2019.10.13
竹の会のみなさま、ご無事でしょうか。わたしは多摩川の氾濫水域というものを初めて見ました。レジュメでは、川のはたらきについて書いたことがありますが、川の正体を見た気がしました。東京のあちこちに流れる川の荒れ狂った様子が映像で流されるたびにあちこちに散らばるみなさんのことをとても心配しました。今日は渋谷の教室の点検に行ってきました。幸い何事もなくほっとしました。950ヘクトパスカル最大瞬間風速50mというのは正直恐かったですね。窓ガラスが壊れのではないか、と心配もしました。
第19章 神対応の指導
竹の会は、塾です。しかし、世間の皆様が想像するような塾ではない。かつての親たちというのは、竹の会の指導のようすを見学して、既存の塾に無理に当てはめて、竹の会を批判したものでした。「プリントを自習するということですか」「質問とかできるのですか」「公文と同じですね」「わからないときは教えてもらえるのですか」などなど。こういう親たちに説明することはおそらく徒労に終わる。おそらくこういう親たちは、第一印象で、「もう竹の会はない」と決めていたに違いない。
竹の会が入会試験を始めた頃には、腕試しで受けに来る親子もいました。大手絶対の母親が、竹の会の作文のレジュメをたまたま見て、「あら、こんなものもあるのね」と上から目線で見ていたのを思い出します。入会試験には合格しましたが、もう大手に行く意思がありありでした。 こういう人たちは結構いました。竹の会のなんたるかを説明する気にもなりませんでした。
大手が絶対いい、そういう信仰に近い臭いのする人種でした。
私は大手に行ってどうなるのか、たいていの予測はつきました。私立中学受験をめざす子たちが、必ず行くのが大手で、そこで落ちこぼれた子たちが、補習塾やら個別指導塾やら、個人指導塾を渡り歩いていました。受験に失敗した子たちもたくさんいました。そういう子が、失意の親に連れられて、竹の会にもよく来ました。私は大手で落ちこぼれて、受験に失敗し、公立中学でも、無気力なままの子、荒れた子、非行に走った子など、種々見ましたが、大手敗残組はそれは悲惨なものでした。
私の大手批判は、この実態を身をもって体験してきたことに発します。
竹の会を理解するキィーワードが、「指導」という概念であり、「レジュメ」という教材です。
竹の会には、授業、テキスト、講師という概念はありません。また授業、テキストを前提にした予習、復習という言葉もありません。似た言葉はあります。それは、指導という概念から、必然的に出てくる言葉です。課題、解き直しという言葉です。
授業方式を取らないなら、どうしているのか。
授業はやらないから、学年別クラスというものもない。教室は、小学生、中学生が、自分の勉強する机を確保して、それぞれがそれぞれの指示に従い課題に取り組んでいる。だからそういう光景が見られるだけです。指導というのは、性質上個別対応を前提にしている。個々人に何をやらせるか、何を指導するか、問題はそこにあり、教室というのは、個々人の仕事をこなす仕事場である。こうした指導を可能にしているのが、レジュメの存在である。竹の会では、学年、さらには個々人の能力、進度に即したレジュメが、作られる、あるいは作られている。わたしは、子どもたちの能力、現在の学力段階、理解段階を具に観察して、今、必要な指導が何かを判断する。その判断はリアルタイムで刻々と変わる。わかったのかどうかの判断は、わたしの客観的な判定でなければならない。決して、子ども本人が「わかった」といったから、わかったと判断するわけではない。もしわかっているのなら、この問題が解けるはず、という指導の仕方をする。だからそのような理解の度合い、理解の深浅、誤解の有無を常に疑う。特に、猿真似をする子が、少なからずいることは、当然に想定してかからねばならない。
