2019.05.05
5月5日晴れ。春らしい霞空。連休も今日で終わり、竹の会は明日から5月の日程のスタートです。渋谷Bは、明日は祭日ですけど、10時から2時間、指導します。Aは通常の日曜日程の実施です。明日は本年の合格者が激励にきます。Bの終わる頃からAの始まる頃までいると連絡がありました。Aで会いたい人は12時30分には竹の会に着くように来てください。
◯中学自滅論
竹の会では、中学生が、3年間いることが難しいのが実際です。と言っても、中1は多くても3人程度、たいていは1人です。それが中1の終わる頃にたいていはいなくなる。最初は熱心にレジュメに取り組むのだが、次第に中学生活に慣れてくると、手を抜くことを覚える。特に、部活をやっている子は十中八九潰れる。竹の会に来ても、レジュメを出さない日が多くなる。部活で遅れたり、休む日も目立つようになる。遅刻の常習となり、居眠りの常習となる。末期である。極め付けは、定期テストの成績の急落ある。親が驚くのはおかしい。部活を好きにやらせていればそうなることは自明のことであったのだから、今更何を驚くことがあるのか。
部活というのは、そういう選択だったのである。部活で高校入試を棒に振った例なら、夥しいほどある。中3になって失速するのは、少なくともわたしにはわかりきったことである。親が何をジタバタして騒いでいるのかわからない。部活を自由にさせておいて何を言っているのやら。
学校の授業は中2までは成績は普通にとれる。が、中3からは、授業だけでは受験には足りないし、また授業の進度は完全に遅れる。つまり受験には間に合わない。そもそも受験は教科書だけ終わっても太刀打ちできない。そもそも学校の授業で受験に対応するのは、物理的に無理があったのである。中3になると、特に、数学は、いきなり内容が高度になる。それもそのはず、もともと高校1年の履修事項を中3に下ろしたものだから。加えて入試のレベルは、都立共通問題出題校でさえ、学校の教科書よりはるか上にある。7月には、V模擬なども始まる。50分で、英語の長文を含む問題を解かなければならない。もうお分りでしょ。高校入試対策は、中2までに一通りのことは終えていなければならないのです。としたら中2のときに部活にほとんどの時間を注ぎ込んで、授業にはついていっているから、いい、ということにはならない。それでは中2の授業にはついていけるかもしれないが、中3になったら、すぐわかる。失速は目に見えている。部活なんかやってる場合じゃなかったのだ。中2までは気の利いた子なら成績もいいから、その深刻さにも気づかない。中3になって、失速が始まって、ようやく親もきづく。時すでに遅し、ではあるが。
部活をやらなければ内申は不利か、また途中から止めるのは、内申で不利にはたらくか。
結論から言えば、内申に気を遣って勉強を蔑ろにすれば、結局落ちる。内申を慮って部活に振り回されて、つまり中3の夏休みも試合で潰し、勉強どころではなく、何かと駆り出され、9月から頑張っていいところまで押し上げたものの、力及ばず不合格といったパターンを幾度となく見てきた。しかも部活やってたのに内申も思ったほどよくないという例ならたびたびあった。テストが悪ければ悪いに決まっているでしょ。内申気にして勉強を後回しにすればテストの点が悪いのはあたりまえでしょ。部活の顧問は、散々部活に奉仕させておいて、内申を牛耳っているそぶりを見せるけれど、テストの点が悪いのに、内申がいいはずがない。勉強を蔑ろにすれば悪いのはあたりまえだ。考えてもみてほしい。部活で学科にかける時間が少ないのだから、点も取れない、内申が悪いのは当たり前のことでしょ。部活やっててもらえる内申なんて、体育とか、音楽でしょ。かつて吹奏楽部は、みな音楽5というのがあった。ダンス部は体育5というのもあった。ふざけた話だが、部活なんかやって、わけのわからん内申あてにするより、勉強に時間かけた方がずっといい。部活やって、成績落ちて、志望校が危なくなっても、部活の顧問も担任もだれも何にもしてくれない。受かるのは、自分の学力しかないのだ。
竹の会でも、部活で勉強がだめになって、生活を崩して、塾を止める、という自滅型が後を絶たない。竹の会に中学の3年間、いるのは、なかなかに難しいことである。
◯私立難関高校の攻略
