2022.10.27
高校入試のプロの指導
サピックス、早稲アカは、都立上位校には対応していないことは知っておいたほうがいい。ただ市進学院は公立上位校に強いとのことらしい。かつては都立志望の生徒が、河合塾に3年通って都立大附属に落ちたなどという話しはザラにあった。大手は、難関私立に軸を置いているので、都立はオマケ程度にしか考えていない。都立志望の生徒は地元の中小の塾に行くのが普通の時代であった。
竹の会は、昭和60年(1985年)10月渋谷区の代々木中学近くに開いた。手書きガリ版刷りの募集ハガキに応募してきたのは、代々木中学2年生の母親3人でした。竹の会はこの3人の母親の子ども、女子3人からスタートしました。それまで家庭教師はかなりの数をやってきましたが、塾は初めてでした。家庭教師をやったと言っても、それは郷里の大分でのこと、ただ福岡の公立高校への編入試験1枠に10人応募で合格、大分大学附属中学合格と、そういう仕事を請け負ってまいりましたから、まぁ、経験はゼロではない。しかし、いきなり東京のど真ん中で塾開業ですから、緊張はしました。東京都の教科書はすべて買い揃えて熟読しました。数学も英語も何種類かありましたが、すべて購入して読みました。。理科、社会、国語の教科書ももちろんです。何日間かかけてすべてに目を通しました。それから当時は学参から出ていた武蔵、開成などの過去問集を買い込み、片っ端から解いていったのを覚えています。10月スタート、明るくて感じのいい、女子生徒3人と初めて顔を合わせて、すぐ授業を始めました。当時は週2回、1回2時間でした。始めて2週間もすると、竹の会の噂はたちまち代々木中学に広がり、次々に申し込みがありました。
何もかもが、慣れないこと、初めて遭遇することで、授業と準備と、未知のトラブルに、追われる日々でした。
その中2が、いよいよ中3となり、受験の年を迎えました。もともと私は受験が得意でしたので、わたし流のやり方で、それは過去問をやるだけなのですが、受験を戦いました。戦績は、初めての受験にしては、よかったと思います。上原中の生徒が、市川高校と青山学院に合格、あの3人の女子は、都立駒場、都立目黒、国学院久我山にとそれぞれ合格しました。ほかに、都立大附属高校、日大櫻丘などとにかく全員志望の高校に収まったのです。昭和62年3月のことでした。竹の会には、これから様々な解決しなければならないトラブルと難題が待っていました。とにかく船出しました。それでも高校受験は毎年やって来る、だからいつも臨戦態勢で、常に過去問と向き合ってきた。当時を思い出して見れば、朝から晩まで過去問を解いていたように思います。首都圏の偏差値60以上の高校の問題を過去10年以上分解き終わると、今度は偏差値50から60の過去問を解く、とにかく解いていました。自然とわたしの「過去問合格法」が完成していったのです。過去問合格法は竹の会の定番の方法となりました。それからわたしは懸案の竹の会オリジナルテキストの完成に向けて、執筆活動に入ったのです。それは市販のテキストの限界を見切っての決断でした。わたしは過去問をベースに次々と新しいテキストを執筆制作して行きました。その頃の竹の会の定番受験高校は、都立駒場と都立新宿、それに都立青山でした。学区制のため、学区内の最高は都立戸山の時代でした。
わたしが、高校入試、特に、駒場、新宿、青山を専門にやってきたのは、そういう地元の子たちのニーズに応えるためでした。この頃は、代ゼミ、河合塾が、高校入試のための大手塾だったのです。サピックスや早稲アカはまだありません。
難関私立高校を受ける生徒は、みなそういう大手に集まる時代でした。竹の会で難関私立合格と言うと、青山学院高等部が何人かいます。東邦高校もありました。平成10年に早稲田実業高校に合格しました。立教新座も何人か受かりました。桐蔭理数というのもありましたね。日大二高とかもありました。平成20年には、豊島岡女子学園に合格しています。この頃からわたしの中には既に難関私立受験のアルゴリズムは思い描かれていました。ただ私の指導を受けたいという逸材に出会わない、それだけのことでした。
ただ頭がいい、その程度の子では、竹の会の、私の指導の真価はわからない。かなりできる子、子を客観的に観れる親にして、わたしの真価がわかる、のだと悟っております。
学校で1番の生徒だからと言って、進学塾でできるからと言って、竹の会の真価を悟る子はほとんどいない。わたしの指示どおりにやる子はほとんどいない。だから頭のいい子ほど、私から言えば中途半端に頭のいい子なのだが、自分流にこだわり、竹の会を見くびる傾向にありました。だから竹の会を認めず、中3になる直前に大手に移る。
昨今は、そういう中途半端に頭のいい子もいない。それよりも中1が終わるまでに挫折して、いなくなるのがほとんどだ。
