2020.01.17
情報が身を滅ぼす仕組み
読み過ぎは、決断のタイミングを失うことにしかならない。情報豊富とは、判断不能にする毒薬を大量に持っていることにほかならない。
解き直しとは、これまでやってきたことをやり直すということですから、新情報は入ることはないわけです。解き直しの消極的な効果として、新しい情報が入ってこないことが、思考の余地を開くことになる、ということではないかと思うのです。
情報と思考の関係について
もともと情報は思考するための情報であったはずです。情報は正しく思考するため必要なものであったはずです。ある情報を手に入れて考える。しかし、この情報だけでは判断するには不十分だと思う。そこでさらに情報を手に入れることに奔走する。最初はそうであったはずである。しかし、自分の考えにどうしても自信が持てない、あるいはもっとたくさんの情報を手にして考えてみたいと思う。
人間が、思考を失い、情報の奴隷になっていく過程とは、都合そのようなものではないのかと思います。
私たちをより深い思考にステップアップさせてくれると思っていた情報が、実は私たちから思考を奪う危険な毒薬であったなんて。私たちはそういう危険には無頓着に情報をフィルターなしに脳に注ぎ込む。私たちは、自分で考えていると思っているだけで、実はいつか誰が言ったこと、どこからか得た情報をただ自分の考えと思い話しているだけかもしれない。いや現代私たちが自分の意見として述べていることはほとんどが人の意見ではないのか。その他人の意見も実はまた別の他人の意見であることがほとんどなのではないか。
すべては、現代が情報に汚染されたためである。
情報の分析
事実 でっち上げ
データ 意図的に歪められた統計
歴史
科学 今正しいとされる仮説が、すぐに崩れる世界
古典 事実を見る目、判断する拠り所を提供してくれるもの
地理
医学
論文 真贋を判断するために読むもの
学者、専門家、経験者などのざっくばらんな本 ゴミ
テレビ 権力に阿り、国民をバカにするしかけ 伝聞をあたかも取材した事実かのように伝える
新聞 取材に担保されない情報、権力に阿り真実を語らない不作為、広告主に気を配り事実をそのままに伝えない媒体
数学 仮説と論証の世界を体験できる
算数 思考力を訓練する格好の科目
法学
自然
地球
私たちは、何もない、情報のないところでのみ考えることができる。情報が思考を阻害する。それはそうであろう。情報が多ければ多いほど思考する余地は少なくなるわけであるから。そうなると、情報が思考の核となる可能性も強く、自分の思考はほぼなく情報を取捨選択しているだけに過ぎないことになる。
これは大手進学塾の詰め込み授業では端的に表れるであろう。子供たちは与えられる知識に翻弄され予習復習に追われ自ら思考すると言うことは、ほぼなくなるであろう。授業で教えられることに慣れた子供たちは思考するということも知らずただ知識の取捨選択に追われるのである。
耳目を引きやすいキャッチコピーに惹かれて、よかれと思い、情報の受け入れに余念のない生活スタイルが、自己の型にハマる情報だけを取捨選択し、あたかも自分の意見かのように錯覚して、強固な自己の意見と変わっていく過程に気付くことはもちろんない。
情報を根拠に判断、行動することは、多くの場合、間違いのない結果を得るかもしれない。それが情報化社会ということなのであろう。間違った情報、偽の情報で判断を誤る人が出てもそれも情報化社会の予定ということなのであろう。
さて、情報を見て、判断するというとき、行動の型も情報によって規定されてくる。この情報にはこの行動というわけである。まるでコンピュータ処理をしているようである。
私たちは、考えるのではなく、どれだけたくさんの情報を得て、どれだけたくさんの個々の情報に対応した行動のパターンを知っているか、が問われる。もし考える体をとっているとしたら、情報を思い出し、対応する行動を思い出している、だけなのではあるまいか。
もう、思い当たることがあることに気づいたであろうか。
大手進学塾を考えて見たらいい。
分厚い教材には、受験に必要な情報がびっしり詰まっている。
進度の速い授業は、合格という目標から組まれた、カリキュラムから、必然要請される、授業進度にほかならない。大手は、能力別クラス編成となっているから、授業に落ちこぼれるのは、能力の低いクラスに集中することはあるのかもしれないが、このようなカリキュラムを軸としたシステムは、落ちこぼれを必然的に生むことがその構造のうち内蔵されている。
思い切って、情報は捨てる。これが思考を生かす、最善の方法であることは、もはや明瞭である。
わたしが、竹の会で、考えたことは、そこである。情報は、本当に必要なものに絞ること、これが、わたしが竹の会でまず考えたことであった。
塾というのは、「教える」ところであるというのが、これまでの常識的な理解であったことは、寺子屋、学問所の歴史を紐解くまでもなく、当然の了解であったであろう。
しかし、塾の経験がある人なら、教えることが必ずしも子どもの理解につながらず、応用力をつけることにもならない、ということは、よくわかっていることである。それにもかかわらず、塾の先生は、教えるという制度しかない塾の枠の中で、いろいろと悩みながら、教えることの矛盾を抱えながら、教えるしかなかったのである。
わたしは、教えないという方法を選んだ。教えるが抱える矛盾を解消することなどできないと判断したからだ。この逆転の発想から、わたしは、時に教えることが、教えないという環境の中で、逆に、生きた薬として、使えることを知った。
教えない指導には、情報もないから、ひたすら考えるしかないという観念、依存心を切り捨てる効果、主体性を確立させる効果が、付随した。
教えないことの、予期せぬ効果がある。
読む、読んで理解する、という勉強の基本スタンスを身につけることになる。
勉強というのは、塾に行くか行かないかに、関係なく、読んで理解する、つまり読み取ることができる、これが基本中の基本、である。読んでわからない人間に何を教えても無駄である。
竹の会の入会試験は、読んで理解する能力があるのかどうかを診ているだけである。
大手大好きの23区の親たちは、わかっていない、というか、大手に二年、三年と通って、うちの子はできる、と思っている親のなんと多いことか。安心している。これはどうしてなのか。赤信号みんなで渡れば怖くない、こういうことなのか、と思う。自分の周りだけを見てすべてだと思っている。自分が行っている大手が最高だと思い込んでいるから、その中で成績が良ければもう安心だ、そういうことなのだろう。
しかし、わたしは、大手に通う小5、小6を診る機会を得るたびに思う。なんてできないんだろう。計算力はない。割合の理解も未熟。思考力をつける貴重な期間を無駄にしてしまったことの自覚がないどころか、自分はそれなりに力をつけてきたと信じている。わたしが、惜しいと思うのは、そういう子の中には、地頭のいいと思われる子がいたからである。流石は大手である。素質のいい子を集めている。惜しい、もったいないと思う。
残念なのは、竹の会のような小塾にそのような地頭のいい子が、早くから来てくれることはそんなにはない、ことであった。
もし、小2、小3から、少なくとも小4からでも来てくれていたらとよく思う。
しかし、現実は、東京の親たちは、迷わず大手志向にあることであり、ほんとうにごく少数の親御さんたちが竹の会の存在に目を留めてくださり、遠くの区からでも通ってきてくださる。竹の会は渋谷区、渋谷駅から徒歩8分、恵比寿と渋谷の丁度中間点の、閑静な場所に、ひっそりと、棲息している。後何年かわかりませんが、とにかく今は竹の会はある。
もう二度と竹の会という塾が現れることはない。竹の会は今、リアルに今あるからある、生身の塾と思っています。