子どもというのは、常に、自分の脳の限界線に追い詰められて、あたふたしているものだ。子ども各人によってその限界線がみな異なる。限界線が、低ければ低いほど、子どもは、うんうんと唸ることになる。先生や親から「わからないの」と責められて、ますます追い詰められていく。子どもに残された手段は、窮余の策しかない。内容は理解できないが、自分がわかる、見てとれることのものまねである。幼稚ながら、特徴、動きを真似ることである。こういう子は、「かけるの」、「割るの」とよく聞く。問題を解くとは、割るか、かけるか、のふた通りと考えているのだ。この質問だけでわかっていないことがわかる。
わからないものは、かける、割るで片付けようとする。この子たちに、「理解」という言葉は存在しない。
頭の悪い子には、公式を覚えるというのは、何か勉強している気にさせるのだろう。しかし、公式が典型的に使える場面なんてのは、塾のテキストの問題だけだ。現実の、生の問題というのは、そもそも公式がそのまま使えるなどということはほとんどない。というか、まず問題文を、読んで、事実の意味、関係を読み取って、さて、それからどうするか、と考えるのであって、最初から知ってる公式使おうと問題を読むバカに問題など解けるはずがない。
子どもというのは、わからないとき、理解できないとき、親の期待、周りの期待が圧となる。期待に応えようと嘘をつく。周りの期待に合わせようとする。いい子を演じる。できる子を演じる。そう、子どもというのは、嘘をつくのは、親の期待に自分を底上げして見せるためである。親の期待どおりにありたいという親思いが根底にはある。だからカンニングもする。できる自分を装うためには、そういうこともやる。子どもにとって、「〜してはいけない」という正義は、子どもの行動を制御しない。子どもは、規範的ではない。ペットの犬が常に飼い主を見ているように、親の一挙手一投足を見ている。だから親の矛盾した行動を見逃さない。子どもは、親の行動から生き方を学ぶ。
わからないという子どもに、実は有効な処方箋などない。もうこれ以上易しくはできないというギリギリの線まで工夫して理解させようとすることはやっている。仮に、このような指導を低学年処方と呼ぶとする。小学低学年を指導するということは、そういう指導をしなければならない、ということだ。それは仕方ない。しかし、今問題になっているのは、小学4年、もうすぐ5年になる4年、あるいは5年について、このような低学年処方をしなければならない子たちが、たくさんいるという現実である。こういう子たちは、普通二つの能力が不完全である。理解に必要な最低限度の知能、勉強する意思力、これらの二つが欠けている。これを境界児童と呼ぶことにする。通常の境界児童という概念とは明らかに違う使い方である。通常は、発達障害など知的限界を境界という言葉で説明するのに使うが、竹の会では、それよりはかなり高い線に境界を引いて説明するのに使う。竹の会で言う境界とは、理解し進めることができるかいなかを境界線と見て、境界線のあたりにいる児童を境界児童という概念で規定することとする。
この概念の実益は、指導に一つの指針をもたらすことである。指導対象の児童が理解が進まない場合、2つの原因が、考えられる。低学年の場合、境界児童なのか、未分化児童なのか、判断を迷うことがある。未分化児童というのは、本当は知能はあるのだけれども年齢的に未熟ゆえに理解が進まないという場合である。もうお分りであろうが、境界児童というのは知能由来の概念である。知能的に無理ということである。
私が小学低学年について、判断できない理由はお分りになったであろう。
難しいのは、小学4年である。過保護な親が、境界児童として封じ込めているケースが多いからである。甘やかしが、子の精神年齢を幼児並みしている例を多く見てきた。そういう子の特徴は、何をやっても長続きしないこと、やたら自慢話しが多いこと、自己中心的であること、などが挙げられる。そういう子はなぜか字が汚い。素直に人の話しを聞かない。自分勝手にやりたがる。叱るとすぐ気を悪くする。つまり自尊心が高くて傷つき易い。過保護で、欲しがる物はどんな高価なものでも買ってやる、甘い親の作りあげた失敗作である。
