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都立中高一貫校への道/トップ都立高校への道/指導の諸技術についての考察〜心がけていること

2019.03.27

 3月27日(水)になりました。時々刻々と襲い来る試練に対処する、今はそういう心境です。新規募集については、塾長としての希望は、新小4ですが、学年にこだわらない募集が出されています。入会試験のハードルをかなり高くすることで折り合いをつけることになろうかとは思います。3月退塾者も相当数出ております。これは竹の会の意向による退塾です。教室はガランとしておりますが、慌てず、これからは選びながらじっくりと入会者を厳選していきたいと思います。去年のように仮合格を濫発すると、結局短命で終わるので、今年は慎重に集めていきます。入会試験も規定の点数をとれなければ、躊躇なく不合格を出しています。去年は仮合格で緩やかにしてしまい、禍根を残してしまいしました。

 今年は、武蔵小杉竹の会教室の準備の年として、これから準備を進めていきます。

 なお、竹の会に「相談」と称して、問い合わせしてくる方がいますが、今後はこういう方の申出はお断りいたします。

⭕️指導の諸技術についての考察〜心がけていること

1 子どもが、勉強することに意義を見出す、指導
2 子どもに「わかる」という感覚を植え付けること
3 子どもに達成感を味あわせること
4 勉強が面白いと思わせること
5 訓練の意義を悟らせること
6 信頼を得ること

わたしが、指導に際して普段から心がけていることを思いつくままに、並べてみた。

以下、敷衍してみよう。
1 子どもが、勉強することに意義を見出す、指導
 人は、無価値なことに意義を見出すことはない。これは大人も子どもも変わらない。ただ当然のことだが、大人の思う無価値と子どものそれは当然違う。いや価値というものは、個々人の嗜好の問題で、大人ほど千差万別である。ここでは大人のことは置いておく。今問題なのは、子どもの話しだからである。
 子どもの世界は、幼い心の世界である。子どもは、まず、遊ぶことが大好きである。つまり遊びに意義を感じる。ただ子どもは飽きやすく、遊びの対象はくるくる変わる。だから意義も変わる。
 子どもが、勉強に関心を持つとしたら、それは、勉強そのものが、面白いから、というより、お父さん、お母さんの反応ではなかろうか。親が喜ぶのを見て子どもは勉強の意義を悟るのではないか。学校の先生の褒め言葉は、子どもの自尊心を大いにくすぐるに違いない。友だち、友だちの親、家族、親戚、近所の人、そういう周囲の人たちの反応のもたらす意義も大きく、子どもの勉強に対する意義のありかたに影響するであろう。
 こうして子どもは、周囲に認められることが、至上の喜びと感じるようになる。勉強こそが文句なしに、周囲から自分が認められる、確実な方法だということを悟るのである。
こうして指導の技術として、子どもを「認めてやる」というテクニックが、子どもの指導において大切なものとわかる。

2 子どもに「わかる」という感覚を植え付けること
 この技術は重要である。「わかる」から、面白いのである。「わかる」から、できる。「できる」と認められる。だから「わかる」の価値は、子どもには、絶対的に高い。
子どもには、たくさんの「わかる」を経験させなければならない。何層にも、重なった論理は、薄紙を剥がすように、一枚一枚に、「わかる」を割り当てるであろう。わたしのレジュメは、そういう意図のもとに工夫を凝らしたものになっているのは、もちろんである。
 子どもというのは、「わかる」というのが、大好きである。だから、「わかる」をたくさん経験させるのが、指導の技術になる。

3 子どもに達成感を味あわせること
 これは、なかなか難しい技術です。怠け者には、為し得ないという前提があります。だから、竹の会では、勉強したい、という子どもたちだけ、という枠をかけているのです。勉強しなくなれば、竹の会にいる理由がない、ということです。
 中学生については、達成感ということはもちろんありますが、それ以上に勉強しなくなった中学生の精神の成熟度に失望することの方が大きいですね。成績がいい生徒が、部活によって、脱落していくというのが、中学では、定型化された、成り行きとなっています。
 よく理社が、悪い、できないという生徒が、いますが、理社などというものは、まともな子なら、悪くても80、普通に、90以上は、取れるものです。だから、数学、英語が、いいのに、理社が悪いという子は、明らかに、勉強をやってないのです。そもそも理社が悪いというのは、勉強への適性を疑ったほうがいい。怠ける、楽な方に走る、という子は、勉強には、向いていません。
 それから中学生にもなって、ゲームに夢中というのは、もうお話しにならない。少なくともそういう子は、竹の会には、不用です。竹の会は、勉強命、勉強第一、勉強熱心な子たちの集まるところでなければならないと思っています。

