2023.10.03
♬小2から来た子たちの「伸び」が止まらない‼️
小2指導の「伸び」の秘密
当然ながら入会試験はやってない。
小2、小3という悠久長閑な期間が作り上げる、無意識教育
長閑な指導、小2だから急がなくでもいいから、一つ一つマスターしたら先へ進めていく。注意すべきは、小2だからといって、季節講習をスルーしたことは一度もありませんでした。むしろ積極的に参加してきました。いつも目一杯こなしてきた。都立志望の親にありがちな、「まだ小2だから」「まだ慣れないから」「まだ小5だから」と言っては、折角の集中してやる機会を放棄し続けることはなかった。だからのんびりとやってきても、小4になったときには、レベルの高い算数の問題を考えるという道具を使って解くようになっていた。これは早くから来ていたことが、幼い、思考未分離の子どもを主体的に取り組む人間に作りあげるのに、如何に有効かを示すものである。
小6からはあり得ない。もし小5、小6まで大手に行っていた、という子なら、これまでの経験値は、99%、使いものにならない。計算をやればまともに正解を出せない。割合の力を試してまともな子は一人としていなかった。大手の中高一貫校対策塾とはそんなものだ。
かつては小4からの入会を勧めていたこともあったが、成功する者もいたが、失敗する者も多かった。これは都立を受ける家庭にも問題があった。受験というものを知らない。だから習い事、稽古事、サッカーなりバスケなりを目一杯やりながら受検もという家庭ばかりで、その認識の甘さに正直辟易としたものである。本当に受かりたいのか、と疑うのだが、本番直前の親の狼狽ぶりと子の悲痛なまでの受かりたいという思いだけがそれまでのやってきたことと裏腹に突出していた。
小2から指導した子たちの能力開花があまりにも歴然としているので、その効果を思うと、遅くに竹の会に来るとか、大手に行く人たちが、気の毒になる。
これまでの経験は、小5からでは(受検に)間に合うかどうかわからない、ことを教えている。
できれば小2、遅くとも小3に来てほしい。
どんな難問にも、未知の問題にも、まず、考えるという姿勢、そういうスタンスが取れるような子に育つこと、これには時間がかかる。脳が未分離な段階での、開発は、悠久の時間が是非とも必要である。
逆に、小5に悠久の時間をどれだけかけられるか。
たいていは時間切れになる。
小4でも時間切れになる可能性はかなり高い。公立志望の家庭は、習い事、稽古事も勉強と同レベル扱いだ。講習もいろいろな都合が優先して順位が相対的に低い。それは普段の勉強も変わらない。だからこれまでの経緯を振り返ったみると、そういう家庭の子は、時間不足による、膨大な、手付かずのレジュメを積み残して、竹の会合格基準のレジュメ量を終わらないままに、受検本番に突入している。
合格には、基礎学力、柔軟な思考耐性が、求められる。基礎学力と言ってもそのレベルは高い。難関中学並みの計算問題をミスなしに解けること、少なくとも芝中レベルの割合問題に対応できるだけの思考耐性を備えていること、語彙力、理科、読解力など相当な基準学力が求められる。
認識が甘い、公立志望の親子
子がダンスを小2から続けてる、辞めたくない、辞めさせたくない、もったいない、そういう意識が強い。だから試験の重要性もその意識には勝てない。こうして勉強を蔑ろにしたつけは確実に払わされる。時間不足、時間切れ、多くの親子が同じ結末を辿る。
小2から入会した子たちは、2年ほど悠久の時を過ごすけれども、だからと言って、手抜きをすることはない。講習も目一杯出て、普段の家庭学習も最優先していた。習い事、稽古事を続けていた子もいるようだが、勉強を優先する姿勢だけは感じられた。
わたしは小2からの訓練がもっとも成功、いろんな意味で成功する蓋然性が高いと見ている。遅すぎて失敗する確率を高めている、世の親たちの、考えていることは,様子を見る、という行動である。それは結局、何もしないことに等しいのであるが、そのことにおいて、明確であり、何もしない、様子見という不作為がもたらすのは、小学初動教育の失敗、それは最も適切な機会を逸し、遅ればせながら小5前後で無定見に大手塾に委託したことの、もはや取り返しのつかない選択がもたらす、思考とは無縁の、勉強を暗記としか認識できない、およそ勉強にスタンスのない、だから勉強習慣というものを持たない、そういう人種に仕立てて区立中学にところてんのように押し出し、区立中学で落ちこぼれ、部活でごまかしながら、底辺私立高校に行くしかない、という人生を選択したことになる。そういうことではないだろうか。
