2019.09.23
十月二十一日は本格的な秋の到来を感じさせる日でした。宵の気温は殊更に低く長袖に腕を通すほどでした。このたびは竹の会のみなさまにご迷惑をおかけします。みなさまのご協力を心から感謝申し上げます。
第15章 将来の夢
漠然とした夢、曖昧模糊とした夢しかない子どもたちのこと
頑張れば、叶いそうな夢でいい、ささやかな夢でいい。しかし、堅実に将来の生計(たつき)を立てた夢でなければならない。私はそう思う。
「看護師になりたい」、その思いで夢中で勉強した、そしたら国立の医学部に合格してしまった、そういう流れがいい感じ。最初は小さな夢だった。夢中で勉強したら、思っても見なかった、夢の夢が叶った。夢とは、そういうものではなかろうか。
最初から高望みをもつと、大仰に構えて却って萎縮してしまい、夢実現どころではなくなる。融通が利かなくなり、力みすぎて、動きがぎこちない。
ところで、自らの夢を毀すのはほかならぬ、自尊心という厄介な、御し難い心のモンスターではなかろうか。
普通に頑張れば叶う夢で丁度いい。その代わり、どんなに小さな夢であっても、全力を尽くすことである。ライオンは、どんなに弱い獲物でも全力で襲いかかるというが、これは動物に学ばなければならない。
何かを成し遂げるというのは、「ながら」でやってどうにかなるということではない。習い事、稽古事、スポーツをやりながら受かると本気で思っている親が東京には呆れるほど多いが、東京の親というのは、受験は無知なのかと思ってきた。大学受験、資格試験は、難関な試験ほど、少なくとも一年、毎日十時間勉強に集中しなければ受からない、というのが、私の結論である。
高校受験、中学受検についても、基本的な考えは、変わらないが、大学受験、資格試験とは、同列には論じえないところもある。
ただいずれにしても、勉強の絶対時間量の確保という点だけは、大前提である。
例えば、小5から始めたとして、それまで何をしていたか、習い事、稽古事、サッカー、野球、なんでもいい、勉強に軸を置いた生活をしてきたか、である。
塾には行っていたのか、それは進学教室か、補習塾か、あるいは公文のようなドリル塾か、あるいは全く勉強とは無縁の生活をしてきたのか。親の勉強への関心の程度、両親の学歴、周囲の環境、様々なファクターが、関係してくる。
さて、小6というのに、小数の割り算もおぼつかないという子たちがいる。小5だってそういう子はそれこそ山ほどいる。小4の一年間、大手に通っていた、という子は意外と多い。よくあるのが、公文とか、花丸とか、地元の補習塾というもの。小学高学年までこれを続けてきた子は、全く学力がないに等しい。
世の中の塾だけでなく、親たちも子どもを躾ける、訓練するということが全くわかってない。訓練しないままとか、ドリル塾のようなぬるま湯塾に何年も通わせるという無為無策の代償はあまりにも大きい。なによりも親の不作為の罪が重い。子どもというのは、低学年の時の訓練の質で、高学年の学力が決まるということである。
小4から始めてどうか。全くの、真っ白な状態からのスタートというのが、一番ノーマルなのかな、と思う。最近の竹の会の指導技術の進化、発展は、さらなる低学年の指導を可能にしている。竹の会の最新最先端の指導術は、小2の指導も可能にするであろう。
小2の指導とは、具体的には、どういう内容になるのか。
竹の会では、指導の体系というのは、学年に関係ない、と言っていい。小2でも、小6でも、最初は、小数の計算からである。もっとも小2の場合、小数どころか、整数のかけ算、わり算も習っていないのが、普通であるから、そこから始める、ということはある。
竹の会では、小4、小5の期間、大手などの塾に行っていた、ということが、なんの意味も持たないというのが、経験上ほとんどであったという事実が、大手を始めとする巷の塾の内実を推して知る根拠になっている。この人たちは、2年も3年も大手に通いながら、まともな計算ひとつできないではないか。そういう子たちを2年も通わせて、いったいその塾は、子どもの力ひとつをまともに見ていない、いやもしかしたら、知っていたが放置していたのかもしれない。親たちは、自分の子が何の力もつけていないことを知らないままに、2年を無駄にする。大手に通っているからと子どもの実態を見ることもない親もいる。その神経は、大手大手と大手しかない信用振りにしてはなんともお粗末な話しである。怠慢と放置が子を疎外する。
親がバカなら子もできなくても何も感じないのだから、バカに違いない。できなくても仲間とわいわやれて楽しいとさえ思っているのだから、やはりバカである。
