画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

🎵まず型を知った上で型破りを覚える‼️

2023.07.04

🎵まず型を知った上で型破りを覚える‼️
 型とは、基本の型のこと、つまり、基本原則のことである。私たちは、基本の習得には、いくら時間をかけてもいい。基本こそ難問を解く鍵になる。このことは、なかなかわからない。多くの人が、基本もそこそこに応用とか、難しい問題をやりたがる。それでできればいいのだができるわけもなく、解答見て、解説読んで、さらに応用問題を漁るわけである。極端な話し基本が不完全な状態でいくら応用をやっても効果はない。基本から「考えて」解いて行くということができないからである。基本をやるというのは、一つの型を作るということである。基本の型に当てはめて考える。考えるというのは、当面、この型にはめる作業を意味することになる。この型が未成型な状態では、この型を使っての思考というのはおよそできないわけである。
 子どもの思考力を引き出しその芽を伸ばしていく、それは型(基本)から入るのを至高とするであろう。子どもというのは、基本を型に組み直した思考枠をまず使うことを覚える。いいですか。子どもに問題を与えていきなり「考えろ」と言うのは如何にも乱暴な話しです。問題読んでまず意味がわからん。何を書いているのか、さっぱりわからん。そんなところへ「もっと考えろ」とか、「集中力がない」とか、恫喝してみても、何を言ってるのかこの人はということになる。