私立中学受験にしても、たいていは大手に行く。まあ、竹の会で、できない子が、大手に行ってどうかなるとは思わないけど。そういう親子を「迷える羊」のように見送ってますけどね。ストレイシープ、確か、「三四郎」の最後だったかな。
都立受検にしても、私立と本質は変わらない。昨今のように、私立併願で占められると、才能次第ということになる。都立中学も才能がなければ受からない。もともとそうだったが、私立中学併願が常態となると、才能プラス小3前後から塾に通わないと、間に合わない。
私立難関高校の開成、国立最難関の筑駒なら、小6の2月スタートで間に合う。ただし、それには、条件がある。小学の間に、基礎学力、思考力、勉強のスタンス、さらに竹の会で言えば、最高難度のレジュメレベルをこなしていることである。もしそういう才能に恵まれた子なら、竹の会で私の指導を受ければ、確実に開成、筑駒高校を獲れるであろう。
これまで公立中学で学年1番とか、3番とか、腐るほど見てきたが、本物の才能には、ほとんど出会ったことはない。そういうレベルの子ほど、竹の会をみくびるものだ。真の才能ある者は、その才能が竹の会を見逃さない。
中学受験との付き合いも竹の会の歴史だけある。
中学受験の子は、よく単発で指導を頼まれたものだ。
最初の中学受験の合格は、獨協中学だった。その頃、竹の会に算数のノウハウはなく、過去問合格法は当然として、数学的な解法で乗り切った問題も多々あり、合格最優先で手段は問わなかった。あの頃の自分には、それが限界だったのかと思う。高校入試にかかりきりの中で、中学受験を頼まれてのこただった。平成10年までには、東洋英和、日大二中、立教池袋、国学院久我山、吉祥寺女子、大妻女子などに合格している。平成20年には、慶應藤沢中学に合格者が出ている。平成25何に都立北園高校に合格した子は、実は小6まで竹の会にいて郁文館中学に合格、学年1番オール5で中3の11月にやってきて指導を頼まれて、結局都立推薦で逃げた。本人は私立難関を望んだが、学校の成績とは裏腹に実力は全くなかったのだ。学校の内申ばかり高くて実力は限りなくゼロに近いという生徒(特に女子に多い)が増殖しているのが公立中学の実態である。そういう内申のいい生徒は、「だから」塾にも行かない。友だちやその母親たちから「塾に行かなくても1番なんて、すごいね」と褒めそやされて、ご満悦な家族となる。しかし、塾に行かなくて内申がいいのはたいてい中2まで。こういう親子は中3になってからボチボチ塾でも行こうかというスタイルだから、それも、女の子は塾に行かないで済めばそれに越したことはないという考えもあり、結局、中3になって、内申はいいけれど、実力は限りなくゼロに近い子が目立つようになる。しかし、時既に遅く、早くから準備を進めたきた生徒には虚しいほど歯が立たない。結局、内申を頼りに日比谷、青山などの推薦狙いで、推薦に失敗すれば、実力がないから、志望の都立を受けて撃沈するか、かなりレベルを下げて都立にこだわるか、のどちらかとなる。わたしは、竹の会の子たちの都立受験のときに、クラスのそういう子たちの情報を嫌という程聴いてきた。
中学校の教師というか、学校の姿勢というか、腹立たしいのは、学校は、内申で評価するだけで、高校受験にどうすれば受かるか、そういう姿勢で取り組んでいないことだ。だから数学の教科書を終わり切らないのだ。そもそも教科書を終わらせたからと言って、上位都立の力がつくわけでもない。授業態度、課題への熱心度、その結果としての提出率、小テストで普段の勉強を怠け度チェックとどれだけ完璧で、体制に従順な良い子に誘導しているのだ。本当にやらなければならないのは、生徒の学力をつけることでしょ。評価ばかり高くて中身は空っぽの張子の虎を作って、無責任に送り出す。無責任というのは、学校は高校受験に全く責任なんか持ってないからだ。100%塾任せでしょ。学校の言う通りにやってたら、子どもは、高校からもう人生は底辺と決まったようなものだ。内申点がほしくて部活動に励むばかばかしさ、「目の輝き」に点をつけられるアホらしさ、部活動で勉強ができなくなってもそれは自己責任、高校受験に失敗してももちろん自己責任だ。まともな高校受験指導もやらないで、それなら公立になんか行く理由がない。カネがあれば私立に逃げたい。ないから公立中高一貫校にと血道を上げる。しかし、頼みの綱の公立中高一貫校も今ではカネのある私立難関志望の子たちに侵食されてしまった。学校の優等生クラスで、小3前後から準備をしていかないと合格できないのが現実である。