竹の会では、早くから訓練してきた小4に、後からきた小5や小6が遥かに遅れている、ということがほぼ日常的に起きている。小4が、難しい割合の問題を解いている時に、小5や小6が、小数の割り算で、余りを間違えてやり直すなどという光景が普通に見られる。私が腹立たしいのは、2年も塾に通って、竹の会へ来たら、そういうことが何の糧にもなっていず、最初から、つまり小数からやるしかないという現実である。
東京の親は塾を知らない。知ったかしているだけで、何もわかっていない。腹立たしいのは子どもを結局クズにしてはしまうことだ。甘えさせるだけ甘えさせる。欲しがるものは結局買ってやる。子も輪をかけてアホでやたら高価な物を欲しがる。勉強したら何かをかってやる、と親が言う。バカか。勉強を取引、駆け引きで、やらせてどうなるというのか。そうではあるまい。勉強の意味をこんこんと説かなければならない。何のために勉強するのかということをとことん子どもと突き詰めておかないから、勉強を舐める、嫌がるのである。勉強は、そんな生易しいものではない。勉強は、将来食っていくための、手段である。親は勉強をただやれというだけで、勉強の意味を子どもに問う、説くこともない。子どもに将来の職業のビジョンを持たせること、これは親の責務であろう。
具体的な職業を夢に設定する。
漠然とした未来しか描けないから勉強しないのだ。部活に現を抜かすのだ。そもそも部活をやるのはなぜか。面白いから? それなら面白いことだけやって将来はどうやって食っていくの?
最短で18歳、いや15歳か、社会に出る時が来る。だったらそれまでの期間はその準備期間であるはずなのに、社会に出るギリギリまで、勉強もしないで、部活、習い事、稽古事で遊ぶ、時間を浪費するというのは、どういうことなのか。
具体的に未来を描けば、それが行動に繋がる。自分が将来どういう職業につきたいか、まだわからないというのが普通であろう。ただ親は将来どんな職業に就くにしても、職業の選択肢は、勉強した者の方が、遥かに質が良くて選択肢も多いということを知るべきであろう。
わたしたち、普通の人間には、親から引き継ぐ財産もなく、食べるだけで一所懸命の人間には、将来を保障してくれるのは、勉強だけである。これだけは、今の日本の社会では、無産者にも、観念的には、平等に保障されている。もちろん格差社会と言われる現在の日本では、教育格差が、貧富の差になる、ということが、現実になっている。
それにしても教育の機会はあるのに、当の親が習い事、稽古事、スポーツ、部活にと寛容、中には執心なのは、どうしたことか。こういう親たちは、子どもに何がもっとも大切なのか、教えられない。確かに、石器時代とは違う。生きることが、そのまま生存をかけた時代とは違う。しかし、食べていけない、生活困窮者、下級国民という身分は、確実に存在する。その層に属する、圧倒的多数は、勉強をしなかった人たちが占める。もちろん経済的な理由で教育を受ける機会のなかった人たちも含まれるし、能力的に勉強を忌避した人たちも多数いる。また能力、経済力はあるのに勉強に背を向けてきた人たちもいる。その中には、習い事、稽古事、部活で勉強を蔑ろにした人たちも当然含まれる。
本質は、旧石器時代とは何も変わらない。人生は、自己の生存をかけた生き残り競争という本質は何も変わらない。教育的見地、人間的視点、そんなものはただの綺麗事だ。人生は生まれた時から戦いであり、食べていくための生存競争である。これを否定して、人生を生きがいだとか、生き方などと言うのは、もともと食の心配をする必要のない、一部の特権階級にのみ言えることである。よく身分の保障された〇〇大学教授とか、作家、僧侶、その他が、人生を語るけれど、十分な収入に保障された人たちの能天気な戯言を鵜呑みにしてはならない。現実に食うや食わずの生活をするしかない人たちが社会の底辺に広がっているということから目を逸らしてはなるまい。生存競争の敗者の人生はお決まりである。少なくとも令和の今、その人生に変更はない。
竹の会が、東京の皆さんに邂逅できるのは、もう何年もない。あなたたちが、指導の名人を自称する、私の指導を受けられる日はもちろん永劫ではない。ここ数年かもしれない。あなたたちは、竹の会の私の指導を知ることもなく、相変わらずの巷の大手の塾、地元の塾に通う、塾とはこんなにも違うものだ、違うのか、ということを知ることもなく。我が子を無事社会の底辺に送り出して、人生とは、カネだけではない、愛、信頼が大切だなどと納得して、恙無く下級国民の地位に甘んじて幸せを見出すことでしょう。
