2020.03.09
回避習性こそ不合格者の特性
考えさせる問題に太刀打ちできない。これはまず地頭がないことが主因である。地頭がないというのは、受験をそもそも考える次元にない、とはっきり言ったほうがいいのかもしれない。大手を含むほとんどの塾が、地頭のない子を商売のタネ、稼ぎのタネとしているのは、周知の事実であろうが、親たちはそれもわかっていてそれでもなんとかなるかもしれないと一縷の希をかけているのがほんとうのところかもしれない。
大手も地頭のいい子が受験に成功するということを当然わかっているから、試験を設けて生徒を選別することもやる。しかし、入塾試験とは関係ないクラスもしっかりと用意していてこれが圧倒的多数というのが事実なのではないか。
こうして最初から受験の真実は変わらない。地頭のある子が受かる。ただそれだけのことなのである。
地頭がないなら、受験は諦めたほうがいい。塾に通えばなんとかなるという幻想は捨てた方がいい。
これが中学だとやや事情が異なる。公立中というのは、努力するしないで分かれるという特殊性がある。それは内申制度があるため一発勝負ができにくい制度になっていることもある。地頭がいいだけではトップ都立には行けない。共感性の欠如した子は内申で損をする。つまり都立には不利である。こうしてそこそこ頭があって努力を怠らなければそこそこの都立に合格できる可能性も出てくる。
ともあれ受験というのはある程度地頭のいい子たちに認められた制度だということをまず認識してかからなければならない。
表題の回避習性というのは、やはり地頭に問題のある子の一つの特性なのである。難しい問題をやりたがらないとか、避けるという傾向である。これは、実は、地頭がある子にもたまたま見られることはあるが、その本質は違う。後者は、ただ面倒くさいからである。勉強というのは、本来面倒くさいものである。そう考えたらそれから先には決して進まない。
当然「避ける」習性のある子は受験に失敗する蓋然性がかなり高い。
総じて、消極的な判断は受験の失敗を示唆することもわかっている。
よくあるのが、「安く済ませよう」とする節約思考であるが、こと受験では、これは裏目に出る。ここぞというときにはカネをかけるしかない。そのために失敗したという例なら夥しい数を見てきた。
わたしがよく指摘するのは、中学なら部活、小学なら習い事、稽古事、全般に、家族旅行などの家族行事であるが、これらは、勉強を「避ける」行動と見られてもしかたない。
少なくとも受験成功からは遠ざかる行動であることは間違いない。
わたしが「やるように」と指示したレジュメを「避ける」「先送り」するようになると、見込みはない。正直ここで指導を打ち切るのが誠意のある対応だと思うが受験直前でこれができないことはよくあった。
中学だと渡したレジュメがその日どころか、何日も返ってこない、ということが往々にしてあるが、これは正直指導を打ち切るのが正しい態度だと思う。
地頭のない子は、こなし仕事が好きだ。要するに、頭を使わない形だけの勉強に逃げ込むのである。だから計算とか、漢字とか、頭を使わない仕事が好きである。
昨今の都立中選抜試験を見てわかるのは、未知の、初見の問題について、どういう姿勢で勉強してきたか、が、問われている。「考える」姿勢を最後まで貫き通せなかった者は、結局排除される、振り落とされる、これが真実である。
子どもに一つのレジュメを与える、その時、その正答率で、思考の質、理解の段階がわかる。さらにこの時の「考える」姿勢から地頭の片鱗を感じとることもできる。
課題は、子どもの家庭学習のありよう、規則正しい生活習慣、勉強を生活の一部としているか、そういうことを推測する検査である。
塾の先生というのは、常に、子どもたちを検査している、検査したがっている。わたしは、よく血液検査に喩えるのだが、わたしは、いつも子どもの状態をリアルタイムで把握しておきたいという気持ちが強い。竹の会の今のようなやり方は、つまり、一問をレジュメにして、考えさせる、考えた結果を、診て、つまり、検査結果を診断する、そこから、次の指導をどうするか、つまり処方を考える、如何なる処方が適切か、考える、指導というのは、都合このような流れになるかと思われる。
不思議なことなのであるが、受検に受からないタイプの子というのは、回避性、先送り特性の強い子である、ということでは、共通している。
新しくレジュメを与えると「避ける」、課題を出すと「先送りする」、模試を勧めると「回避する」、「先送りする」、指導レジュメは、もらってすぐに出さない、つまり「逃げる」、塾を休むというのも、特に受検直前は、「回避」の表れです。やたら早退する、遅刻する、というのも、受検から遠ざかりたいという意識の表れのことが多い。
受検の年なのに、旅行するとか、なにかと家族の行事が多いとか、家の退っ引きならない手伝いとか、これらの行動は、口では、勉強第一と言いながら、回避、逃げの口実のことがほとんどである。
以上述べたことは、よく見られる典型例を挙げたのみで、要は、あらゆる行動、思考が、回避的なわけです。何かと先送りする。何かと逃げる。何かと消極的姿勢が目につく。
家庭学習がない、少ない、勉強量が少ない、など。
この流れで、合否の目安として、わたしが注目するのは、解答時間が速い子である。もちろん正解率もいい。たまにそういう子がいる。これは試験センスがいい、試験勘がいい、ということなんですが、そういう子がいる。こういう子というのは、勉強の要領もいいのかと思うのですが、とにか試験に強い、受かることが多いわけです。
わたしがよくあたるのは、不安ですね。不安は的中する、悪い予感は必ず悪い結果の予兆となった、ということです。
なぜ不安をもつのか?