 教える側も変わらなければならない。今、いちばん怖いのは、私たちが、言語に支配されていることである。言語論的転回と言われる、哲学の世界の転換は、わたしたち日常世界こそそうなのではないか、と考えさせられる。わたしたちは言葉に踊らされる。養老(孟司)先生の言葉を借りて言えば,わたしたちが、変わらないものに影響されていること、洗脳されているということ、である。インターネットを開けば、たいていの情報は手に入る。その知識というのは、画像であれ、文字であれ、動画であれ、いつも変わらないままに、存在している。わたしたちは、そんな変わらない、10年前と同じ文字を見て、情報として、in-putして、何かの根拠にしようとする。テレビなんか観ていると、弁護士、医師、芸能人が、なにか,もっともらしく語っている。しかし、弁護士であれ、芸人であれ、情報源の中心は、インターネットだろう。こうなると、ネットの情報をうまく取り入れてるかどうか、その差にすぎないことになる。つまり、専門性はどこにもない。ネットというか、プログラミングできる人、検索のうまい人が、賢い人となる。ネットの中にある「変わらない」情報は、誰が書いたかわからない、evidenceもない、曖昧な情報、たまに◯◯大学の情報なんてあっても信用できない世界です。そういう情報を根拠に子育てすることを養老先生は笑っておられる。養老先生は、子どもとのリアルな五感を通じてのやりとり、接触を言っておられる。ネットの情報をそのまま信じて子どもを教育するなんて考えられない、と言っておられる。
 竹の会では、わたしは、指導初期の段階では、徹底して、型、つまり基本の型から学ばせることにしている。型は、小学生には、入り易い。最初から戸惑うことなく、内容の理解に煩わされることなく、まず型からなんの抵抗もなくスッと入っていける。型に慣れてくると、ようやく内容についてじっくり考えられる、という子もいる。いきなり割合という概念を説明して理解できる小学生は全体の2割ほどしかいないだろう。わたしは、どこまで割合を理解できる層を広げられるか、そう考えて、ミクロマクロ法という型を発明した。わたしの作った型が現実に多くの悩める小学生を救ってきたことは多くの人の認めるところだろう。
 〇塾の責任を問う頭の構造
 何百人と不合格を出す大手塾に落ちた責任を問うバカはいない。これが個人塾だと文句をいい易いとでも思ったのか、責任はどう取るのか、などと宣う輩がいる。受験というのは、不確実性を本質とするのが大前提である。塾がその不確実性を排除できるわけではない。そういう単純な理屈も理解しない人がいるのには、驚かされる。あまりにも受験に素朴かつ無知でありすぎる。商品を信じて買うというのとは違うのである。「落ちた責任をどうとるのか」というめちゃくちゃな非論理が自然に湧いて来るような人がいるのですね。
 どこに100%合格を保証できる塾があるというのか。塾に行って塾の言う通りにやったら落ちた? これも何を言っているのか、わからない。
 試験というのは、実力があっても落ちる、水ものである。大手で落ちている何百人という塾生が塾の責任を問うなんて聞いたこともない。塾の言う通りにやったのに落ちたと塾を責めるのか。
 試験というのは、どんなに頑張ったからといって、必ず通るなんて保証なんかないのだ。そういう性質のものだ。ましてや8倍なんて倍率なら落ちる方が普通のことであり、最初からみんなそれをあたりまえのこととして、受けるのだ。落ちたら、どう責任をとるのか、という人の頭の構造は理解できないが、こういう人は、高校受験、大学受験、資格試験で、落ちるたびにいちいち塾、予備校の責任を問うのであろうか。
 自分の知能、生活態度、勉強環境、努力の量、カネのかけ方、家庭の協力度、そういうことは、問わないのか。
 試験は自己責任だという大前提があるのだ。難関試験は自己だけでは対応できないから、塾を「利用する」のだ。そうだ、塾は「利用する」ものなのだ。
何か勘違いしているのではないか。塾は、自己責任を当然の前提としてのことなのだ。戦うのは自分だ。塾は適切なアドバイス、講座、指導などを通じて援護することが仕事なのだ。昨今は、「塾のおかげで合格しました」調の体験談、「オレが合格させた」などのカリスマ講師などが大声を出すので、勘違いする人たちが出てくる。受験というものは、他人がどうこうできるものではなく、全て本人側の事情(能力・勉強量・家庭環境・親の見識・投資額等々)なのである。自己責任はあたりまえなのだ。それを何を勘違いしたのか、塾はどう責任を取るのか、などと言い出す。
 塾が100%責任を負うのなら、大手が〇〇に合格率80%なんか宣伝しないだろ。80%と言うのは、落ちるのが当然の前提として、80%も受かりました、と言っているのだ。受からない前提で自慢しているのだ。塾に行けば100%合格させる責任があるとか、塾にそんな能力があるとか、だったら塾選びなんかしないだろ。受験選びをするのは、塾が不完全だからだろ。自己責任だということは前提なのだ。こんな理屈もわからないほどの頭なら何を話しても仕方ない。
 塾の責任云々という人は、おそらく物事を対象として選ぶ意識なのだろうか、と思う。こういう人は、対象を絶対的に捉えやすいから、なんでもうまくいかないとすぐ対象、つまり他人のせいにしやすい。そうではなく、塾とは、自分の目的を達するための手段、方法なのだ、ということを理解している人は、方法の選択で失敗したのは、自分のせいだと考える。他人のせいなんかではあり得ないのだから、至極最もな考え方である。
 物事を選択する場合、対象を選ぶ人は、どうしても目的が対象に転化しやすい。塾イコール合格と短絡して疑わない。しかし、最近の難関試験の合格者の書いた文章を読んでいると、予備校をはっきり方法の選択と捉えている。自分は予備校を」利用する」のだという意識がはっきりしている。頭のクリアな人ほど対象と方法を区別している。つまり、頭のいい人は、対象を選ぶのではなく、方法を選ぶのだ。だから方法の選択に失敗したら、それは自己の判断ミスということになる。対象を選ぶ人は、失敗すると、対象のせい、つまり他人のせいにしがちである。対象を絶対化しがちなのだ。宗教を信仰する人、宗教に入信する人が、宗教を対象化して、宗教を絶対化する傾向が強いのと同じである。このように対象を価値とする傾向の強い人は、一元論を取りやすく、自己の選んだ価値を唯一のものとして絶対化していく傾向がある。この価値を絶対化する人は、他人のせいにするから、すぐ責任をどうのこうのと言うわけである。