子に「律する」心を植えつける、これが教育である。我慢する、律する、限界を知る、これは社会で生きていく子に親が教えること、躾である。我慢するという精神作用が、心をタフにする。なんでも欲しいものが手に入る子は不幸である。物的満足は際限がない。満足というのは、精神の成長を退行させる。満足を物で買い与える親の子は、自らの努力で満足を得ることを知らない。さらには、物を手に入れるという満足で終わる。勉強のような自己の努力によって精神的満足を得るということから、回避する、逃亡するような行動を取りがちである。
律する、我慢するというのは、精神をタフにするために最高の教育である。人間というのは、満ち足りないことが、日常であることが、精神にはいい状態である。人類を進歩させた最大の要因は、足りないという環境、そこから生まれる「もったいない」という精神、裏から言うと、「工夫」の精神が、人類を未曾有に進歩させた。
子に安易に物を買い与えてはならないのは、それが、子から、この欠乏感を奪うからである。欠乏感こそが生存競争を生き抜くための、大切なエネルギーだからである。親が子を甘やかすのは、このエネルギーを無効化する行為にほかならない。
過保護というのは、子を無能力化する行為にほかならない。
今の私は、長い間理想の姿として描いてきた指導を思いのままにやっている。私は今の私の指導が一番神の指導に近いと思っている。
神ならば一瞬にして、子の能力を見抜くであろう。判断の難しいのは、小学低学年が、境界児童なのか、未分化児童なのか、の判断である。実は、正確には、ほとんどわかる、ただその判断が難しい例がたまにある。
小学4年はある意味遅い。甘え、過保護で未分化なままの子は、訓練の「遅れ」が、命取りになる可能性がある。訓練の後れは、回復困難の恐れがある。もしこれが境界児童なら回復はない。小4は、ある意味魔の学年である。竹の会では、小3、小4の間、大手塾に通い、小4の2月、まあほとんど5年ですが、この頃やってくるパターンがもっとも多かった。とにかく世間の親は疑いもなく我が子を大手に入れる、とりあえず入れる、そこで、おかしいと思う親と、大手だからと安心しきった能天気な親に分かれる。
私の本音はある。遅いんだよ。
小5。それまで大手にいたというのと、塾には行かない、お花畑生活をしてきたという子、この二パターンがある。もちろん地元塾、公文とか花丸などもあるが、五十歩百歩。
小5で成功する子は限られている。まず知能が高いこと。その上で、100%竹の会の指導方針、指導に従うこと、つまり当然家庭学習を指示にしたがい完全実行すること、これである。
失敗パターンは、塾の指導方針に従わないことが、甚だしい。
正直、これはという知能に出会うことはあまりない。さらに正直に言えば、そういう子でなければ、特に、小石川などは無理と思う。「よくできる」が8割前後ある子の知能は、私が理想とする知能にまでは及ばない場合がほとんどである。それなのに、こういう子の親というのは、自分の子が「できる」、優等生だと思っている。そういう子だから、習い事、稽古事ももちろん熱心だ。親は「勉強しろ」という割には、適当に手を抜いて、それでも受かると思っている。そういう親ばかりだった。竹の会で合格した子というのは、そういう親子ではなかったというだけの話しである。つまりそういう親子は受からない。
小6で、やってくる。これは、塾に無頓着ないし無知な親ということであろう。もちろんここでも知能が特に高い子なら、その他の条件が揃えば救われる。
まあ、塾に無頓着というのは、塾ならどこでも同じと考える親がいるという無関心さということであるが、それなら大きな塾に行っていれば安心と短絡するところがまた無思慮の極みである。確かに、私は、竹の会以外の塾に懐疑的である。塾の本音、台所、裏側が、わかっているから、とても塾を信じられない。よく成功したという話しも、そもそも塾のおかげなのか、そうではなく、もともとその子が能力に恵まれていたからなのか、私は額面通りに受け取れない。