ご存知のように竹の会は、都立トップ高校専門を看板としてきた。都立に特化した指導に専念してきたのには理由があった。もともとわたしは私立難関校の受験指導をしたい、と思っていた。しかし、地元密着型の塾では、難関校の受験生は、みな大手に行ってしまう。地元塾に来るのは、一人か二人の真面目な優等生、その他大勢のの部活偏重勉強軽視の生徒、無気力な学習不振の生徒、である。
そういう中で、竹の会にたまたまやってきた、天才たちがいた。大手で中学受験に失敗した生徒だ。もう大手は懲り懲り、大手は合わない、などの理由で、竹の会にやってきた。
記憶に残るのは2人いた。
ひとりは、平成10年に早稲田実業学校に合格した鈴木君だ。彼は中学受験で慶應をめざし、小4から日能研に通った。受験は失敗。彼がお母さんと一緒に竹の会に来たのは、小6の4月頃であったと思う。日能研では中の中、真ん中ということだ。中学からは竹の会でやることになった。部活は柔道部、彼は身長も高く体格のいい子だった。柔道部長をやった。人望もあり生徒会長にも選出された。多忙な毎日であったが、彼が3年の間に、塾を休んだのは、修学旅行のとき、しか記憶にない。当時の竹の会は、Sコースという、月〜金、時間無制限のコースがあった。時間も3時〜10時と長かった。特に、夏は、1日10時間、25日という地獄の日程であった。彼の成績は、最高3番、最低9番、彼の中学の上位にいた者は、河合塾とか、代ゼミなどに通っていた。慶應、開成、早稲田高等学院などをめざす天才たちだ。結果から言うと、あの年、渋谷区では、早稲田実業に受かった鈴木君が、唯一の難関校の合格者で、他の生徒に合格者はなかった。
もう一人は、啓明社に通っていた女子で、桜蔭を受験して失敗、中学からサピックスに入ったが、なぜか竹の会にやってきた。竹の会には、サピックスに通いながら、なぜか休むこともなく通っていた。転機が訪れたのは、中3の10月のことだった。慶應女子志望だったが、サピックスでの成績はガタガタで、要するに、落ちこぼれたのだ。中1のときは、首都圏のサピックスで3番という破竹の勢いだったのに。私は母親から立て直しを頼まれた。サピックスは退塾。11月から、私が、個人指導。志望校は、青山学院高等部に変更。そして合格。お母さんから、もう大手はこりごり、竹の会に通いたいと懇請された。竹の会は、原則高校はやらない、と最初は断ったが、結局根負けして受けた。竹の会では、数学と英語を見た。受験は、理社では浪人に勝てないという私のアドバイスで、数学で受験、必ず出るという確率のために問題集を解かせて、備えた。個人指導に切り替える。上智大経済合格、慶應大学総合政策合格。いずれも数学で受験。作戦成功。現在、毎日新聞記者。
天才でありながら、中学受験など眼中になく、都立から東工大を志望した小6がいた。小6、4月のことであった。彼は中学の3年間をトップで駆け抜け、都立西に推薦で合格。西高の3年間、竹の会に通う。前記の慶應大学合格者の例を引き合いに出され、懇願されて、受けた。志望は東大に変わっていた。現役で早稲田理工に受かるも、一浪して東大再挑戦。三大予備校の模試では、いずれも全国順位20番台。しかし、悲運にも失敗、慶應理工に進む。現在、IT会社社長。
竹の会には、青山学院高等部に合格した生徒が、実は、3人いる。一人目は、昭和62年合格の男子。彼は、有名進学塾を渡り歩いて最後に竹の会に辿り着いた。中2の12月のことだった。彼は受験時、偏差値61だったか。当時青山学院高等部男子の偏差値は69であったから、合格は、奇跡だった。彼は市川高校にも合格している。
もうひとりは、平成3年合格の女子である。彼女はもともと昴という、当時有名進学塾だったところであるが、そこで2番の成績で、当時数学で有名になった竹の会の評判を聞き、父親と訪ねてきた。慶應女子志望。結局青学に進学。大学は、そのまま青学へ。ロシア在住と聞いております。
ちなみに、青山学院高等部の女子の偏差値は、72です。これは慶應女子の偏差値73に次ぐ、日本第2位の高さです。
大学受験で、記憶に残るのは、都立鷺宮から、千葉大学工学部に合格した生徒のことだ。かれは鷺宮の3年間、竹の会で指導してきた生徒である。彼は東京理科大にも合格した。彼は実は中2から不登校になり、学校には行っていない。ために内申は、担任が数学で2をくれた以外は、すべて1だった。かれは、都立青山を受けられると思っていた。しかし、彼の内申で受けられる都立は、鷺宮、それでも460点以上取らなければ、合格できない、ことがわかった。合格。3年間学年1番は当たり前か。彼は学校の授業の低レベルをいつも嘆いた。私は大学で決めろ、といつも諭した。そう、彼も高校の3年間、竹の会に通った一人なのだ。