これは私の想定した指導の流れを取れてないことが、そもそも根幹にある。そういう期待を外したところが、わたしに不安の楔を打ち込んできた。レジュメで期待通りの合格ハンコが取れない。いつも解説受けて、解説読んで、「わかった」ことにしてきたなど、課題を何か月も出さないで先送りしてきたなど、指導レジュメを時間内に解けず家に持ち帰りそのままになってしまったなど、作文をほとんど出してこないなど、作文の文のレベルがあまりの幼いなど、私の心に打ち込まれる楔は多種多様である。
私は指導する、一人一人の子に、不安の楔を打ち込まれた状態で、なんとかその楔を取り除こうと取り組んできた。失意、落胆、いつも不安の楔は容赦なく打ち込まれてくる。楔となるのは子に限らない。もの言う親にどれほどかき乱されてきたことか。
親がいろいろと子どものために心配するのは当然であり、そうした親御さんの問い合わせは問題ない。わたしにわたしの指導の口出しをするものではないからだ。
わたしは、「この子は受かるだろう」ということを予測することがある。この予測はたいてい外れない。わたしがそこまで判断するのは、不安よりも、合格の根拠の方が揺るぎないときである。逆に、そこまで言うことのできない子たちについては、なにも言うことはない。ただはっきりと「ダメだろう」と思う子はもちろんいる。わからない、もしかしたら、という子もよくいた。実際そういう子の中から合格が出たこともあった。予想外の合格である。思い出すだけでも数件ある。こういう子たちは、わたしは、よく、受かっても「ああ、そうかも」、落ちても「やはり」という範疇にある子たちだ。わたしが「合格する」とまでは言い切れない子たちだ。合格の根拠がなくはないが、不安も多い、むしろ不安の方が多いからだ。過去問7回解き直しは、よくやっているが、真の算数力はない、という不安がある。結局、算数のできない子が受かることは、ない、という揺ぎ難い経験的事実がある。「算数の才」のない子は受からない。類い稀なる国語の才のある子がいた。算数の手ほどきをして、算数も開眼していった。ここで国語の才というのは、どの程度のことをいうのかというと、麻布、早稲田中学の国語の読解問題をなんと正解率100%で解いた。わたしを驚かせたのは、模範解答例と一字一句違わず一致していたことだ。こんな子たちがこの世にいるのかと思った。25年に小石川と白鷗に合格した子たちだ。これだけ読解力があると、算数に開眼するのも早い。わたしは小石川に合格することになる女子には小6になる直前の3月から、白鷗に合格することになる女子には、小6の9月から指導を始めたのだが、いずれも算数に開眼し、いずれも早稲田進学会の最終模試、若しくは最終から二番目の模試で、成績優良者に名を連ねた。そしてそのまま本番に突入して、合格した。
この子たちが、やったレジュメは今の子たちほど多くはない。一回の指導で、せいぜい3通だろう。しかし、しっかりと考えて、確実に合格ハンコを取りながら、進めたし7回解き直しもした。ここ2年は過去問合格法をやったが、この子たちにはこれもやってない。もともと過去問合格法をやったのは、29年受検の子たちの中に、レジュメだけでは、正解率が低く、思考を深めることができなかったため、窮余の策として、物量戦にかけてみたことにある。この時は、見事に作戦が当たった。しかし、根本的に、閃きのない子には、策はない、というのが実際です。過去問合格法も例えば「算数をクリアにする」などのレジュメに手が回らないほどの遅速だと効果はないようです。
何が効果があるのか、これからは、仔細に見守りながら、処方していく必要がある。
小石川なら小石川に合格するための処方というものが必ずある。もちろん小石川クラスになると、地頭がなくてはそもそも受検はあり得ない。憧れた、努力しただけでどうにかなることはない。地頭がいいのは、当然の前提です。ところが現実には地頭がないのに小石川を志望する子もそれなりにいるわけです。自分は別だ、例外だの論理です。実は、受験生、その親というのは、自分は例外だと信じて疑わない人たちなんです。
地頭があれば、受かるか。そう簡単ではない。地頭があっても失敗する。わたしが端的に実感しているのは、指導の具体的な方法が合否に影響している、のではないか、ということである。