だから世の中に塾に行かせないという親がいてもつまらない塾なら行っても仕方ないかという思いもある。
しかし、竹の会35年の経験、到達点から、歌舞伎役者の子が幼い時から厳しく躾けられるように、子供というのは、小学低学年から勉強を躾られなければ屑になるということは真理と考えている。問題は、そのような指導ができる塾があるのか、ということである。
わたしにはわからない。東京は多種多様の塾がある。だから今お奨めできるのは、唯一、わたしの竹の会だけである。
世の中の大多数の親が、大手塾に小学低学年から、子どもを通わせて、その結果、皆が皆うまくゆくならば、問題はない。しかし、大手にやれば、必ず落ちこぼれが出るのは、予め織り込み済みである。大手とはそういうことを当然前提した営利企業である。大量の生徒をまとめて扱う形態では、個々の落ちこぼれは当然予定している。
大手はもともと思考力のある子を集めて、情報を提供して、その子たちの能力に乗っかって受からせているだけである。いいですか。大手はもともと思考のある子を求めている。思考のない子が行くところではない。
この点、地元の中小塾、個人塾はどうか。いかにも手をかけて教えるというようなことを言うけれど、こちらももともと思考のある子を想定している。原則としている。市販のテキストを使い、授業を講師がやる限り、その実質は変わらない。皆さんはしっかりと騙されて、何年間かカネを貢いで、もともと頭のいい子はそれなりに成功し、思考のない子は失敗する。それだけのことです。
塾の手口は、わかっています。バカはバカなりに入れる高校があります。だから塾には失敗はない。とにかく能力目一杯頑張って入れるところに入れた、おめでとう、これが現実である。
第二志望、第三志望に受からせる。たいていの大手、中小、地元塾は、最初からそのつもりであるが、親にはそんなことは言わない。「頑張ってください、頑張ればわかりません」と本心とは裏腹のことを言うに決まっている。彼らは、商売をしているのだといことを忘れてはならない。
竹の会は、思考力を紡ぐ、ということを、35年やってきた。研究とその実証を重ねてきた。思考を紡ぐために、もっとも有効な指導の形態を考えてきた。授業を否定し、したがってそのためのテキストを否定し、当然講師を否定して、新たに「指導」という概念を構築し、レジュメという至高の教材を開発した。
竹の会は、誰でも思考を伸ばせるとは言っていない。ただ境界児童について、指導できないと言っているだけである。小学低学年は、未分化児童と境界児童の見分けが難しい。その判断ができるのは、小4あたりである。しかし、もし小4で未分化児童と判明したとき、その遅れを取り戻すのは難しい。未分化であれは尚更低学年から訓練しておかなければならない。境界児童なら低学年からの訓練が絶対である。境界児童が高学年からでは手遅れである。
こうして小学低学年指導の必須であること、今のところそれが可能とわかっているのは、竹の会であること、をお伝えできたかと、思います。
※京都在住のお母様へ
メールをありがとうございます。小3から大手塾に通われて、私立を目指してきたが、小5になって、公立中高一貫校に行きたい、ということで、理科、社会対策を含めた勉強の方法をご質問のことと理解しております。成績は芳しくないこと、京都の志望中学の過去問を必要なら送ります、ということでしたね。
