2019.12.18
第41章 通し読みか、拾い読みか
ジグソーパズル好きですか?
通し読みは間違いである、少なくとも、わたしには向かないことに気がつくのが、遅かった。東大主席卒業の弁護士山口真由さんは、受験のとき、一冊の参考書を七回読んだそうである。これはもちろん通し読みであろう。通し読みというのは、かなり根気のいる読み方である。特に、500ページを超える本だと、それが専門書なら一層読み繋ぐのが難しい。文脈を追いながら読むとき、中断すると、文脈を往々にして見失うこととなる。山口真由さんは、類が稀なる記憶力と集中力の持ち主なのであろう。凡人の真似のできることではない。
わたしは、まず、拾い読み型の人間であることをまず自覚しなければならなかった。今思えばそうである。無理に通し読みをしようとするから続かない。そう言えば、わたしは、手帳を書き続けるということができた試しがない。それにはわたしの下手くそな字が、大きく貢献しているに違いないと思う。字の上手い人は自分の字に酔うということは確かにあるのではないか。
さて、拾い読みの話しに戻るが、私が拾い読みに活路を見つけたのは、自分の能力の量(かさ)を知ってのことである。
さて、そうとして、随筆ならともかく、体系書の場合は、前提を踏みながら、あるいは、文脈を追いながら、読み進めていかなければならないから、そもそも拾い読みが可能なのかが、まず疑問になる。
ところで、例えば、前田庸著「会社法」などは、800ページほどあったと思うから、こういう本を1ページからコツコツと読み進めていくことが、どうなのか、という話しである。こういう本を文脈を追いながら読み進めることについての話しである。一つ断っておくなら、前田の会社法は、一文が何ページにも渡ることがある悪文である。途中で主語が変わり、対応する述語を、見失うことしばしばであり、同じ法律書でも鈴木竹夫「会社法」は、簡潔な文でありながら、概念定義は無駄がなく正確である。指示語を間違うこともない。無闇に指示代名詞を使わないし、誤解しないように必要なときは、主語の繰り返しを厭わない。名文である。ページも300に満たない。
さて、問題は、通し読みしなければ、理解を進められないか、であった。かつての私はそう考えていた。いやそう信じていた。正確には、そう信じ込まされていた。古い指導者には、そういう考えの人がほとんどであった。中央大学真法会という司法試験の内部団体の会長として有名だった、向江さんなどは、受験新報という雑誌で、そういう信仰を振りまいていた。これは司法書士試験などの予備校の体験談などで、いかにして基本書を目次から奥書まで読み進めたか、を語るものが、多かったことから、法律の国家試験に共通の了解事項であったのだと思う。
しかし、集中力には、個人差があり、誰もが、そのような読み方ができるほどの集中力を持ち合わせているとは、限らない。少なくともわたしにはそのような読み方はできない。
わたしのような気が短いというか、飽きっぽい性格には、どうも旧い指導者の思考には、判然としない懐疑心がいつも頭をもたげていた。しかし、当時の絶対的な、カリスマ性を持った指導者の言葉は、そういう疑いを許さない絶対性があった。当時の受験生は、絶対的な信仰を余儀なくされた。
さて、考えてほしい。体系書には、まず目次がある。それから索引もある。目次は、内容のタイトルである。タイトルを見て読むというのはありではないか。もっとも法律などの専門書には、概念間、理論間に前提としての繋がりがあり、そういう意味では、拾い読みでは対応しきれないことも多い。また法律書を読むには、法律言語をまずマスターしてからでないと、読めない。例えば、民法だと、法律行為とか、権利能力とか、行為能力などといった常識を働かせても意味のわからない用語が頻繁に出てくる。刑法なら、構成要件とか、故意、過失など。そういうこともあってか、かつては、有斐閣の法律用語事典を基本書にした人もいたと聞いたことがある。
わたしが拾い読みというのは、そういうことをクリアして、文章を論理的に読み進めることができることを前提としての話しである。
話しは、少し違うが、体系書を読むとき、よく言われるのは、クロスレファランスということである。これは、読み進める過程で、例えば、国民主権という概念が出てきたとする。この時、もちろん当該ページには、国民主権について一通りのことは書かれている。しかし、たいていはそれだけではなかなか立体的理解は得られないことが多い。そういうとき、索引を引いて、国民主権を探す、するとその語が出てくるページが複数出ている。そのページを逐一読む。そういうことをやります。いわば横断的な理解をするわけです。これが高じると他の著者の本をあたる、というようなこともやります。つまり他の著名な学者はどう言っているか、書いているか、を調べるのです。
これなども、拾い読みの要素が含まれている。
拾い読みをするとして、具体的には、どうやるか、が一番の問題である。
目次を見てテーマを決めたら、その解読のために、該当箇所を拾い読みする。基本はこれでいいと思う。
次に、テーマに疑問が生じたら、そこを拾い読みする。あるいは、さらにテーマに関連するところを拾い読みする。テーマの真相がなかなか見えてこないからさらに関連のところを読むということももちろん通常ありうる。これはクロスレファランスそのものである。こうして、拾い読みとは、クロスレファランスのことだということに気がつく。
拾い読みは、重要なところ、から読んでいくから、いや行かなくてはならないから、読み方にメリハリをつけることになる。というか、分厚い体系書を1ページから律儀に読むことからくる窮屈さから解放されて、自由に思考を巡らせることの喜びは脳を開放的にする。
拾い読みによって得られた概念は、ジグソーパズルのピースであり、ピースが増えていくにしたがって、概念が繋がり、しだいに全体が見えてくる。
注意しておきたい。ジグソーパズルは、すべてのピースが完全に埋めることはない。大切な部分、エリアが埋まっていればそれで足りる。
これが拾い読みの優れたところである。
通し読みの欠点
ともすれば完全主義に陥る。この点、通し読み派の山口真由さんは、東大首席だけあって、完全主義を貫けたのだと思う。しかし、多くの凡人の皆さんは、そうはいかない。人間って、不完全なものですよね。不完全でバランスを取るしかない。だからジグソーパズルの方がいい。だいたい埋まればいい。概観が取れればいい。重箱の隅をほじくる、それが完全主義です。
しかし、凡人にはメリハリがないとすぐ飽きてしまう。集中が続かない。力を入れるべきところは力を入れて、そうでもないところは手を抜く、それでいい、いやそうでないと不完全な人間はとても持ちませんよ。
わたしの今の読み方
関心のあるテーマから読みます。前のページで述べたことを踏まえて書かれてあるときは、当然当該ページに飛びます。ジグソーパズル読みというのは、クロスレファランスのことだから当然です。
中学生、高校生が、教科書、参考書を読むとき
これは、ジグソー読みでもちろんいい。
ただ先程も言いましたが、ジグソー読みは、すでに論理的な読み方ができている人がやるのが、前提でした。もっとも理科や社会のような科目では、知識の羅列というのがある。どうしても丸暗記しなけれはならないところがある。これはまた自ずと別論で、語呂合わせをして覚えるなどのことをやらなければならない。
国語の文章なんか、単元という区切りで細切れにしているから、もともとジグソーなんです。その単元限りで文脈を追いながら意味を取る練習をする、そういう教材です。
もちろん通し読みしないと読めないものもあります。わたしなどは、時代小説、特に、江戸時代ものが好きで、読むときは、隙間時間にいつも読み継いでいます。つまり通しで読んでいます。
こういうことを書いていましたら、理科や社会の読み方、勉強のしかたというものが頭をもたげてまいりました。次の機会に、その点について触れてみたいと思います。