竹の会で、今現実に勉強されている子どもたち、親御さんの本当のところ、声をもし聞くことができれば、竹の会について私が語ることが、大言壮語などではないことがわかってもらえると思います。しかし、竹の会の親御さんたちは、寡黙な方たちが多く、いろいろ言いません。むしろ竹の会にいたこともない人たちが、まるでなんでも知っているかのような体で竹の会を非難しますが、これは不思議なことです。だって実際にわたしの指導を受けている人たちが静かなのに、事実を何も知らない人たちがただ悪意で悪口を言っているのですから。
あなたたちが、子どもを手元に置く期間が長くなればなるほど、あなたたちの子どもは使いものにならなくなる。社会の生存競争を生き抜くなど到底できない軟弱な子になる。小5になっても手元に置いて可愛がる、そんなことやってたら、あなたたちのエゴは満足させられたかもしれないが、子どもは将来社会でどうなるのか、想像するだけで怖くなる。
わたしは、小学低学年の指導の達人です。いや小学生指導の名人です。子どもたちを生かすも殺すも親であるあなたたちの裁量にかかっています。いいですか。竹の会では、訓練した小学低学年の子が、訓練から置き去りにされてきた小6や小5を遥かに凌駕している、という厳然たる事実があるのです。訓練を置き去りにされたとは、塾に全くいかな子たちは当然として、早くから塾に通っていても、大手や地元塾で、なんの訓練もされてこなかった、親の無策の犠牲になった子たちのことです。
あなたたちは、訓練するということがまるでわかっていない。小学低学年を花丸型塾で過ごすことの意味をわかっていない。小4や小5の間、無神経に大手に放り込む親の神経は杜撰としか言いようがない。「危ないから」と近くの地元塾に通わせるあなたたちは、塾ならどこでも同じ、五十歩百歩と思っているのかもしれないが、それが人生の選択を決めるほどに大切なことと知るのは、子どもたちが社会に出てからのことである。
いいですか。子どもというのは、七歳からもう訓練です。甘やかせて遊ばせて、機嫌をとって、欲しいものをどんな高価なものでも買ってやる、子どもが一人で何かをしようものなら、すぐに「危ない」と引き留める。そんなことやってたら、それはじわじわと子どもを社会的に殺していることにほかならない。「危ないから」、確かにそういうリスクはある。だから最善のフォローはする。それだけの手間をかけても子どもを訓練することは他に代えられない大仕事なのである。
あなたたちは、歌舞伎役者や能狂言師、日本舞踊の家元の家系などが、それは幼いときから芸事の訓練をさせられていることを知っている。そしてそれは特別のことと思っている。世阿弥の花伝書を読むと訓練の開始は七歳からとあるが、世阿弥は、芸事の話をしているが、芸とは体捌きを脳に教え込むこととすれば、要は、脳に何かを教え込むのは、七歳という一般論を述べていると考えてよかったのである。歌舞伎役者の家系は、厳しい訓練が、子の芸だけでなく、心身を形成することをよく知っている。昨今のバカ親の底抜けの甘さゆえの過保護の風潮は世阿弥の精神とは無縁の愚行にほかならない。
わたしは、七歳とは、言わない。ただ竹の会に来る前に、字だけはしっかりと書けるようにしておきたい。これは親の仕事である。字が形を成してないなど、放置も甚だしい。そもそも字というものは全体のバランスが大切なのに、今の子どもたちは、好き勝手に殴り書きをしてバランスという感覚はおよそ欠落している。
それから学校で習う、繰り上がり、繰り下がりなど、足し算、引き算の基本も理解しないままに放置して、塾に丸投げする親は願い下げである。レベルの低い学校の授業もわからないでは、塾のできることなどない。
十月に入りまして、二十日ほどこのブログをお休みすることになるかと思います。ブログは書けないけれど、わたしの心は、子どもたちをなんとかしたいという心は、熱く燃えております。また元気に皆さんと再会できる日を楽しみにしております。
竹の会合格35年史 竹の会昭和60年(1985年)創設
平成31年
中学受験
都立桜修館中等教育学校(男子)※併願合格 巣鴨中学 攻玉社中学 都立桜修館中等教育学校(女子)千代田区立九段中等教育学校(女子)千代田区立九段中等教育学校(女子)
高校受験
都立青山高等学校(女子)
平成30年
中学受験 都立桜修館中等教育学校 都立富士高等学校附属富士中学校 都立富士高等学校附属富士中学校 ※併願私立 東京農業大学第一高等学校中等部