わたしの言うことに、異議を唱えた親たちも、あれから3年経ち、自分の子が受検の番となって、自分たちが取ってきた選択の真価が今問われようとしている、さて、あなたたちの子どもは、あなたたちの目論見通りに大手で成長、進化したのでしょうか。模試の成績を見ながら、自分の子の現実を知るときが来ました。あなたたちの選択の結果の答えばほぼ出たことでしょう。
わたしは、それがどのようなものか、およそ見当はついています。これまで大手で小4から、あるいは小5から、通っていたという子の実態はもういやというほど見て来ました。おそらくわたしがこれまで見て来た子たちとそんなに変わらないのではないでしょうか。
わたしが懸念しているのは、これからです。基本学力に疑いはないでしょうか。思考するスタイルはあるのでしょうか。勉強にスタンスは向いているでしょうか、毎日の勉強習慣はどうでしょうか。
勉強と引き換えに親と取り引きしてゲーム機を買わせる、物欲だけが目立ち、親の駆け引きは失敗していないでしょうか。
受検失敗は当初から確定していました。問題は、これから区立中学で、例によって、物欲の延長で、部活に明け暮れ、当然落ちこぼれて、単願推薦で私立に流れる人生が待っているということ、そのおそれです。
小学生の早い時期の決断が、人生の選択をしているということが、お分かりでしょうか。
竹の会では、たまたまです。たまたまあの年は、小2が来たのです。それがわたしには実験になりました。小2から育てる機会をいただいたことに感謝するしかありません。
能力の未熟度、幼さ、理解の遅速、家庭学習の有無、親の取り組み方、様々なファクターに影響されることはある。しかし、早晩、子どもは開花する。遅い子でもどんなに遅くても小6の前半には目に見えて能力開花が始まる。いいですか、タイミングを逸してはいけない。このタイミングでしかない。開花のチャンスは、これは、ピアノとか、能、日舞、なんでも同じです。
早い時期に、型をつけてやる。ここでは、思考の型のことですが、思考のスタイルといってもいい。毎日の勉強習慣なんてのも、結局早い時期の型なんです。生活の型と言ってもいい。体に覚えさせる。これは実は無意識に訴えかけて、無意識に型、抽象的な型を作り上げることなんです。
小学生も高学年になると、意識のほうが勝つ。生意気になり、屁理屈も言うようになる。こういう意識が勝っている時期、段階になると、意識が邪魔をするようになる。
わかる、というのは、実は、感情の問題なんです。わかったか、と問われて、「わかった」と答えるのは、単なる感情の話しです。「わかった」の内容は、人それぞれで違います。
わかった、というのは、人が心の中で、物語が完成してと言っているのです。だから人それぞれに違う物語なんです。幼稚な物語かもしれない。深い物語かもしれない。人というのは、物語を構築して、納得する、わかった、というのです。「わかった」の物語は、幼児と小学生では違う。1年と3年のわかったも違う。同じ学年でも違う。みな頭の中で構築する物語が違うからだ。子どもたちが頭の中で作りあげる物語がどんなものなのか。知能の差によってみんな違う。だから「わかった」もそれぞれの物語が完成したというだけのことで、特に、「わかった」という客観的な絶対基準があるわけではない。指導者というのは、子どもの作る物語のレベルを推して測ることです。物語を完結できない知能の子もいる。
教育とは、投資という価値観で物語が完結している人なら問題ない。しかし、世の中の親というのは、須く庶民であることは忘れてはなるまい。もともと庶民的感覚は、教育にはできるだけカネは出さない、ということではなかったか、と思う。学費の安い公立学校はその流れに沿うものであった。庶民にとって教育は、習い事や稽古事と同じ範疇に属し、ある程度までのカネを出すけどそれ以上はない、そういうことなのではなかろうか。
社会は、学歴偏重で構成されている。ペーパーテストで上位の者からより質のいい職業が分配される。勉強は、決して習い事、稽古事と同質ではない。社会の価値の配分は出身大学の難易度、より難度の高い資格の取得の有無によって決まる。つまり、投資に適する。投資だから失敗することがわかる子どもに投資するのはありえない。世の中の親はバカでも子に大手に通わせ、家庭教師をつけ、カネをかける。これは投資ではない。カネをドブに捨てることは投資とは言わない。
投資なら、できるだけ早くから手を入れる。つまり先行投資が有効である。小2、小3の間、なにもしないで、放置してく。何もしないのが庶民の本質です。というか、カネのかかることはしない、これが庶民です。
