2020.04.01
失敗の構造
合格するだろうという確信が持てない子たちがいる。それは、普段の指導においてわたしの中に形成されてきた何かがもう看過できない一つの塊としてわたしの心の中の確かな存在として認識できるレベルにまできた子たちである。
いいですか。本番では、これまで見たこともない問題が問われる。普段とは全く違う、雰囲気の中で、大勢の受検生が同じ会場で、一堂に会して、緊張感は限界に達し、冷静な思考、判断は、たちまち吹っ飛んでしまう。尋常ならざる環境である。
過去問でも解いたことのない問題が出る。そこで頼りになるのは、ただ一つ、考える、考えて解くという姿勢である。過去にどれだけ考えて、苦しんで、悩んできたか、これが、これのみが、本番に対抗しうる力の源となる。ウィルス的に言えば、抗体となる。
説明聞いて、解説読んで、「わかった」という勉強を続けていたら、つまり考えるという脳の働かせ方をしてこなかったら、本番で太刀打ちできるはずもないのである。
7回解き直しが、思考回避の口実となってはいなかったか。7回解き直しには危険な副作用がある。問題を特定化して解き方と答えを暗記する作業に堕してしまうのである。これは思考を無効化することにほかならない。7回解き直しを使えるのは、レジュメ、過去問の正答率が譲歩しても6割、理想は7割以上の人である。正答率が、3割前後の人は、普段のレジュメなどを結局解説レジュメを読んで「わかりました」とする進め方になり、自分の頭で解決するという経験のほとんどない人である。こういう人が7回解き直しをやれば、それは暗記の勉強を強化、固定化しているだけであり、7回解き直しは、思考を殺す装置になる。
本番に際して、配られた問題を読んで、まず、考える、考えるのである。このとき、思い出そうとしたら、覚えていることを思い出そうとしたら、その時に、勝敗は既についている。
暗記の勉強をしてはならない。暗記した知識は、知っているかどうかだが、理解した知識は思考の手で掴んでいる知識である。そうなのである。知識というのは、思考の手で掴み、思考の無限の容量をもつ無意識の司るハードディスクに格納するのである。格納された知識を引き出すのは、思考の手でしかない。
そうなのである。私たちは、普段の勉強で、思考の手を使えるように訓練しなければならないのである。考えるとは、ほかならない、有能な思考の手を作り上げることなのである。
思考の手はどうやって作るのか。
思考することである。ただ思考するのではだめである。それが塾の、いや竹の会の仕事である、使命である。計算法から始めて、割合という、思考形成に最適の道具をフルに活用して、思考の手の形を少しずつ作りあげていく。最初は、幼児の手のように満足にものも掴めない。握力なんて全くない。ただ手の形をしているだけである。そうなのである。思考というのは、手で作られるのである。手が思考を作ると言っていい。思考の手は、考えることによって成長していく。
考えても見てください。普段からろくに考えたこともない人が、突然本番の日だけ考えることなんか、できるのか、です。勉強なんて考えてなんぼです。覚えるだけ、暗記するだけ、そんなの勉強ではないし、そんな勉強なら面白くもなんともないでしょ。
人間は面白くもないことなんか、やりたくもないでしょ。面白いから勉強をやる。しかし、勉強の面白さなどというものは、初心の間はなかなかわからない。できなかったことができるようになるとか、わかるようになると言った面白さはあるかもしれない。それはその人個人の知的関心の強さに左右される。ここでも勉強への関心の薄い人間には、勉強は面白くはないものであろう。だから、関心を持てない子には勉強ば強制すべきではないし、しても効果は上がらない。
だれもかれもというのはない。
勉強の面白さというのは、ある程度勉強の上級者にならないと、わからない。
いろいろなことが、いろいろなことのつながりが、わかってきて、面白さというものも、出てくるものである。初心者の時の面白さとは、質もレベルも違う。
思考回避の無意識的行動が既に合否の結果を出している
わたしは子どもたちの実際の事実は何も知らない。ほんとうに自分で解いたのか、誰かに教えてもらってないのか、市販の解答を見たことはないのか、すべては闇の中、ただ、わたしには、その子の実力の実像だけは、わかる。模試が取れない、教室でのレジュメの正解率が極端に低いなど、わたしには、闇の中の出来事を推測する手がかりはある。よくあるケースなのだが、「家で解いてきました」というのがある。その場合、正解率は高い。合格者は「家で考えてもわからなかった」と申告してくるが、不合格者は不思議と家で解いてきたレジュメの正解率が高い。不思議なことである。
模試の結果がすべてだとは思わない、しかし、模試は、有力な資料であることは間違いない。
これだけ述べてくれば、もう合格するには、何をなせばいいのか、おわかりになるはずである。
考える、とにかく考える、徹底して考える。決して諦めない。もしあなたが、断崖絶壁に追い詰められたときどうしますか。必死に生きる方法を探すのではないか。もしここで諦めればそれで終わりである。最初から諦めていたらもちろん助からない。自分の置かれた立場を理解しないで、漫然と、楽観していたら、助かるはずもない。そうなのである。必死にならなければならかったのである。スポーツやりながらとか、習い事、稽古事やりながら、とか、受験と両立させようなんて考える人には、断崖絶壁にいることの自覚、認識などはない。
受験というのは、自らを断崖絶壁の際に追い込む、ことにほかならない。受験直前になって、他人と和やかな態度などありえない。少なくとも自分を緊張に満ちた、一歩間違えば断崖絶壁の下に落ち込む、すなわち生死の境にあるという、張り詰めた緊張感がなければ合格の芽はない。
要するに、生死の際に立つという緊張感がないのである。人間にとって緊張感がないというのは、致命的である。本人にはわからないが、側から見ていると人の「緩み」というのはよく見えるものである。「緩み」というのは、心の「緩み」、すなわち注意散漫、無防備、要するに、スキだらけの心である。