平成28年
中学受検 都立小石川中等教育学校 都立白鷗高等学校附属中学校 都立富士高等学校附属富士中学校
高校受験
都立戸山高等学校 都立文京高等学校
平成27年
中学受検
都立桜修館中等教育学校 都立富士高等学校附属富士中学校
高校受験
都立戸山高等学校
平成26年
高校受験
都立駒場高等学校
平成25年
中学受検
都立小石川中等教育学校 都立桜修館中等教育学校 都立白鷗高等学校附属中学校
高校受験 ※1名中1名合格
都立北園高等学校
平成24年
中学受検
都立富士高等学校附属富士中学校
平成23年
中学受検
都立小石川中等教育学校 都立桜修館中等教育学校
高校受験
都立小山台高等学校 都立文京高等学校 都立産業技術高等専門学校
平成22年
中学受検
都立桜修館中等教育学校 都立両国高等学校附属中学校 東大附属中等教育学校
高校受験
都立富士高等高校
平成21年
大学受験
慶應義塾大学(商学部)千葉大学(法経学部)
平成20年
中学受検
都立桜修館中等教育学校
高校受験
都立西高等学校 豊島岡女子学園高等学校 桐蔭学園高等学校(理数科)立教新座高等学校
平成19年
中学受検
千代田区立九段中等教育学校 東大附属中等教育学校 東大附属中等教育学校高校受験
都立狛江高等学校
平成18年
中学受検
東大附属中等教育学校
高校受験
都立富士高等学校 都立狛江高等学校
平成17年
高校受験
都立青山高等学校 都立新宿高等学校 都立大附属高等学校 桐蔭学園高等学校(理数科)
平成16年
中学受験
東大附属中等教育学校 成城学園中学校
高校受験
都立富士高等学校 都立富士高等学校 國學院高等学校
平成15年
中学受験
国学院久我山中学校 吉祥女子中学校
高校受験
都立新宿高等学校 都立鷺宮高等学校
大学受験
中央大学
平成14年
高校受験
都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立駒場高等学校
大学受験
慶應義塾大学(総合政策学部)上智大学(経済)
平成13年
高校受験
都立西高等学校 都立国際高等学校 都立新宿高等学校
平成12年
中学受験
東大附属中等教育学校 日本大学第二中学校 実践女子学園中学校
高校受験
都立青山高等学校 都立新宿高等学校 都立新宿高等学校 都立新宿高等学校 国学院高等学校 国学院高等学校 東京農大第一高等学校
平成11年
中学受験
立教池袋中学校
高校受験
都立青山高等学校 都立駒場高等学校 青山学院高等部
平成10年
高校受験
早稲田実業学校高等部(普通科)早稲田実業学校高等部(商業科)立教新座高等学校 日本大学第二高等学校 都立駒場高等学校 都立三田高等学校
平成9年
中学受験
成城学園中学校 大妻中野中学校 大妻中野中学校 恵泉女学園中学校
高校受験
都立青山高等学校 都立新宿高等学校 都立新宿高等学校 都立駒場高等学校 都立駒場高等学校 成城高等学校 成城学園高等部
平成8年
中学受験
昭和女子大附属昭和中学校
高校受験
都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立新宿高等学校 都立新宿高等学校 国学院久我山高等学 東工大附属高等学校 日大櫻丘高等学校 玉川学園高等部
大学受験
東京理科大学(理工)
平成7年
中学受験
成城学園中学校
高校受験
東邦大附属東邦高等学校
大学受験
中央大学(法学部)
平成6年
都立青山高等学校 都立新宿高等学校 国学院久我山高等学校 帝京大学高等学校
大学受験
東洋英和女学院大学
平成5年
高校受験
都立大附属高等学校
平成4年
高校受験
都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立駒場高等学校 桐蔭学園高等学校(理数科)成城高等学校 共立女子第二高等学校 東京農大第一高等学校
平成3年
中学受験
東洋英和女学院中学部
高校受験
都立戸山高等学校 都立新宿高等学校 都立駒場高等学校 青山学院高等部
平成2年
中学受験
獨協中学校
高校受験
都立新宿高等学校 都立大附属高等学校 東京農大第一高等学校
平成1年
高校受験
都立国際高等学校
昭和63年
高校受験
都立駒場高等学校 都立芸術高等学校 都立大附属高等学校 富士見高等学校 国学院久我山高等学校
昭和62年
高校受験
都立駒場高等学校 都立大附属高等学校 都立大附属高等学校 都立目黒高等学校 青山学院高等部 市川高等学校 国学院久我山高等学校
竹の会昭和60年10月開設