ちなみに京都の公立中高一貫校は、全ての過去問を研究し尽くしております。確かに、都立と違って、理科、社会は、私立の出題と変わりませんね。ただそうは言っても私立の問題とは、公立という歯止めはある。こうした問題に対応するテキストはあるのか、というご質問ですが、私立向けのもので対応できると思いますが、使い方は要注意です。全く私立と同じようにやるのは、ないですね。それよりも、問題は、つまりテキスト云々ではなく、思考力をつけられるかどうか、です。ただの知識の暗記と考えていると、理科や社会はそれこそ手が回らないほどに量が多いことになるでしょう。暗記科目の攻略は、できるだけ暗記しないことです。つまり工夫すれば暗記しなくて済む、というのが暗記科目なのです。それは言い換えれば、考えるということなんです。理科も社会も考えること、適性も考えることから解決できる問題なんです。こうして、もっともいい対策は、思考で対応できるようにすることとわかります。これまで大手で小3から小5まで、2年半の間に、思考を紡ぐことをしてくるべきであった。大手のカリキュラムは、もともとできる子、知能が高くてもともとの思考に恵まれた子のためのものです。
以上
小学低学年に思考を鍛えてどうにかなるか。当然境界児童なら効果は薄い。もし未分化児童なら伸ばせる。いずれにしても小学低学年の時に、大手にいきなり行ったのはまずい。幼くても利発な子かどうかはわかる。並みとわかっていたのなら、大手はやめた方がよかった。竹の会にも、最初から竹の会に来ていながら、小6から大手に行った子もいるが、大手に行けば、夢が叶うと漠然と思う。もちろん錯覚なのだが、大手には、人を惑わせる魅力がある。ただし、中身はない。漠然と大手に行けば夢が叶うと思う。受験の世界は、親にも子にも夢を見させる。まるで宝くじを買う感覚である。それは実体のない幻想である。そうなのである。人は幻想で、行動する。偏差値が低くてもなんとかなると幻想する。この「なんとかなる」というのは、何の根拠もない。習い事、稽古事、スポーツやってても、「なんとかなる」である。一週間里帰りでも、「頑張れば何とかなる」である。この人たちは、根拠のない幻想で、当面の楽観を優先させる。こういう人たちが、成功することはない。
竹の会という主張は、竹の会が存在する限りの主張です。わたしは長い間、渋谷の不便なところに塾を構えてきました。およそ塾を開くような立地ではない。しかもマンションの一室からのスタートでした。なぜって、資金がなかったからです。竹の会はずっと地元密着型の塾でした。竹の会に区外から来るというのは、たまにありました。ところが、少子化の進んだ平成20年あたりから、区外から通う子たちが少しずつですが、増えてゆきました。それでも渋谷駅から遠いということが、竹の会のネックでした。それがグローバルにはならなかった理由でした。いやそれよりもさしたる宣伝手段を持たないことも大きかった。2012年5月竹の会渋谷教室移転。積年の夢であった渋谷駅から至近の塾を叶えた。この時から竹の会は、東京23区を通塾エリアにした。いつか渋谷駅のそばに、という夢、絶対にありえないと諦めていた夢だった。その時から思い続けてきた「東京の渋谷にいい塾があるんだよ」、と23区の人たちに噂されるような塾になりたい。
わたしの竹の会、そういう日がくるまでわたしは元気でいられるのかな。
2020年カレンダー完成しました!
竹の会合格35年史 竹の会昭和60年(1985年)創設
平成31年
中学受験
都立桜修館中等教育学校(男子)※併願合格 巣鴨中学 攻玉社中学 都立桜修館中等教育学校(女子)千代田区立九段中等教育学校(女子)千代田区立九段中等教育学校(女子)
高校受験
都立青山高等学校(女子)
平成30年
中学受験 都立桜修館中等教育学校 都立富士高等学校附属富士中学校 都立富士高等学校附属富士中学校 ※併願私立 東京農業大学第一高等学校中等部
平成28年
中学受検 都立小石川中等教育学校 都立白鷗高等学校附属中学校 都立富士高等学校附属富士中学校
高校受験
都立戸山高等学校 都立文京高等学校
平成27年
中学受検
都立桜修館中等教育学校 都立富士高等学校附属富士中学校
高校受験
都立戸山高等学校
平成26年
高校受験
都立駒場高等学校
平成25年
中学受検
都立小石川中等教育学校 都立桜修館中等教育学校 都立白鷗高等学校附属中学校
高校受験 ※1名中1名合格
都立北園高等学校
平成24年
中学受検