4 勉強が面白いと思わせること
 学問に触れるということは、精神を高尚にする。
 そういう高尚な世界に身を置くことの有り難さがわかるのはずっと後のことであろう。子どもたちが、勉強を面白いと思うのは、「わかる」こと、「できる」ことが、点数に現実化した時である。周囲の好意的な賞賛もこれを補強する。
 理科の原理を理解したことが、得点に結びつく。つまり成功の報酬があるから面白いのである。ゲームが、面白いのは、苦労してゴールに到達したことを評価する得点、報酬があるからである。
 わたしの場合は、「できる」という事実を、本人に実感させることで、「喜び」を報酬と同期させている。

5 訓練の意義を悟らせること
 最初、竹の会に来た子たちが、まず洗礼を受けるのは、計算である。小数の四則、特に、余りのある割算を正確に計算できること。次に、分数へ入る。帯分数、繰り下がり、小数を分数へ、約数、約分、この約分で、いつのまにか分数のかけ算、割算までマスターさせる。つまり指導のひとつのテクニックとして、頭から大袈裟に、「さあ、次は分数のかけ算、割り算だ」などとやらないで、秘かにマスターしているという手法を使うことがある。最小公倍数、通分、ここまで来たら、実践を通して、計算の細かい約束を学びばせる段階になる。一気に高度な計算へと歩を進める。 早い子で、この期間は、2か月、遅い子で半年かかる子もいる。平均3か月弱か。高度な計算が、できるようになっても、終わりではない。竹の会では、指導を始める前に、必ず計算4題を解くのが、いわばウォーミングアップになっている。
 こうして計算をめでたくマスターすると、いよいよ割算の指導が始まる。
 ここで注意をしておきたいのは、この計算の洗礼は、小3から始めても、小4から始めても、小5から始めても変わらないということである。だから、竹の会では、早くに来た小3が、遅くに来た小4や小5より遥かに進んでいるということが普通にある。だから私は竹の会に来るなら、もっと早くに来いと言っているのである。
 この計算をマスターする過程、訓練で、子どもたちは、具体脳から抽象脳への変化の嵐の中に晒されることになる。
 子どもたちは、訓練の意義を計算の高度な熟練者となっていく過程で、悟ることになる。こんな複雑で難しい計算を自分は解いているのだという事実が子どもに自信をもたらすのは間違いない。

6  信頼を得ること
 子どもたちを指導する極意、それは子どもたちに信頼される、ことである。それではどのようにして信頼を得るのか。凄い先生だと思わせること、これに尽きる。もっと大切なこと、それは子どもたちを心から好きになること。そこから子どもたちの心が見えてくる。この子が何に困っているのか、何に戸惑っているのか、何をしたいのか、わかるようになる。私は、子どもたちを、心から、好きになる。それがプロの指導者なのだと思う。ただこれは時に辛いことに遭う。勉強しない子どもに失望するとき、その落胆がことのほか大きいこと、特に、子が信頼を裏切る行為に出た時の落胆は、その衝撃が大きい。困った、どう導くか、その愚かさに気づかないことの失望もある。過去そういう子が何人もいたことは、子どもというのが、自分をよく見てもらいたいという幼い狡さからそういう行動に出ることが通常ありうるということを教えていた。過去2件で、その対応に失敗した。いずれも子が嘘を言ったのであろう、親が子の言葉をそのまま信じて、おそらく「周りの子たちも先生もそういう目で見た」と訴えたのであろう。親のあまりにもねじ曲がった態度に驚かされた。信頼を裏切られた上に親にも憎まれる形で、終わってしまった。子を愛する姿勢で接していなければ、真実を赤裸々に子にも親にも示したであろう。子は傷つき親も苦しむ。だからなんとか子の限りでわかってもらおう。親にもブログでそれとなく気づいてもらおう、そういう努力をしたけれどすべて裏目に出て逆に大いに恨まれることとなってしまった。
 ただだからと言って、わたしの姿勢は変わらない。わたしはまだ世の中の醜さに晒されていない、子どもたちの、純真さが、好きなのです。そういう心が、勉強に向いてくれている、こんな嬉しいことはない。
 中学生が、部活で落ちていく。中2病?  いやいや中学病でしょ。中学に入って、勉強に燃えているのは、中1のせいぜい1か月、たいていは夏休みで、怠け癖、楽をしてもそのまま過ごせることを学習してか、途端に勉強しなくなる。返って部活は、勉強しない方便になる。不思議なのは、親が部活というと平然と勉強を犠牲にする態度である。
中学生には、期待すると、失望する、これが35年間、中学生を見てきた、わたしの偽らざる心情である、
この十年、竹の会には、中学の三年間いる中学生は、たいてい一人だけです。とはいってももともと二、三人しかいないのですが。たいていは消えていきます、だから残るのは一人だけです。

 

 さて、指導の諸技術と題して、塾の姿勢と言った視点から、思いつくままに、述べてまいりましたが、子どもを「教える」という点についての、竹の会の実際の取り組みということについて、少しだけ述べてみたいと思います。竹の会では、「教える」という言葉は使いません。より大きな概念として、指導という言葉を使います。集団を教えるのが前提となる授業なるものは竹の会ではありません。教えるの弊害については、草枕でも、再三述べてきたことですから、ここでは述べません。またテキストを使った授業というものはありませんので、その予習、復習という言葉もありません。竹の会では、復習という言葉ではなくて、解き直しという言葉を使います。書き直しもそうです。
竹の会を語る上で、避けて通れないのは、レジュメという用語です。