庶民は社会的価値を手にいれられる機会に価値を認めない。教育にはできるだけカネをかけないで、多くを得ようとする。しかし、それは無理な話しです。受験ではカネをかけられるだけかけた人から成功していく。庶民は、努力とか、根性とか、いう言葉が好きです。たまたま能力に恵まれて、自己努力で成功した人を理想と考えるのが庶民です。前提として、カネをかけない、そこから構築していくのです。
難関資格試験は、予備校に行かなければ受からない。独学だと何年かかるかわからない。予備校もダブルで行くと受かりやすい。つまり、カネがかかるが、これを将来の自分に対する投資、親から見れば子に投資する、そういう感覚でなければ、庶民的な節約精神では受からない。才能とか、努力とか、根性とか、わけのわからないことをいうことになる。
合理的な精神、これが受験に求められる、唯一のコンセプトである。常に、何が合理的なのか、問わねばならない。何々しなければならない、という正体不明の強迫観念はいったいどこから侵入を赦したのか、
こうしなければならない、という自分の枷が自分を追い込み、苦しめる。
他からの枷、それは必ず根拠のないバイアスに違いないのだが、人はそんなものに自分の運命を預けてしまうのか。
合理的な指導法を追求してきたらこうなっていた!
いやなに、竹の会の指導の今ですよ。
指導というのは、子どもに「気」がなければそもそも無理なんです。「気」がなければ指導は空振りになります。指導というのは、気を捕まえて、気を育てていくものなんです。だから子どものほうが、親も含めて勉強に強い気がなければ成り立たないものなんです。季節講習は竹の会では一番大切なものとして位置付けています。長時間たっぷりと指導してこれからの勉強の気を涵養する。だから季節講習を飛ばす親というのは、その時点で失敗を選択したようなものです。事実季節講習が終わると勉強がさっぱりで,自然塾を辞めている。季節講習を飛ばした子は早晩辞める。これも竹の会ではセオリーに近い。例えば、中1の春は、目一杯やることが、その後の中学生活を決めてしまうほどに重要です。正負の数から始めて、文字式、一次方程式、関数まで終わらせるのが、普通です。英語なら単語500ほど覚えてしまう。さらに中1の基本文法はあっという間に終わらせる。春とはそういうものです。この洗礼を受けていない子は早晩消滅(退塾)することになっています。
竹の会の季節講習を飛ばすのは実はやってはならないことだったのです。すべてはそこの行き着く。たとえ他の塾の講習なんか受けてもダメですね。いずれ失速して辞めることになる。
高校受験を視野に入れて勉強しておくことですね。
受検勉強するのはいいとして、だからと言って基本を飛ばすのは、本末転倒の話しです。竹の会では、まず基本を徹底して叩き込みます。
計算は、体に染み付くまで練習します。
割合を通して、思考とは何か、を叩き込む、これが竹の会のやり方です。
割合は多くの小学生が、苦手としています。わたしは小学生に割合をどうしたらすんなりと頭の中に入植できるか、長い間研究して来ました。試行錯誤を重ねる中からひとつの方法を編み出しました。今では、竹の会の子たちが、当然のように使っているミクロマクロ法ですが,竹の会の子たちの中には、他塾でも同じことをやっていると疑わない子がいたりしますが、天然の子が多いですね。大手から来た子というのは、例外なく計算がいい加減で、割合は正直なにもわかっていない子ばかりでした。それで2年も大手で何の壁に突き当たることもなかったのかと正直不思議です。
竹の会ならできないならすぐわかりますからね。
竹の会では「わからない」ままに次のステップには進むことはできないですね。その都度チェックするのが竹の会のやり方です。
知能が足を引っ張る、これは仕方ないですね。知能が低いと勉強のモチベーションも低くくなるから進んで家庭学習をやることもないのかと思います。
残念なのは、家庭で、小4に竹の会に来るまでなにも勉強らしい勉強をしていない子があまりにも多いことです。
子どもというのは、小2あたりから訓練すれば、2年、3年で基本というか、勉強の下地というものが出来上がってくる。例えば、小2に来ていれば、計算は、普通に難関中学の入試問題に出る計算なんかを小3にはこなしているわけです。計算がしっかりしてくれば割合というか、思考訓練もできるようになる。割合、思考訓練というのは、時間のかかる話しです。現に、今の小6には、小2の夏頃からいた子がいる。小3には、計算はマスターしてます。割合がものになり始めたのが、小4の夏あたりかもしれません。もし小4に来たなら、夏もまだ計算やってるかもしれない。遅く来れば来るほど時間がかかるのです。まだ低学年のうちに下地を作ってやること、これはとても大きなことなのです。
