2018.03.28
おはようございます。春は桜、秋は紅葉と楽しみにしてきましたが、ここ近年は春は花粉に見舞われ散々な思いをしております。この時期は杉花粉が隆盛ということで、国策として杉の植林が元凶として非難されたものでした。しかし、花粉もいろいろあり、杉花粉が主犯としても、ほかにさまざまな花粉が原因の人もいるわけで、そうなると現代人のアレルギー症状一般についての諸説がまた入り乱れることとなります。いずれも根拠はとなるとどうも仮説ばかりで因果関係の検証は甚だ心許ない。その中で抗生物質多用説というものがありまして、抗生物質を使うようになって、現代人の体内におけるある種の均衡状態が崩れてきたのではないか、という興味を引かれる仮説がありました。抗生物質のもたらす害悪については、最近さまざまな書物が出ており、わたしもいろいろと読んでおりますが、深刻な問題です。当面の病気の苦しみから逃れるためとはいえ、特効薬的な抗生物質を医者の言葉にしたがい「呑みきる」ことを忠実に実行する親が多いのですが、確実に子は目に見えないけれど弱体化しているという気がします。
ここでは医師の言葉に疑うこともなくしたがう親の姿勢がある種の、現代の親の像というものを投影しているように思います。権威というものに弱く、医師というだけで医師の言うことだからと全面的にしたがう姿勢です。ばかばかしい話しです。しかし、現実にはそういう親ばかりです。専門家ということで、信じる、自分では、判断しているようで実は言いなりという親ばかりです。
これは実は塾についても変わらない。このところ、あちこちに教室を展開する中規模塾に行っていた、それも2年、3年と通っていたという人の話を何例か聞く機会があった。東京にはありとあらゆるタイプの塾があるけれど、東京のみなさんはそうした中から自己の判断で選んで、いい塾との思いで子どもの将来を考えて通わせているのだと思います。規模から言えば、大手と言われる塾に大半の親が通わせるのでしょうが、中規模塾に通わせる親もそれなりにいるものだと感心しました。個人塾はそれはまたかなりあるのではないか。子どもをよくよく観察しているのは個人塾なのであろうが、塾には本質的に逃れられないある種の弱点がある。それは塾を存続させるためには生徒に止めてほしくない、という生徒のためではなく、我が身のための力が常にはたらくことである。だから塾の先生が言っていることなどは実は斟酌して、聞かなければならない。時には、真反対のことも平然と言うのが塾なのである。塾の先生が「大丈夫」と言うとき、止めてほしくない、という意味だけのこともある。塾の先生は思ってもいないことを言うものである。親に「媚びる」、子に「阿る」、こういうことをやるから親にも子にもなめられるし、子に毅然とした、態度がとれないのである。大手の講師が優しくて「いい先生」ということを母親たちは喜ぶが、本来喜ぶべきポイントは、そんなことではなく、現実に子どもが伸びたのかどうかではないか。子どもと「馬が合う」のよ、と喜ぶ母親の頭は、子どもの学力が向上しているのか、というところにはない。正直何もわかっていない、というか、我が子にも媚びる母親の増殖は防ぎようもない。
塾と言えば、学校の模倣の域を出ない、テキスト、授業、先生の三本柱、そこから予習、復習、カリキュラムという、決まり切った概念が親たちにはあたりまえのように心地よい。集団で処理するということ自体に問題性があるというところは見事にスルーされる。わたしの見た、様々な塾に通っていた子という子、例外なく伽藍堂さながらに、「できる」体を装いながらも、何もできない子たちばかりであった。計算が「できる」という子がまともに計算のできた試しはないし、割合が「わかる」という子にまともな理解をしている子を見たこともない。驚いたのは、巷の塾が算数を教えるのに、かっこを使って逆算式、つまり方程式を作らせて、解かせていることである。塾の体さえもなしていないところが、それなりの看板を出して、塾を名乗っている。正当な判断もできない親に、塾の良し悪しなど判別できるはずもない。2年も通わせて、計算の手順も知らない、割合のしくみも悟らない、そういう子ばかりなのはどうしたことなのか。公式を覚えて「使う」、そういう頭のはたらきしかできない頭にして、それでいいのか。塾として果たすべきこと、やるべきことをやっていないではないか。
割合を理解するというのは、単に割合のベタな問題を公式にあてはめて解けるようにすること、あるいはかっこを使って逆算式を作り解く、つまり方程式的発想に習熟させることではない。割合というのは、思考を未開発な幼い心の中に組み込む、基礎打ちみたいな、概念装置である。子どもは割合というもののしくみを構造的に理解していき、そこから思考の様式というものを学んでいくのである。大手のように割合をテキストの一項目として、単なる情報として、知識として、終わらせるのでは、なにも生産的な精神活動も生まない。
それから子どもというのは、ひとりひとり千差万別、どこが理解できないで苦しんでいるのか、個々的な壁はみな違うのである。集団で処理するなどありえない。授業では、子どもが本当に理解したのかどうか、全くわからない。「わかったであろう」という見込みのもとに進めるだけである。だから何も理解していない、わかったふりの、伽藍堂小学生が大量に発生する。自尊心の強い子だとわかったふりも半端ではない。親は「わかった」という子の言葉をそのまま信じるものである。「割合が終わった」というとき、それはテキストの項目がカリキュラム通りに進められたということ以外の意味はない。
巷の塾、テキストに従い授業をするする塾には、テキストという限界がある。テキストがすべてである。いいですか。子どもたちに教える情報というのは、不断に問い直しながら、改善していくべきものなのです。昔ながらのやりかたで子どもに教えるだけの塾なんて害悪以外のなんであろうか。
伽藍堂と言えば、伽藍堂中学生というのが昔から変わらない公立中学の生徒像です。部活で疲れて勉強しない中学生なら腐るほどいます。そのくせ塾には行く。塾では居眠りしかしない。なかには成績がいいのもいるけれど、いずれにしてもわたしにはストレスです。一掃するにしくはない。塾に行かないという子も多い。それは経済的な問題であり、しかたないけれど、そういう子たちが塾で伸びていく子には為す術もないのは、それが現実が生存競争社会であるということなのであるから、しかたない。
それにしても塾に行っているのに、意味のない子たちのなんと多いことか。親がそのことの深刻さにほとんど気づいていないのがまた共通しているほどに親というのはなにも見えていないということか。最近竹の会のわたしの指導風景を見学したいという人が何件かありましたが、もちろん入会試験を受ける前提ですが、竹の会の指導風景を見て、どう思われたかは、わたしにはなんともわかりませんが、どうなのでしょうか。ちなみに、竹の会の入会試験は、学校の通知表で「よくできる」が8割前後あることが、合格できる目安としています。最近は、どうも内申どおりにいかない子たちがいる。8割あるのに、仮合格ギリギリというのは、学校の内申の評価に偏りがあるということではないか。つまり正当に評価していない。特に、女子に甘い内申の傾向が見てとれる。それから5割前後で入会試験にチャレンジしてくるのはやはり無理のようです。