〇型破りは、追加知識として覚える‼️
 さて、基本の型がいつでも再現可能なまでになったなら、型破り、つまり基本の例外を覚える。問題は、型破りをどこまで覚えるか、である。
 型破りの範囲は、もちろん普通の教科書が基準となる。扱いは科目で異なるのは当然である。型破りは、基本との紐付けをしていく、勉強となるであろう。わたしたちは、型破りの問題が出たら、推理して解く、のが基本のスタイルとするほかないのである。なぜなら、人間の能力には限りがあり、型破りの知識を完全網羅することは不可能だからである。だからわたしたちは「範囲学習」において、型破りの知識は、範囲から外す代わりに、推理の素となる推素(これから推理のキィーワードと呼ぶことにする)を覚えればいいのである。
 型破りの知識は、そのまま覚えるのではなく、型から推理すればわかるようにするのが正しい方法である。だから勉強の中心も型を確実に覚える、という軸の置き方が変わってくる。
 それから知識を理解する、ということの意味を注意しておかねばならない。言葉というのは、難しい言葉がたくさんある。それらの言葉の辞書的な意味を理解するとして、抽象的な言葉には、その辞書的意味さえも理解しづらいものが少なくない。こういうときに、自分の言葉で、だから簡単な、しかも短い言葉、一言でいえ、こういうことだ、と言い換えて、頭に入れるということをやってほしいのだ。つまり、言葉はそのまま、辞書の表現のまま、頭に入れるのではなく、いったん自分語に翻訳してから、頭に入れるのだ。要するに、こういうことだ、と一拍置け‼️ 一言で言えばこういうことか❗️と、一回裏返せ❗️、評論文を読む時は、一段落、一文がスッと頭に入ってこないなら、その文を何度も読み返し、一言で言い換えてみろ、わかる、理解している、ということは、言い換えができるということだ。
 要するに、こういうことだな❗️ 言い換えるというのは、それなりの理解があってのことだ。
 丸山眞男は、「戦中と戦後の間で」という本の中で、本を読むとき、わからない言葉が出てきても、前後の文脈から推測してそのまま読み続ける、ということを言っている。辞書を引くと、文脈が断たれるので、やらない、といった趣旨のことを書いていた。ただこれは丸山のレベルで可能なことなのだろう。多くの中高生のみなさんが同じことをやるのは、まずい。知らない言葉はやはり調べて、自分の言葉でいいかさておく、ことである、わたしは、自分の言葉で言い換えられ、ことを「認識」と呼びたい。コンピュータの「認識」と同じことだと思うからである。頭の中に言葉が流れても、意味の認識がなければすぐ忘れてしまう。頭の中を一時的に通過しただけで消えてしまうただの現象に過ぎない。頭にとどめるためには、認識という手続きを取るしかない。認識は、脳を起動させて、脳が言い換えをして、初めて可能になる。この手続きは認識のための、脳内に入るための、一つの鍵である。わたしたちは脳の鍵をいろいろ持っている。その鍵は、わたしたちが、脳を起動させる、電源を入れるスイッチをオンにするために必要となる。わたしたちは、そう言った様々な鍵を作ることができる。勉強とは、脳にどのように認識させるか、その鍵を作ることだと言っていい。そうなのだ、わたしたちは、勉強するというとき、常に、脳を起動させ、脳が認識できるような仕組みを考えているのだ。

◯大手塾に通う親の悩み
「英語ができません」という母親が電話をかけてきた。早慶志望で数学はできる、学校も1番。あたりまえでしょ。
 そんなことはわかりきった話しです。
 能力が五十歩百歩の生徒、もちろんそれなりの秀才諸君が、同じ大手で、同じテキスト、同じ講師、同じ授業を受ければ、100%吸収したとしても、その序列は、本来の能力順になるはずです。オプション講座、特訓講座全て受けてもみな同じように申し込めば、相変わらず序列は変わらない。それで、英語を伸ばしてくれる塾を探す。もちろん大手には通いながらです。
 大手に通う生徒たちは、この理屈がなかなか理解できないようです。わたしが、駿台模擬で1番を取れたのは、ある意味簡単なことでした。大手で勉強している連中が、いくら天才でも、限界は見えていたからです。大手に頼る姿勢が命取りでした。大手の与える教材、授業だけを100%吸収してるだけですから。これが高校入試の弱点なんです。大学入試と違うところなんです。高校入試の「範囲学習」は大学入試の範囲学習のようにここまでという線が曖昧なんです。だから高校入試の範囲の線引きを大手塾が決めてやると、天才諸君はその大手の線引きに規定されてしまうのです。これは彼らの最大の弱点です。わたしは高校入試の「範囲学習」を大手より高いところに設定しただけです。そうしたら駿台模試では、慶應志木全志望者中1位、早稲田高等学院全志望者中1位、ととにかくどこを志望先に書いても全て1位が取れました。これを牛蒡抜きと言います。中1からせっせと早稲アカやサピ、Z会などに通い詰めて、中3の6月の駿台模試で勝負というわけでしょうが、竹の会が全て1位をもらっておきました。お疲れ様でした。
 わたしは、自分の持論を実践しただけのことです。数学だって、国語だって、理科も社会もすべて1位に導きました。わたしは慶應大学理工学部、慶應大学総合政策に、合格者を出したこともある、大学受験の指導歴、そして高校受験を38年間指導して来た人間です。何をどうすれば受かるか、そんなことはわかっています。たまたまわたしを信頼する人がいなかった。だから合格者はいなかった。それだけのことです。過去の実績だけ見て、「たいしたところに受かっていない」と批判した人がいましたが,
そして竹の会から竹の会をその程度、まあ、わたしのことをその程度と見て、去っていった人たちもいましたが。それはいいのです。去る者は追わず❗️ 信ずる者のみを指導できればそれでいいのです。
 そういう人がいれば、いつでも証明して見せますよ。

 

ページトップへ