2023.06.22
🟡何もしなければ何も変わらない‼️
無為に時を過ごすなかれ‼️
これは人生の鉄則であると思っている。どんな時にも、何か行動の選択を迫られるとき、必ずこの基準に従って選択を誤らないことである。
無為かどうかは、当面の、あなたたちの目標によって決まることである。あなたたちが、受験を目的としているのなら、それはもちろん合格することを第一の価値としなければなりません。この基準から派生する基準も当然生まれてきます。ゲームに興じたり、友達と他愛のない時間を過ごすことは、当然「無為」な時間です。
習い事、稽古事、サッカー、野球などは、どうでしょうか。単なる時間の浪費ではないようにも思われます。そうでしょうか。こうしたことでそれなりの時間を使うことは、試験合格には少しも資することはありません。試験合格に資する行動以外はすべて「無為」と言っていいのです。
例えば、自分の志望校には,500人の受検生がいるとします。そのうち400人が、習い事、稽古事、家族旅行、レジャーなどに時間を費やしていたとします。残り100人はひたすら勉強したとします。さて習い事、稽古事などで週何日かは潰すとして、その興じた時間、100人はひたすら勉強していたのです。さて、あなたたちは、それでもその100人に勝てると思いますか。
習い事、稽古事、サッカーで時間を潰す人は、それに慣れてしまって、つまり少しくらいならと勉強しないことが何かと増えるものなんです。
これは相対的に、習い事、稽古事などが論理的に考えても、負けるということを示したものです。
無為に時間を過ごすことの,自分の将来に対する被害は実は予測を遙かに越えて甚大です。
これをマラソンに喩えてみましょう。マラソンは,スタートからもう私たち凡人の想像を遙かに越えた,全力疾走です。テレビのマラソンの中継は確かに最初からまるで100m走のような走り方です。そしてとにかく走り続けています。40km超を休むことなく走り続けています。いったん脱落するともう先頭集団に追いつくことは不可能です。
勉強というのは,このマラソンに似ていると思います。最初から飛ばさなければたちまち脱落してしまうこと,これは勉強でも同じです。中学に入ると,気の緩みからのんびりとしてしまい気がついたら授業が始まった,というのではすでに脱落しています。入学前2か月が勝負です。この2か月と春休みに一気に駆け抜けるのです。英語と数学だけでかまいません。数学なら,正負の数,文字式,一次方程式,関数までを終わらせる。英語なら単語500を覚えて,文法を一気に駆け抜ける。竹の会の中学生で成功した生徒はみな最初から全力疾走でした。のんびりと春まで過ごし,入学後も授業を「追う」勉強をしていますと,たいてい夏前には脱落したのが顕著になります。学校の数学・英語で70点というのは脱落したということです。竹の会では90点超が常識です。いったん走り始めたらもう走り続けるしかない。多くの中学生が部活・レジャー・ゲーム・怠惰による不作為・無気力・テレビ・スマホ・旅行・習い事・稽古事など盛りだくさんの由無し事に時間を費やし脱落していくのを見てきました。成績がガタ落ちなのに毎日遅くまで部活に勤しむ生徒はたくさんいました。最後は判で押したように成績不振から竹の会を去る,しかし,彼らにとってそれは終わりではなく,また新たな塾を探す。そうです。そうなってもまだ塾がなんとかしてくれると思っているのです。自分の生活習慣は一切変えないで塾さえ変えれば成績が良くなると信じているのです。そういう親に限って塾のやり方を批判します。そういう親の子は自分で判断できないから脱落したのですが,そのままに親の言いなりです。不思議なのはこれだけ成績が落ちてもまだその原因が自分たちの生活習慣にあるとは気がつかないことです。というか,最初のスタートの段階で猛ダッシュしなかったことはあまりにも越えがたい損失となって後々まで自分の将来にかかってくるということです。
勉強というのは,とにかく最初から全速力で走ることです。最初から走る,休まない,それが勉強という生活習慣を作っていくのです。勉強するかどうか,を頭で考えているのは,行動しない人です。勉強とは行動です。考える前にもう参考書を開き没頭する,学校から帰るとそのまま机について参考書を読んでいる,それが勉強なんです。「テレビを見てから勉強する」,「8時から2時間勉強する」とか,そういうことではない。勉強は予定・つもりではない。数学の解きかけの問題が気になってずっと考えている,それで気がついたら没頭していた,気になるから勉強していた,そう,勉強とは,内心の「気」があなたを動かす,それを傍から見て,実行と呼んでいるだけです。あなたの心の底から湧き上がる,勉強への追及心・情熱・気になる心,そういったものが勉強のエネルギーです。わからないことへの悶々とした心の負傷,そういうものの回復への本能こそが勉強の突き上げる衝動です。こういう心の怒りは無為に時を過ごす人,過ごしてきた人には一切ありません。培わなければいけなかったのはそういう情動であり,塾を探すことではありません。ここでも根底から勘違いした母親の行動が実を結ぶことなく,子どもと奈落の淵に落ちていくしかないのです。