉から、農業を営む一家の姿、家、田んぼ、畑などとともに想像することで、具体的な物へと転換したことであろう。「農業」という抽象的な度合いの高い語についても同様な操作をしたに違いない。しかし、例えば、「民主主義」という概念が、突然子どもたちの前に現れたとき、子どもたちは、どのように具体脳をはたらかせるのであろうか。きっと捕捉できないで、悩むに違いない。そこでお父さん、お母さんに、聞いてみる。親は、抽象語の説明が、意外と面倒なことに気がつく。それで、国語の辞書を買い与えて、自分で調べろ、と言う。国語辞書は、抽象語を具体的に、身近な例などをあげて、言い換えてくれている。が、国語辞書だけで、頭の中が、クリアになることは少ない。ただ国語辞書は、具体的な言い換えによって、その意味を教えてくれる。だから、子どもたちはまず国語辞書を毎日引く。目標は、1日100回引く。引くとは、ここでは辞書で調べることである。辞書を引いたら、そのままにしておかない。このとき、付箋に調べた言葉を書いてそのページに貼るという方法を指導している小学校があり、一時期、マスコミにも取り上げられて話題になった。調べた言葉にマークするのは最低必要、わたしは、赤鉛筆で、線を引いていたが、実は、記憶には、橙色がいい。調べる勉強の教材は、新聞がいい。とにかく辞書を引け。一瞬で目的の語を見つけ、具体的な言い換えを学べ。辞書とは、普通は、定義を書くものだが、定義というのは、抽象的なことを本質とするから、抽象語を調べたら、別の抽象語で言い換えている、ことが普通である。しかし、小学生用の国語辞典だと、具体的に言い換えてくれる。だから最初は、具体的な言い換えをした小学生用の辞典を使うのがいい。いきなり例えば、岩波の国語辞書とか、学生がつかうものは避けた方がいい。小学生は、具体脳でできているから、具体的な言い換えを多用した辞書を使うのがいい。
さて、ここで、あなたたちは、抽象語に対応する具体的な言い換えを対応語として認識する訓練をしていることを知らなければならない。あなたたちの具体脳をバージョンアップするのが、この国語辞書を引くという訓練なのである。
いつか文を読むときに、あなたたちは、抽象語を言い換えながら読み、意味の数珠を仮定している自分に気がつくかもしれない。
国語読解とは、言葉を意味で繋いで、意味の数珠を作ることに他ならない。
ただここで注意しておかなければならないのは、物語文の場合である。論説文にももちろん「内包された読者の位置」というものが想定されているけれど、物語文も実は「内包された読者」というものがいて、その読者が、登場人物に、「共感」している、ということだ。物語文は、共感能力を養うために読む。このときあなたの稚拙な共感を養うのではなくて、物語文の中で、「語る」、「物語を語る」人が「いる」ことに気がつかねばならない、それこそが、「内包された読者」なのだから。その内包された読者が、どのように共感しているのか、そこを読む。正確には、読み取るのである。あなたたちが、物語文を読んで、「面白かった」という稚拙な感想などではなく、物語文の中に、確かにいたはずの内包された読者が、どのように共感していたのか、ここを読みとってほしい。それをもって、読書という。あなたたちのただ筋書きを追うのはまだいい方で、ただ字面を追うだけの、読むは、読書とは言わない。あなたたちが、内包された読者の存在に気付き、その読者が登場人物たちに共感しているといところを読み取りなさい。
国語の話しはここまでにします。
子どもたちの脳を抽象脳にすること、これが指導の究極の目標である。具体脳のバージョンアップを図ること、これがひとつの指導の核になる。
しかし、思考の糧となる国語の場合は、それでいいが、算数は、また違う。確かに違う。割合とか、速さ、つまり単位あたり量などといった意味の数珠を手に入れ、その数珠を如何に使うかを場数を踏んで学んでいく。だからここは訓練です。訓練に次ぐ訓練です。ただそれだけで、誰でもできるようにはならない。これが算数の特殊なところです。算数ほど知能、つまりDNA、遺伝子の要素の大きな科目はない。だから算数脳は、塾に行ったから、どうかなるという類のものではない。ただ塾に行かなければ、もともとある算数脳の開花が遅れる。そしてここが怖いのだが、遅れたがために開花しきれないという、微妙な脳もあるということである。超天才脳なら、別であるが、学校の優等生程度だと、塾に行かないマイナスは、致命的である。
わたしが、小3後半から小4前半までの間に、訓練開始をと主張するのには、以上に述べた含みがあるからである。特に、入会試験で、A合格をとった子なら、成功する蓋然性が高い。仮合格でも、早期指導が、必須であるのは、そういう仮合格の子たちに、脳の訓練をすることで、竹の会の経験値なのだが、驚異的に伸びていっている事実があるからである。これが小5からだと、つまり1年遅れただけなのだが、竹の会の経験値からは、伸びることはない。
例外は、もともと算数脳の優れた小5である。
さて、以上の考察を踏まえて、わたしは、わたしの今の指導の域を、「際(きわ)を読む」指導と考えている。際(きわ)とは、剣の見切りに似た言葉であろうか。敵の剣尖の届くギリギリのところで躱すのは、見切りのゆえである。際(きわ)とは、能力の際(きわ)の意味である。指導に際しては、この能力の際(きわ)の見切りが、重要である。小3あたりがこの際(きわ)が鮮明である。小5がダメなのは、大手に行っていれば、もはや修正の効かない、型に固められた脳になっていること、また塾に行っていなければ、それまで必要な訓練を受けてこなかったこと以上に、ゆるい、弛緩した脳にどっぷりと浸かったことからくる、指導の困難性が、強敵となる。
総じて、今のわたしの指導は、「際(きわ)を読み取る指導」ということになるかと思います。
指導の達人、指導の名人をいつも彼方の理想として、指導道を歩んできたわたしの指導の域というものが自分でも見えるようになった、ようやくこの歳になって見えてきた、というのが、実感です。