都立富士高等学校附属富士中学校
平成23年
中学受検
都立小石川中等教育学校 都立桜修館中等教育学校
高校受験
都立小山台高等学校 都立文京高等学校 都立産業技術高等専門学校
平成22年
中学受検
都立桜修館中等教育学校 都立両国高等学校附属中学校 東大附属中等教育学校
高校受験
都立富士高等高校
平成21年
大学受験
慶應義塾大学(商学部)千葉大学(法経学部)
平成20年
中学受検
都立桜修館中等教育学校
高校受験
都立西高等学校 豊島岡女子学園高等学校 桐蔭学園高等学校(理数科)立教新座高等学校
平成19年
中学受検
千代田区立九段中等教育学校 東大附属中等教育学校 東大附属中等教育学校高校受験
都立狛江高等学校
平成18年
中学受検
東大附属中等教育学校
高校受験
都立富士高等学校 都立狛江高等学校
平成17年
高校受験
都立青山高等学校 都立新宿高等学校 都立大附属高等学校 桐蔭学園高等学校(理数科)
平成16年
中学受験
東大附属中等教育学校 成城学園中学校
高校受験
都立富士高等学校 都立富士高等学校 國學院高等学校
平成15年
中学受験
国学院久我山中学校 吉祥女子中学校
高校受験
都立新宿高等学校 都立鷺宮高等学校
大学受験
中央大学
平成14年
高校受験
都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立駒場高等学校
大学受験
慶應義塾大学(総合政策学部)上智大学(経済)
平成13年
高校受験
都立西高等学校 都立国際高等学校 都立新宿高等学校
平成12年
中学受験
東大附属中等教育学校 日本大学第二中学校 実践女子学園中学校
高校受験
都立青山高等学校 都立新宿高等学校 都立新宿高等学校 都立新宿高等学校 国学院高等学校 国学院高等学校 東京農大第一高等学校
平成11年
中学受験
立教池袋中学校
高校受験
都立青山高等学校 都立駒場高等学校 青山学院高等部
平成10年
高校受験
早稲田実業学校高等部(普通科)早稲田実業学校高等部(商業科)立教新座高等学校 日本大学第二高等学校 都立駒場高等学校 都立三田高等学校
平成9年
中学受験
成城学園中学校 大妻中野中学校 大妻中野中学校 恵泉女学園中学校
高校受験
都立青山高等学校 都立新宿高等学校 都立新宿高等学校 都立駒場高等学校 都立駒場高等学校 成城高等学校 成城学園高等部
平成8年
中学受験
昭和女子大附属昭和中学校
高校受験
都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立新宿高等学校 都立新宿高等学校 国学院久我山高等学 東工大附属高等学校 日大櫻丘高等学校 玉川学園高等部
大学受験
東京理科大学(理工)
平成7年
中学受験
成城学園中学校
高校受験
東邦大附属東邦高等学校
大学受験
中央大学(法学部)
平成6年
都立青山高等学校 都立新宿高等学校 国学院久我山高等学校 帝京大学高等学校
大学受験
東洋英和女学院大学
平成5年
高校受験
都立大附属高等学校
平成4年
高校受験
都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立駒場高等学校 桐蔭学園高等学校(理数科)成城高等学校 共立女子第二高等学校 東京農大第一高等学校
平成3年
中学受験
東洋英和女学院中学部
高校受験
都立戸山高等学校 都立新宿高等学校 都立駒場高等学校 青山学院高等部
平成2年
中学受験
獨協中学校
高校受験
都立新宿高等学校 都立大附属高等学校 東京農大第一高等学校
平成1年
高校受験
都立国際高等学校
昭和63年
高校受験
都立駒場高等学校 都立芸術高等学校 都立大附属高等学校 富士見高等学校 国学院久我山高等学校
昭和62年
高校受験
都立駒場高等学校 都立大附属高等学校 都立大附属高等学校 都立目黒高等学校 青山学院高等部 市川高等学校 国学院久我山高等学校
竹の会昭和60年10月開設