竹の会におけるレジュメについて

以下大辞林から

レジュメ〖résumé〗〔要約の意。レジメとも〕
①論文の内容などを簡潔にまとめたもの。
②講義やゼミナールで、発表者が参加者に配布する、発表内容を簡潔に記したもの

 私がレジュメという言葉を頻繁に耳にしたのは、資格試験の予備校LECで、司法書士試験の書式問題を作成する仕事をしていたとき、でした。LECでは、要点をまとめたプリントを冊子にして、よく出していましたが、それを当たり前のように、レジュメと呼んでいました。わたしも自分の創作した問題には、それは詳細な解説をしたプリントを執筆したものです。わたしの作った問題がLECのどの講座で使われたかは知りませんが、わたしの書いた解説を読んだ方は確かにいた。
 話しは、脱線してしまいましたが、わたしは、竹の会に指導用のプリントをレジュメと呼ぶようになりました。草枕でも、殊更レジュメという言葉を使って、啓蒙してきました。わたしはLECの経験から、問題には、徹底した解説を書くようになりました。特に、平成24年の指導から、作り始めた、「入会テスト」シリーズ、「合格答案への道」シリーズ、「算数をクリアにする」シリーズ、からは、詳細な解説を執筆しています。それまでは、平成17年から執筆を始めた、高校入試数学シリーズについての詳細解説があっただけでした。LECでは、すべてについて、根拠が求められた。判例か、先例が、最強の根拠であり、学説は、ダメ。これは実務では、判例か、先例しか、根拠にはならない、からである。わたしは、この仕事を引き受けたとき、最初は、この点で、ダメ出しをされた。それで、曖昧なことは、絶対に書けない、とにかく判例を調べ、通達などの先例にあたり、とにかく根拠にこだわった。この経験が、わたしのレジュメ製作の姿勢に影響したことはもちろんである。わたしは、先のレジュメ製作にあたり、根拠を示すことに、力を注いだ。図を駆使して、一目見て「わかる」解説を心がけた。解説を作るときは、まず問題を解いて、解説を書いた。子どもたちの目線で、「あたりまえ」のことを「当たり前」に書くことを「よし」とした。
 図はカラーを駆使した。図も工夫した。この「入会テスト」シリーズ、「合格答案への道」シリーズ、「算数をクリアにする」シリーズ、の三部作の威力は、凄まじく、このレジュメを使って指導した5人中、3人が、小石川、桜修館、白鷗に合格した。
 こうしてわたしは、25年の指導以後もレジュメ製作に全力をかけるようになった。
 竹の会のレジュメの歴史については、このくらいにしておきたい。
竹の会のレジュメの果たす機能
 問題レジュメを通して、考える、脳に、考えるという刺激をかけ続ける。
 解説レジュメは、考えた者のみに、わかる勘所を押さえた、珠玉の思考作品である。考えた者には、わかりやすい解説が、考え続けた脳に、符合と氷解を一気にもたらすであろう。私が、「精緻」を極めた、芸術作品と位置づけた、渾身の作品、一つ一つの作品に、愛情を込めて、作りだした、私の作品をどうぞ手にしてください、わたしは子どもたちに渡すのです。
 以上は、指導レジュメの話しだが、課題レジュメと言われる、作品群がある。こちらは、指導レジュメと違って、創作というより、様々な書物から、私のセンサーに反応したものを取り上げて、簡潔に整理して、情報を提供する趣旨である。例えば、朝日新聞の天声人語、コラム、市販書籍、予備校のテキスト、話題の本、大手進学塾のテキスト、中学受験の参考書、過去問など、ありとあらゆるところから、情報を収集した。
 もっとも多いのは、公立中高一貫校の過去問かもしれない。作文の練習は、過去問を軸として、進める。
 課題レジュメは、子どもたちに、とにかく「知って」もらいたい、知識を広げてもらいたい、という思いから、市販のいいものは、私なりに整理して、提供するということもする。

 指導レジュメには、割合に特化した、算数シリーズもある。こちらは、解説レジュメは、作らなかった。指導に際して、説明するからである。だが、最近は、重要なのものには、解説レジュメを製作することも多くなった。これは、私が、考えついた、妙案を形にして遺しておきたいという、わたしの気持ちが抑えきれないことによるところが多分にある。多分、画家が絵筆を取るのと同じ、抑えきれない芸術への情念なのではないか。そう、わたしは、算数の解法を芸術にも似た思いで、創作している。
 今日は、指導技術ということで、横道にそれながらも、竹の会の、わたしの指導に関する所見の一端を、必ずしも論理的ではなく、思いつくままに羅列してみました。

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