竹の会の子たちが、受ける私立というのは、たいてい都立の併願であるが、たまにチャレンジで高いところを受ける、あるいは少ないが、私立狙いの場合もあった。
女子の中には、青山学院高等部のように、最初から私立狙いもいたが、平成20年に都立西に合格した女子は、チャレンジとして受けた、豊島岡女子学園高校にも合格している。同じ年に、私立狙いの男子が、立教新座と桐蔭理数に合格している。私立狙いの女子が、平成10年に、日大二高に合格した例がある。日大二高は、日大系列校では、トップの偏差値である。竹の会では、日大鶴丘と日大櫻丘は、常連の単願推薦校であった。たくさんの生徒が進学している。 併願校としては、専修大附属、恵泉、農大一高、成城、錦城学園などが記憶に残っている。併願ではなく、都立志望者が受ける私立には、どんなところがあったか。記憶にあるのは、成城、成城学園、國學院、國學院久我山などをよく受けていたように思う。
さて、私立難関校の受験として、都立受験の延長として、竹の会で、都立にシフトをおいた指導で、受けられる私立の限界という視点で述べてみたい。すると20年に都立西に合格した女子の、豊島岡女子の合格が、まずあげられる。青山学院高等部合格者は、いずれも私立難関第一志望の生徒たちであったが、ただし、平成3年合格者は、実は戸山を滑り止めにして、合格している。これは、平成10年に早稲田実業学校に合格した鈴木君も同じで、都立青山が滑り止めであった。ただし、彼の場合は、早稲田に受かったため、都立は受けなかった。平成3年合格者は、中学3年間学年1番で、内申は、オール5だったが、当時の内申制度は、素内申に生徒会活動などを点数化してプラスしていたから、成績だけでは、限界があった。
私立難関をシフトにおいた指導というものを竹の会で、中1から、それとして指導した生徒は、実はいない。豊島岡女子学園合格は、飽くまで都立指導の延長であり、早稲田実業学校合格にしても、少なくとも中2までは、都立を念頭に置いていた。中3になって、早稲田、慶應というので、初めてシフトを変えた。先の青山学院高等部合格者は、昭和62年合格については、中2の12月入会であり、平成3年の合格者は、中3の4月からの指導、平成11年合格者も、それまで竹の会にはいたものの、中3の11月からのそれとしての指導であった。
こうして、中1の時から、指導してきたのは、もちろん大手を併用することなく、竹の会のみで指導してきたのは、平成10年に早稲田実業学校に合格した鈴木君と、平成20年豊島岡女子学園合格の女子の二人だけだ、ということになる。
難関私立をめざす生徒が、親も含めて、最初から竹の会に来ること自体がないのだ。わたしに私の思うように、やらせてくれる親がいない、いなかったということだ。
難関私立狙いと言えば、例外なく、昔なら、河合塾、代ゼミなどに、今なら、早稲アカ、サピックス、Z会などに行く。
これが、私がトップ都立指導を専門にして、私立難関をやらない理由だ。私に最初から仕事をさせてもらえない、 みな大手に行くから。
私は、トップ都立専門と言っても、私の指導を受けた子たちは、豊島岡や早稲田実業に受かっているのは、偶然ではない。私の高校入試のためのレジュメは私立難関校の問題で作られているからだ。そもそも都立の、もちろん共通問題だが、問題など易しすぎて、使えないから、当たり前のことだ。だから私のレジュメをやっていれば、私立難関も受かるのだ。ただ私は、まだ私立難関校を研究したレジュメを使ったことがない。実は、竹の会には、慶應や開成を研究した、最高のレジュメが、もう随分前には、完成している。ただそれを使えるだけの逸材が現れなかったから、使うこともなかった。そのうちに、都立独自問題というのが、現れて、こちらは、難問というより、とにかく解くのに、時間のかかる作りで、これはこれで対策が必要と思い、主として、日比谷や西などの問題を解説したレジュメを執筆してきた。既に、200問ほどの詳細な解説、シンプルな解法をレジュメにしている。27年、28年戸山合格者が、50問ほど、本年青山合格者が、30問ほど使った。たいてい時間切れで、やれないことが多い。こうしたことからも、高校受験の準備は、中1の最初からスタートしておく必要があることがわかる。なお、独自問題解説レジュメは、シリーズ化して、現在も執筆進行中である。