2020.10.06
都立良質高に行けるかの分岐点
~方程式の文章題が解けない中学生
これはもっとその前の文字を使って考える、つまり記号言語を使うというのが数学の世界なのですが、この段階ですでに挫折している、すんなりと入れない、という中学生がおそらくかなりの人数いると思われます。
正直なところ、方程式を立てられないとなす術はない、というのが経験値です。過去の竹の会の歴史を紐解いて見ても、中学で伸びない子、というか結局高校入試で失敗する子というのは例外なく方程式の文章題ができなかった。これは自力で考えて解決していくという、中学で、最も大切な能力が欠落しているということです。これと別に、中1の初期段階で英語をいい加減なままにしておくと確実に高校受験では失敗しますが、これは能力というより勉強姿勢に問題があります。
高校受験というのは、中1になる前の小6の2月あたりから訓練を始めないとまず間に合わない。
これはこの時期に始めたら必ず成功するということではないが、始めなければ失敗する蓋然性が高いという意味である。2月に始めたからといって、小学の段階で、基本的な思考力ができていなければだめです。つまり方程式を立てられるか否かは、実は小学低学年からの訓練に規定されるということです。もちろん訓練の前提としてのそれ相当の能力は必要です。
「新宿高校に行きたい」
こういう生徒はこれまでたくさんいた。幸い竹の会では、これまでに新宿高校に失敗したことはない。
が、誰でもが行けるわけではない。つまり、最低限の能力要件というものがある。前述の方程式が立てられない子は無理である。もし、「新宿高校に行きたい」とそういう子が言っているのなら、そういう意志を否定することはできないが、決して受かることはない。思い出した。新宿に落ちた生徒が一人いた。内申からは、目黒も無理だった。しかもいわゆる方程式を立てられない子だった。わたしの「志望校を下げろ」という忠告を無視して強行した。わたしは願書取下げの最終日の前日も電話して説得した。母親はもう匙を投げた感じでどうにもならなかった。新宿を落ちて底辺私立の何次募集かに引っかかった。
実は、独自高になってからの新宿高校には未だ受験した者はいない。青山や戸山はいる。
方程式が立てられない、いや数学的文章を文字で置き換えられない、これは高校受験には致命的です。少なくともそれなりの高校へ行くことは諦めるほかないのです。子どもがこういう状態なのに、親の思いは別にある。塾に通っていれば都立駒場でも行けると思っている親が現実にいる。子どもが望み必死に勉強している。親もそういう子どもの気持ちをなんとか応援してあげたい。子どもは頑張れば行けると思っている。ところが、そういう親に限って部活などを平気でやらせる。塾に来るのが部活を終わってからだからいつも遅くなる。たいてい疲れて寝ている。これが続くと部活のない日もやる気なし。これが通り相場なのです。受験というのは、強い思いだけでは受からないし、またまじめに勉強したからといって受かる保証はない。
方程式が立てられるほどの能力がありながら、大手の塾に漫然と通い受験に失敗した生徒ならいくらでもいた。大手に中3の夏前までいて、三人称単数現在を知らない子がいた。数学はできた。しかし、鍛えなければ受験には通用しない程度の「できた」である。なぜかこういう生徒ほど自信が強い。特に、他所の塾にいた子というのは、真面目にレジュメをやらない。何か参考書買ってやる。わかっていないのだ。なかなか数学の成績が上がらないので父親が相談に来た。それで竹の会に入るということは竹の会の指導に従うということであり、レジュメをきちんとやってくれ、と注文した。やがて数学が定期テストでも90点を超すようになって、妙に自信を持ち始めた。しかし、英語の芯となる力はなく、理社もこれまでの不勉強がたたり全く点にならなかった、それでもかなり高い都立を受けると言う。親も一緒で、わかっていない。実力はないのに高い都立ばかり受けたがる。だいたい中1から体験授業の流れで中3まで通った大手塾というのはいったい何だったのだ。中3で三人称単数現在も知らない中学生を2年ちょっとも飼い殺しにしてそれで大手塾ですとはあきれてものも言えない。