小2から何をするか、もちろん手順は決まっている。未熟な脳、具体的な物の意味の認識しかできない脳を抽象的ない思考の世界へと転回していくのだ。この仕事は困難な、時間のかかる、手間のかかる仕事である。わたしは、まず計算からこの仕事をやるだろう。計算とは、数、10進法、四則のルール、小数の定義、割合の架け橋となる分数のしくみ、まことに抽象度の高い、混沌から秩序へ、脳を開発するには、格好の材料である。抽象化の洗礼である。分数という不思議な概念、子どもたちを割合の世界に誘う、そして割合の考え方を脳に馴化させる、竹の会の発明した、ミクロマクロ思考が飛躍的に割合の理解を深めることだろう。子どもたちは、気がつけば、芝中、慶應レベルの割合の問題を解いている、いや解けたことに驚くだろう。
わたしは、算数のミクロマクロ法に値する国語読解法の開発に取り組んでいる。わたしは、その発見を志してこのところ書架から本を探しては読み更けている。精読である。わたしは何か掴みかけている、そう予感したときはひたすら追求する、
鷲田清一の本、岩波講座4「言語論的転回」、「未来形の読書術」、「わかったつもり」、などなど読書の日々です。
わかってきたこと
「文脈」という概念がキィーワードになるのではという予感がしています。特に、西村克彦「わかったつもり」は、「文脈論」についての示唆に富む論稿であり、西村の定義する文脈は、読解指導の視覚化を可能とするものであり、更なる精読を重ねて、わたしなりの指導法・教材化への道を構想できればと期待しています。ミクロマクロ並みの視覚化ができれば子どもたちは、読解の道筋を確認しながら、読むことができる。そういう子どもたちには、福音となる発明となると考えております。ミクロマクロで子どもたちが算数を伸ばしたのは、他でもない比較法、つまり比較することが、理解の枠組みをイメージしやすかったからです。そうなんです。子どもたちは、比較することが、好きなんです。子どもたちの脳内は、何と何を比較するか、で、頭の中は、いっぱいなんです。2つを比較することが、子どもたちには、考えることなんです。考える芽をなんとか植え付ける、これもミクロマクロ法の目的でした。わたしは、国語も考えるということでは、同じだと考えました。国語にもなんとか比較法を持ち込めないか、ずっと考え続けてきたことです。ヒントを得るために、書架の本を探しました。気になる本はたいてい買っているので、たいていの本はあります。押さえておいて、あとから気になるテーマが出たら、書架を探す、そういうことはよくあります。あまりにも本が増えすぎて、先日、段ボール15箱ほどに詰め込んで、竹の会の倉庫に運んだばかりです。本を整理して倉庫に運ぶ、これは暇を見てこれからもやる予定です。
さて、永い間、思考力を育てる、もともとある才能を引き出す、そういう仕事をしてきまして、その効果的な方法の研究に力を注いで参りました。その中でも、竹の会の算数を絶対算数(竹の会所定の知能検査で合格を取った子は必ず算数の達者になる、この成果を踏まえて絶対算数と命名した、)として位置づけたミクロマクロ法に匹敵する国語読解法の開発に、心を砕いてまいりました。
私もなかなかその機が熟さなければ具体的なレジュメ制作には入らない。子どもたちが、国語読解に関しては、難民レベルだと悟ったときから、様々なレジュメで対策を試みてきました。「読解の素の素」は、新作「新読解の素の素」が出ております。また、読解の新シリーズ「読みトレ」は、読み取り訓練に特化したドリルです。小説を特集した「読解百選」、評論を特集した「入試読解」、国語の方法を細かに問う形式の「読解の素」、「国語読解研究」など、国語に関するレジュメはたくさん作りました。私はこうしたレジュメの実践、つまり子どもたちの反応を見て、国語読解の転回を期す、新たなる構想の国語の枠組みを構築している、ということを述べておるのでございます。
竹の会の子どもたちは、ほぼ例外なく、算数を得意科目にしていく過程を辿って参りました。もちろんもともと持って生まれた才能からくる格差は否定しません。ですから、受検基準では無理という子も当然います。しかし、計算、割合の最低限の基礎知識を弁える、そういう子には仕上がっております。竹の会の入会試験に合格するほどの子であれば、もちろん受検レベルにまで育ちますので、ご安心ください。
竹の会では、これまでに培ってきた算数指導のノウハウを小学生の多数となる算数難民救済に向けた指導を計画しております。これは簡単な知能検査は行うものの、入会試験はやらない、これまでに入会試験に不合格の子たちを指導して、それなりのレベルにした(これは合格レベルではありません)経験もあり、できない子の対応もそれなりに可能となりました。もちろん中には才能に恵まれた子もいるでしょうが、それはそれでその才能を伸ばすだけのことです。来年2月に曲がりなりにも算数教室(小2・3/4対象)スタートできればと現在検討中です。
なぜ親はそんな