今の竹の会には、膨大な指導レジュメがある。それは、25年合格者の使ったレジュメ、27年合格者の使ったレジュメ、28年合格者の使ったレジュメ、29年合格者の使ったレジュメ、など、その年に制作したレジュメが、膨大な量に達し、今はその全てをやるのはもちろん不可能となっている。必然、なにを使うかは、選ぶほかない。ここで、処方という考え方が出てくる。わたしは受検生を患者に見立てて、その患者に最も適する処方を選ぶ、ということに腐心することになる、
処方を間違えば患者は悪化する、だから処方の選択は、重要である。場合によっては、新薬、つまりは新作レジュメを作ることも当然ある。既存のレジュメから適切なレジュメが選べればそれに越したことはない。ここが難しいところです。
指導者というのは、常に、この子は合格するのか、を問うているわけです。それで合格の根拠を求める。担保を求めるわけです。この問題が解けるか、解かせてみる、それは、担保を取りたいからです。ところが、時々騙される。どこで知ったのか、正解を書いてくる。式は出鱈目なのに、なぜか答えだけは合っている。子どもが、自分で考えて解かないのは、恥だと思わない限り、子どもは、その場しのぎの嘘をつく。できたと思われるのが自尊心を満たすから嘘もつく。
患者は嘘をつく。これが本物の病人と違うところである。
患者に治ろうとする気力がないと治るものも治らない。これは受検も変わらない。精神の持ち様が合否に大きく影響する。
強い意志が大きく結果を左右する。ある人は、これを、「気合い」と呼んだ。そう、気合いである。気合いが入っている、最後はここである。気合いとは、確固たる強い意志、絶対に譲らない意志、これだけはあってはならないという強い気持ち、あってはならないという気合いである。
気合いは願いである。強い思いである。
習い事、稽古事、スポーツなどにもしっかりと時間を割く、そういう親子には、この意味の気合いに欠けているのかと思う。こういう親子は、自分は例外だの論理が頭を支配している。
好きなことを好きなようにやって、受かるとなんとも楽観的である。自分は例外だ、特別だ、というのは、親の過保護と、子の甘えの二重奏のなせることなのであろうと思うけど、受験の世界には、必ず棲息する親子類型である。
今、わたしの胸にある、新しい指導の風景
処方こそ指導の真髄、処方で診る、経過を診る、さらなる処方で効果を探る、
処方指導が可能なのは、レジュメ指導の実績があるからなのはもちろんである。
処方が有効なのは、患者の正確な見立てをもちろん前提とする。
それでは、わたしの描く処方とは、どのようなことをいうのか。
もともとわたしが考えたのは、本番で、未知の、初見の問題に、対して、果たして、思考で乗り切れるか、そのことである。そこで初めて考えて、正解を取れるか、である。過去問7回解き直しした子の悪い形が、過去に解いた問題を思い出そうとすることである。思い出すという脳の働かせ方は、思考停止、無思考ということである。本番で覚えたことを思い出そうとする脳の働かせ方は、本番では絶対にやってはならない、ことなのである。問題を見たら、まず正確に読み取る。意味することを落ち着いて読み取る。つまり、意味を考えることが第一歩である。問いの意味を考える。7回解き直しが、覚えたことの思い出しに費やされる習慣を固定化したとしたら、これは7回解き直しの毒である。これは、7回解き直しの前提である、過去問の正解率が、70%に満たない、2割、3割という人たちに特有の現象であると言ってもいい。
もともと思考の不得意な人たちが、解き直し毒に見舞われるのである。
さて、わたしが処方ということに、思いいたったのは、過去問の質というか、出来に関する。過去問には、だれが解いても解ける問題がある。これはやる意味はない。ただ子どもたちは、基本的な問題でもコロコロ転ける。そうなると処方は最初から異なる。わたしが描いているのは、思考に役に立つ妙薬としての処方である。実は、そういう問題があるのだ。わたしが、これはと思う問題がある。秀才でもひっかかる、転ける問題がある。よくできた問題だ。これからのわたしはそういう問題の収集家になろうと思う。そういう意味ではかなりマニアックな問題にこだわることになる。わたしは思考作りにほんとうに役に立つ問題を使って何時間でも考えさせたい、のだ。子どもたちに思考で難局を切り開くということを教えなければならない。わたしは今そう思っている。
竹の会の「処方」による思考養成、これまでの指導経験を「処方」という方法で具体化していく、わたしはそう決意している。