わたしから言わせれば、大手であれ、個人塾であれ、他所の塾は高校受験は素人と同じだという意識が強い。大手にしても三年間も生徒を飼い殺しにして、結局都立に行けない、そんな事例を多数見てきた。
高校受験というのは、中1から徹底した訓練を要するとしても、成功するには、やはり「方程式を立てられるほどの能力」は必要である。これだけはやはり譲れない。
しかし、方程式が立てられない子は現実には多数いると推測されます。こういう子は塾に行っても見込みはないと思います。親御さんにはほんとうに気の毒ですが、いくらカネをかけてもだめです。
なぜできないのか。
これは小学生のときの勉強姿勢というものがかなり影響しているように思います。真面目に勉強に向き合ってきた子というのは能力をカバーすることがあります。竹の会でも入会試験が全くできないで落ちたという子が高校受験で伸びたということはあります。ただし、方程式ば立てられました。
原因は単純には語れない。が、能力が原因である可能性は限りなく強い。もし能力外の何かがあるとしても能力はやはり影響している。その場合、おそらく几帳面にノートが取れるほどに字が書けるとか、勉強に強い、並々ならぬ関心を持つとか、したがって努力を怠らない、そういう子の中に、それこそたまに能力を開花させる子が出ることがある。しかし、そういう子は実際はほとんどいない。
方程式が立てられない子は、実は、すでに小学生のときにその兆候は見えている。わかりやすい言い方をすれば、合格はんこの取れない子である。小学生の頃から自分の頭で考えて解くということのできない子が将来方程式を立てられるようになるかというと、これはない、まずない。
ここで親も諦めるしかない。とにかく塾でなんとかなる、家庭教師でなんとかなる、大手の個人指導でなんとかなる、そういうことはないのです。なんとかしようとするから悩むことになる。本来解決できない問題で徒に悩んでいる、そういう親をたくさん見てきました。解決はできないが、正解はある。社会に出てもやっていけるような基礎学力はつけてやる、手に職をつける、勉強以外で得意なこと、好きなことを伸ばしてやる、それが正解となる。人間社会というのはもともと不平等にできている。この未来は持って生まれたDNAに規定されている。規範で人間は本来「平等だ」と言ってみても、何も解決できない。生存競争というのは、実際には、かなり不平等な競争なのである。DNAの優れた個体がこの学歴社会では美味しいパイを優先的に取れるように作られている。だからDNA的に優れた者同士の熾烈な競争となる。しかし、その競争も持って生まれた経済的格差、親の学歴、職業、家庭の事情などによって大きく規定されてくる。
生存競争は最初から不平等なのである。
しかし、私たちは、生存競争を戦うしか生き残る術はない。
竹の会は、DNA的な制約の中で戦える逸材を求めてきた。中学生なら最低限方程式は立てられる子が譲歩の限界であった。小学生については、「よくできる」8割基準を満たす子を求めてきたが、8割基準を満たすことは、必要条件であって十分条件ではない。小学校の優等生というのは、親も子も自信家が多く、習い事、稽古事、スポーツに熱心である。それでも成功できると平気で信じている。「なんとかなる」「どうにかなる」と思っている。この辺の大雑把さはあまりにも片面的である。わたしから見ればもう黄信号どころか赤信号が点いていると思うのに、発表会とか試合とか実家帰省などなんでも勉強に優先される。それでも受かると信じているから直前まで投げ出さないで勉強するのだろう。しかし、現実はそうではないことを受験の結果で思い知る。そういう人間ばかりである。つまり、優等生というのは、受験に失敗する本質を持っている。戦えるのは、人生が生存競争だということを真摯に捉えた優等生、そして親のみである。
竹の会は受験とは何かについて常に問い続けてきた。いつも真剣に真摯にこの問題を考えてきた。
竹の会で高校受験をやるというのは、竹の会にすべてを全面的に預けるということだ。自尊心で成績を隠すというのはよく優等生の女子に多かったが、それこそ自滅行為であった。受験のプロに判断を委ねる、そして最もいい方法をプロの目で探してもらう、受験生はただ言われたことを黙々と実行する、竹の会で高校受験をやるということはそういうことだ。