2023.12.08
🔛「方法」感染症という現代病
かつては、よく「うちの子は方法がわからないのでできない」と本気で信じている母親というのがいまして、「先生、うちの子は要領が悪いだけで、勉強のやり方がわからないだけなんですよ」と、わたしに訴えてきたものでした。なんと答えていいのか答えに窮したものです。いや、ただ頭が悪いだけだろ、と思ったものですから、「はー」と答えるしかなかったですね。
方法を言う母親というのは、自分の子どもが、頭が悪いと考えたくないのですよね。それで、頭が以外に原因を探すわけです。母親も頭が悪いから、思いつくのは、「やり方」、つまり方法というわけです。
ここで、もう気がつかれた方もいるかと思いますが、方法という、何か不可能を可能にしてしまう、魔法のようなものがある、と考えているわけです。方法だけが、独立した価値があるかのように、一人歩きしているのです。そりゃーそうでしょ。ある方法で成功したという人は、その方法を取るに及んだ才能、資質、経験、想像力など凡そ言葉に表せないものが、成功の原因の総体であり、それら総体の中で言葉で表せるのは方法だけである。あたかも、それだけが成功を実現させた価値かのように象徴的にもてはやされる。司法試験合格体験記などでは、予備校の宣伝と、自分の取った方法論が、語られる。方法は、決して独立した価値などないのに。だからこの方法で合格しましたという「方法論」の本を出したりする。
頭の悪い子の母親は、うちの子は、勉強の方法がわからない、と騒ぐ。しかし、最初に、世の中に、客観的、普遍的な方法というものがあって、勉強のできる子はその方法を知っているからできるのだ、と考える頭の構造がわたしには理解できない。方法は、勉強している中から生まれた工夫であり、その工夫は、その人の才能、性格、想像力などの総合的な作用から生まれてきたに過ぎない。だから人それぞれに方法かある。方法がわからないのではなく、方法を生み出すほどの頭がないのだ。
人は、方法に拘る。すぐに「どうしたら良いのか」を聞きたがる。実は、大手塾もその延長だ。親は,大手に行けば,都立中高一貫校に合格する「方法」を教えてくれる、と思っている。
母親は、うちの子ができないと、それは「方法が間違っているからだ」と本気で思い込み、実際、そういうことを訴えていた母親なら過去にいくらでもいた。要は、子どもの成績が冴えない母親たちが飛びつく救いの藁だ。
今はインターネットで簡単に方法を検索することができる。〇〇試験合格体験談には、合格者が、この方法が、よかった、と成功談を書く。
方法だけが、言葉にできる。人は、言葉にだけ敏感に反応する。いや言葉だけを信じたがる。真実は言葉にできない,文章化できないもののなかにあるのに。
ちょっと待てよ。これだけ世の中に多種多様の方法が氾濫しているのは、唯一の方法がない、ということを証明しているのではないか。方法などないというのが真理だということではないか。
合格をめざして頑張っていると、目の前にちらつく新しい方法に飛びつきたくなる。結果として、まだ曖昧なままの既存の方法は捨てるわけである。今あるものはよく試されもせず効果なしと捨てられて,新しい方法に飛びついていく。
この方法が信用できるとしてエビデンスをあげる人もいるけれど、例えば、合格体験記では、合格がエビデンスなのだろうが、それはあまりにも個人的なものである。方法だけが価値としてあげられているが、個人の才能、知能、性格などはすべて捨象される。だれでも使える方法ではない。
今は、方法が溢れているから、人は、方法の選択で悩み、方法はよく試されもせず使い捨てされる。
昔の人は、情報の入手が困難だったから、方法は自分で考えた。だから想像力が育まれた。一つの方法が大切にされた。方法の選択という問題がなかった。だから一つの,ある情報,方法だけに集中できた。
情報が溢れると、予備校が、試験の難度を上げていくことになる。入試を難しくしているのは、予備校だ。
ここで一つの真理が見えてくる。
方法が優れていたから成功したのではない。
その方法を考え出した、優れた想像力、その実行力が、卓越していたから成功したのだ。
方法は文章化できるが、想像力、実行力は、文章化できない。なぜならそれはその人のもつ才能だからだ。
方法を正解と考える母親、父親が、大手塾には、いい方法があると飛びつく。自分の子どもの才能は全く度外視して、方法で塾を判断する。
中には、大手、有名塾を転々とする母親もいた。なぜ母親か。それは父親は普通仕事に追われて余裕がないから、暇を持て余した母親が専断するからだ。次から次へと、方法を知って、少し試しては成果が出ないからと、次を探すということを繰り返す。これは情報過多による脳破壊症だ。方法をバカにつける薬とでも思っているのだろう。相変わらず自分の子はバカのままなのに。