2020.03.17
算数の牙を砥げ‼️
ソ連の全体主義による民衆への抑圧を告発したアレクサンドル・ソルジェニーツィンの言葉
(「収容所群島」)として、紹介されていた、
彼らも 彼ら自身がウソをついていることを知っている
彼らは 我々が彼らのウソを知っていることを知っている
我々も知っている 彼らは我々が彼らのウソを知ることを知っていることを
それでも彼らはウソをつき続ける
算数という、知恵に満ちた、思考の遊びの面白さを知ったのは、平成十七年の頃だったろうか。それまでの私は高校受験、大学受験の指導を得意としてきたから、時折、飛び込んでくる中学受験の依頼も決して算数の専門家として受けていたわけではない。数学を得意としてきたから算数もどうしても数学的に処理してしまうことが多かった。数学的というのは、要は、方程式的に解くということである。もちろん過去問はそれこそ首都圏の名だたる中学のものなら最低でも過去二十年分は解いていたから、すべてが方程式で賄えないことはよく知っていた。
私が、本格的に算数に取り組むことになったのは、都立中高一貫校受検の小学生を指導することとなったことがきっかけである。公立中高一貫校制度がスタートした当初は、猫も杓子も受検、受検でこれまで受験とは全く無縁の層(小6)が大量に「とにかく受けてみるか」とまるで宝くじを買うように受検を言い募った。竹の会にもこういう小6や小5がやってきた。指導を始めて驚いたのは、通分もわからない、割合となると全く理解できない、そういう子たちが、うようよいたことだった。公立小の小学生の学力は、酷い惨状であった。家庭学習の習慣もなく、家に帰れば遊ぶことしか頭にない子たちばかりであった。公立中高一貫校制度スタート時は、地頭のまともな子が少し勉強すれば受かる時代であった。
わたしの戦いは実にここから始まった。割合を如何にして普通の小学生に理解させるか、わたしの算数研究はこういう現実を見てから始まった。割合指導理論の確立、受験算数の過去問の分析、算数過去問にわたし流の理論的な説明を与えること、それから数年、わたしは、昼夜を問わず研究に没頭する生活を送ることとなった。
算数というのは、数学のように情報が必要十分にあって、数学的仮説、定義からあるべき数式を立てていくというのとは違って、圧倒的に情報のない、少ない中で、恐ろしいほど、簡明でシンプルな正解の道筋を探すところに、クイズを解くのと同じ知的快感があった。
わたしは、まず割合を苦手とする子どもたちはもちろん地頭のいい子たちにも有用な割合思考法、わたしはこれをミクロマクロ法と名付けたのだが、を発明した。さらには、小学生の計算習得過程の分析研究から、もっとも効率的な計算マスターの指導手法を開発していった。やがて計算法は、一つの指導体系として、完成した。今、竹の会の子どもたちが、たとえ小2でも入会して2、3か月で、たちまち中学難関中レベルの計算問題が解けるようになるのは、竹の会の関係者なら誰でも知っていることである。さらに、竹の会の割合習得法、引いては算数勉強法が、竹の会に入会した子どもたちをたちまち算数の虜にし、平気で中堅中の入試問題レベルの問題を解くようになることも誰でも知っていることである。
わたしは、もともと地頭のいい、したがって苦もなく割合を理解できる層のために、難関中の算数過去問を分析研究して、竹の会オリジナルの解法をレジュメにして、蓄積してきた。灘中、開成中、早稲田中、麻布中などの算数過去問は、三十年分につき、詳細な解説を書き上げた。いつしか、竹の会の桜修館や小石川の合格者が、併願として、巣鴨や攻玉社と言った私立に合格するのが、珍しくなくなった。竹の会は、思考教育を軸にいつしか大手のやり方とはまるで違う、教育法を完成させていた。
かつて日能研に通う小5というのが、小石川合格も目論み、竹の会にやってきた。ダブルスクールである。しかし、一か月で止めてしまった。大手で授業に慣れた子には、考えさせるという指導が、なにか放置されたような気になったのであろう。いやそれよりも竹の会を信頼していなかった、しきれていなかったことが大きいのかもしれない。大手に通いながらだから、大手信仰を軸に竹の会を利用してやろう、と思ったのかもしれない。竹の会をその程度にしか思っていない親子は、竹の会は通う価値もない、と判断したのだろう。子どもがだめだと言い、親がそれを認めるという構図が手に取るようにわかる。
竹の会を止めて大手進学塾に行った小5がいたが、要は、竹の会に対する信頼が、そこまでだったというだけのことである。
実は、竹の会で成功するかどうか、というのは、竹の会をどれだけ信頼したか、に関係する。信頼度が高いほど成功している。また運悪く失敗したとしても、高校受験で成功する例が多い。中には、子どもさんの精神的成長に竹の会に感謝する親御さんも多い。
竹の会の三十五年、不思議なことですが、竹の会を絶対的に信頼した親子は成功し、結局信頼しきれなかった親子は、失敗した。
親御さんが、いろいろ口出しをする、竹の会の指示を親の裁量で加減する、親が差配する、これは、究極的なところでは、結局竹の会を信頼しきっていない、ということなのだと思います。
そういう親御さんの子は必ずとは言いませんが、失敗する蓋然性が高い、ようです。