初動の遅れは下手をするとなにもかも後手に回る。中学になって物をいう基礎学力もつけられないままに終わる恐れもあるのです。
勉強というのは、手を抜いたら終わりです。家庭学習をしない、正確には、そのような生活習慣をつけてこなかった、ということなのですが、高学年、中学になってそのような習慣なんてつけられないですよね。
三つ子の魂百まで‼️ですよね。頭でいろいろ考えるようになる前に体に生活習慣をつけること、なんです。勉強なんてのは、頭というか、意識でやるというものではない。無意識に刻みつけること、なんです。長じてから、意識に訴えてもだめ、意識では無理、意識は、もともと怠惰なものなんです。
無意識に刻む、それには小2かベストです。遅くとも小3ですね。
知能の足りない子というのは、わかる喜びというのがわからない。はっきり言って面白くないんです。知能が浅い分、知的好奇心も低調ですから、喜びも、見出せない。進んで家庭学習をやることもない。そういう子にとって勉強はノルマであり、こなし仕事なんですね。知的好奇心、何か法則を見つけようということにはなっていない。
竹の会で入会試験をやるのは、その辺のところを考えての話しなんです。今、やってる入会試験の成績がよくない子というのは、やはり進捗がよくない>ミリ単位でしか進められない。わかって前に進めるというのがいい形なんですけど、前やったことが蓄積にならないというのは、実はよくわかっていない、繋がっていない、ということなんです。理解というのは、わかったことに数珠のように次のわかったことを繋げていく。通分がわかったら、次は約分、約分ができるようになったら、通分やってみる、そうすると、通分すっかり忘れてる。これは通分の操作だけできるようになって、その意味がわかってないということです。だからすぐ忘れる。試しに小数の割り算なわかやらせてみると、これももうすっかり忘れている。おそらく今日やったところを家でやり直してみる、とかそういうことは一切やってない。塾に来た時だけしかやらない。そういうことなのだろうと思います。
こういう子の入会試験の成績というのは、ほとんどできてないのが普通です。とにかく時間がかかる。だから入会が遅ければ遅いほど、時間切れの恐れがある。基礎をつけられるかどうか、そこが懸念される。
受検と騒ぐよりも、まず基礎をしっかりと身につけられるかです。その意味でも、小2がいいのです。
家庭で小4まで塾にもやらないで、放置しておく、というのは、取り返しのつかないことになります。
と言っても大手にやればそれはそれで問題です。大手の一年が無駄になる可能性はかなり高いからです。大手にいた子でまともな子を見たことがありません。大手でもできる方だったという子で竹の会では基礎学力なしと判定されるのがほとんどです。その意味で、親はやはりなにもわかっていないですね。今、大手に通っている小6の親御さんがそのことを一番わかっているのではないですか。どうですか、大手に2年なり、3年なり、通って、あなたたちのお子さんは実力がついたと言えますか。竹の会なら一枚のレジュメでも解かせて見ればすぐわかります。
それからかつては隆盛を極めた早稲田進学会の小石川模試もとうとう受検者が、70人を切ってしまいました。過去の模試問題を使い回しているのは知っていましたが、かつては500人ほどもいた受検生がなんという没落ぶりなのであろうか。
都立中高一貫校の模試は、統一模試がないのが現状です。竹の会では、この3年、早稲田模試で成績を全く取れなかった児童が合格する事例が出ています。最早模試の信頼度はほぼない。母数が少な過ぎです。また、内部と外部の受検比率も不明です。
今後は竹の会独自の合否判定に拠ることになります。既に、令和3年と5年の判定では、早稲田進学会模試不合格判定,竹の会合格判定で、合格しています。
これまで多数の母集団を擁する模試での相対的位置をデータとして求めてきましたが、現実的に無理と判断しました。
合否判定には、本番のレベルを知り抜いた上での、思考の綾を試す、わたしが全国の過去問から選び抜いた問題をモディファイして、制作します。それが竹の会の合否判定レジュメシリーズです。このレジュメを初めて使ったのが、令和3年でした。次に、令和5年でした。4年は使える段階にはありませんでした。