高校受験には、典型的な失敗型の親子がいます。三十五年の竹の会の歴史の中では、都立高校に失敗したのは、10ほどあるかもしれません。この失敗のケースの中に、閉鎖型親子、鎖国令親子というのがいまして、これは、とにかくわたしに一切の情報を隠すということが特徴です。だから親が受験相談するということもありません。志望校すら隠して言わないという親子もいました。わたしは何も知らない。本人に尋ねても、「はい」「いいえ」でしか答えない。竹の会を信頼していないのか? それにしては竹の会はやめないから、評価はしているのかな。
隠す型には、成績を見せないことは同じだが、自分で解いていないのに、解いたことにするという子が意外に多い。親が解いた、もしかしたら家庭教師が説明したのか、友だちの解答を見たのか、友だちに聞いたのか、解答集を手に入れのか、などいろいろありうる。とにかくわたしには自分で解いたと申告する。
親差配型というのは、竹の会に指示を仰ぐのではなく、多くは母親が、なにをするか、指示する型です。竹の会の指示を全く無視するのではなく、概ね従う、しかし、母親の判断が最優先です。過去問も母親がやらせて採点する。わたしには、断片的にスマホなどで見せたりなど。
竹の会を信頼しているのでしょうけれど、100%ではない。わたしの指示がわたしの青写真のとおりに履行されていないのはもちろん、わたしの合格を見ての指導の一環ではない。
無視型。自分の偏差値、内申からは、合格はあり得ないのに、わたしの判断を無視して、強行受験するという子が過去に何例かあった。憧れが強くて実力とはかけ離れたところを受ける子がたまにいる。また内申はいいが実力が伴っていない、そういう子の中には、見栄で受けるという子もいます。
さて、横道に逸れましたが、わたしが言いたかったのは、竹の会を信頼する人、信頼の強い人ほど成功する蓋然性が高い、ということでした。
そして、算数、数学というのは、合格をもたらす最重要要素である、ということです。まず、算数、数学ができる、というのは、地頭がいい、ということの証明です。
わたしが、竹の会が、取り組んできたのは、普通の子に算数の面白さを伝える、ということでした。ところが、わたしの発明した方法は、普通の子はもちろんですが、むしろ地頭のいい子たちにコペルニクス的転回をもたらしたのです。頭のいい子ほど、わたしの方法に感動しました。高学歴の親御さんは、同じように感嘆しました。わたしは、そういう地頭のいい子たちを効率的に実力者として仕上げていったのです。
算数、数学がある域に到達れば、かなりの確度で、合格が見込める。
ただし、中学なら、英語が99%の仕上がり、理社は、90%の仕上がりは、当然となる。
英語、理社が悪いのは、怠け者の証明となる、証明書である。
英語は、竹の会なら、一年で受験レベルになる。竹の会の英語を語ればまたこれだけで一つの物語となる。竹の会には、わたしの渾身の作品である「新英語指導案」と「入試英語指導案」がある。いずれも百ページにも満たない本だが、これには、中学で学ぶあらゆる文法事項、入試のエッセンスが網羅されている。真剣に勉強すればたちまち中学三年間の英語を一年でマスターすることになる。
理社は、まず、普段の定期試験で常に9割をキープすることが基本である。その上で、高校受験の理社の対策をとることになる。竹の会では、通常中2の夏に、理社のテキストを渡す。これをなにがなんでも中3になる前にやりあげる。この「やりあげる」というのは、実は奥が深い。
「やりあげる」というのは、渡されたテキストのどこが問われても完全に答えられるようにしておくことである。ただに七回解き直し、見直しでは、足りない。いつもテキストを見て見直す、毎日でも見る、時にはノートにまとめる。とにかくそれなりの努力をしなければ、どんな問題にも答えられるようにはならない。ここのところが曖昧だから中3の8月の模試を逃げたり、最悪の点数を取ったりするのだ。ロープが切れそうな、断崖絶壁にぶら下がった、そういう真剣さが欲しい。
よく小学生の親から、理社はどうなっているのか、と質問がある。私立中学受験とは違う。公立中高一貫校なら、理社プロパーの勉強は必要ない。しかし、理社の勘所を捉えたエッセンスは勉強する必要がある。
竹の会には、実は、私立受験をも見据えた理社の対策レジュメがある。もう十五年ぐらい前のことだったか、吉祥女子中を受験した子がいて、算数を指導したのだが、この時に、理科と社会の受験用の教材を書いたことがある。いろいろ市販の参考書や問題集を手当たり次第に読みまくり、気にいった参考書を参考にしながら、理科と社会の全体像を、輪郭線を描くことを基本ポリシーにわたしなりの中学入試理科、社会の輪郭を書いてみた。その後、この教材は使われることもなく、パソコンの中で眠り続けてきた。ただ、時折り、課題のテーマとして、取り上げたりしているが、中学受験をやらない竹の会で、日の目を見ることは期待薄である。
ただ白鷗や小石川などの処方箋を書くときに、理科、社会の対策として、利用することを考えている。
竹の会の現在の理科、社会対策としては、課題としてではあるが、「教養のための理科」という市販書籍を使った、問題と添削(答案例付き)指導がある。ほかに、過去問で出題された重要問題を問題、添削、解説で深める「理科をクリアにする」、「社会をクリアにする」がある。理科の重要問題を深く勉強するには、「理科の必要十分条件」という詳しい解説レジュメシリーズがある。