2023.08.01
🎶「範囲」のある試験にだけ強い生徒の末路
中学生というのは、定期テスト(範囲のある試験)という比較的狭い範囲の試験によって成績を評価されることに慣れてしまっている。だから高校入試という中学履修事項の全範囲から出題される試験には対応できない生徒が多い。範囲なしとされた途端に赤子になる。無力になる。勉強をどうしていいのか、わからなくなる。それまで範囲のある試験では、たいていノートを作るとか、学校の先生が用意したプリント類、副教材なんかをやっていれば90点以上は取れた。しかし、高校入試では、いちいちノートを取る時間もないし、そのためにプリント配布ということもないだろう。
これまで範囲学習に慣れた生徒(優等生ばかり)には、いきなり渦中に放り出された気持ちだろう。そして範囲人間(範囲試験に慣れた生徒をそう呼ぶことにする)の大半がさしたる方法も分からずに模試で、特に、範囲が試験に及ぼす影響の強い理科、社会において、50点〜60点を取り続けるのだ。わたしは、この模試で平均点に近い点(50〜60)を取り続ける生徒のことを捉えて、得点が、平均化していくという法則を発見した。その原因は不明であるが、とにかく全範囲を満遍なくやればやるほと点数は上がっていくことなく、限りなく平均点に近づいていくのだ。これを打破するのは難しく、唯一効果があったのは、肉を切らせて骨を断つ、とでも言う手法であった。徹底して最重要点のみに絞った方法を取ることだ。この方法で平均点病に罹患した生徒をそれこそ何人も救ってきた。ただし、この方法でこの病から逃れられたのは、英数国に悩みのない生徒に限られる。英語がダメ、数学がダメ、国語がダメという生徒は、理社対策だけということにはならない、からである。しかし、最近の都立広尾高校合格は実は数英国も点が伸び悩む状況での合格であった。
範囲試験に飼い慣らされてきた範囲規範の強い生徒には致命的な欠陥がある。勉強の対象を範囲で切って、ここから先は志望校の範囲ではないと勉強しないことだ。つまり、やたら勉強しないでいい範囲を設定したがるのだ。そこに浅はかな能力の底が垣間見える気もする。
ここには勉強に対する大きな誤解がある。しかもその誤解は致命的な結末をもたらすほどの被害をもたらす。
勉強というのは、本来ここからここまでと区切って、勉強できるものではないのである。勉強は連続性をその本質とする。
例えば、英語を例に考えてみる。偏差値が高ければ難しい問題が出される。低ければ簡単な問題が出る、だからそういうことを言うのであろう。
しかし、英語は一つの体系である。途中から切ってここまでということではない。高校英語を勉強すれは高校入試の英語は馬鹿みたいに易しい筈だ。より高度な文法枠組みから英語を見れるからだ。つまり、レベルが高くなれば英語の視野、深みが広がる。それを中学の範囲だけに限って、理解すること自体に無理がある。つまり限られた範囲で無理に理解しようとしても正確な理解はできないのだ。狭い、次元の低いところでの幼稚な理解しかできないのだ。
そのことは、幼児が少ない語彙で理解できることに限界があるのと同じである。
共通問題校だから独自校までの勉強は必要ない、という考えを平気でする生徒の誤解は勉強を範囲で分離できると素朴に考えたのであろうが、あまりにも浅過ぎる。
令和4年竹の会から筑駒、開成、渋谷幕張、城北などに合格をしたが、日比谷は滑り止めとなり、結局受けなかった。この生徒も最初は日比谷をめざしたこともある。しかし、いつしか日比谷は魅力ない学校になった。学力が付くとはそういうことである。独自を目指せば共通校の遥か上の学力を得られる。共通校だから、そこまではやらないという考えは、共通校水準の勉強ばかりにこだわり、少しでも難度が高いと「共通校だから」と切り捨てるわけで、高い学力をつけてという考えは端からないわけで受験の戦略としても成り立たないものだ。こういう勉強をとれば本来の共通校でさえ危ない。
高校に入学したら、上位をキープし、大学入試を視野に入れるのでしょ。共通校に受かるほどほどの力で、入学後は下位の成績ではどうにもならない。
入学後上位にあるためには、実力は最大限つけておくべきなのである。自分の志望校に見合ったほどほどの力をつければいい、という考えに甘んじて満足している人間が高校で飛躍することは考えられない。それだけの人間ということである。
そもそも勉強というのは、手加減するとか、手を緩めるとかいう類いのものではない。勉強は徹底してやるか、やらないか、である。やるなら徹底してやらないでどうする。100の力を全部かけなければものにできないのが勉強である。中途半端に勉強して満足する人間が成功するはずもない。
100の力を分散して、習い事、稽古事、スポーツ、旅行、部活等に気前よく力を分散する人たち(通常親子)が、30ほどの力を受検にかけて、結果合格できなかったと嘆く姿をどれほど見てきたことか。こういう人たちは、自分の所業は一切棚に上げて、落ちたの塾の責任みたいなことを言い、なんとも意味不明のことを言う人もいた。日比谷志望なのに中1から1週間の6日をサッカー漬けという人もいたし、小学低学年から続けているバトンを6年まで続けて落ちた人もいた。100の力の大半をそういものにかけて、どうして受かると思うのだろうか。「この子がこれだけは続けてきたのだから大切にしたい」とか、「サッカーに全力に打ち込み、日比谷に進学したい」とか、母親の感情論だけが一人歩きし、落ちたら塾の評価は最悪とする頭の構造は世間の母親の一般の姿なのであろうか。
都立中学、都立高校を受ける、子の親というのは、受験は本当に驚くほどのど素人である。この点、私立中学受験の親たちが、進学塾で見事にもまれて(洗脳されて)、受験というものが、総がかり戦だということが浸透し、常識化しているのとは大きく異なる。私立中学受験の親は、受験はカネがかかることを知っている。またカネをかける気でいる。
これに対して、公立志望の親はもともと受験にカネをかける気持ちなど毛頭ない。だから私立志望の子と違い、塾へと動き出すのも早くて小5の終わり頃が最も多い。もっとも小4から公立対策の大手塾に通わせる熱心な親もいるにはいるが、私立志望の親とは違いそれなりのことをしてやれればという発想である。最初から100の力で戦う意思もない。旅行もするし、習い事や稽古事もやる。いろいろ雑事で子どもを巻き込んで時間を浪費もする。これは避けられない、退っ引きならぬ行事として、つまり、勉強どころではない、勉強などやっている場合ではないものとして、平気で勉強を中断する。
それでも子どもが、特段頭脳明晰であればいいのだが、誰もがそうであるわけもないから、たいていは失敗する流れである。
🎶大手塾に通い、人生を下方修正し、さらに下方修正し、ひたすら底辺へと、漸近線のように、限りなく近づいていく、多くの人
駅前大手塾に通って一年、一部の知能の高い子たちを除き、大半、おそらくは8割超はいると推測される子たちが、一年を棒に振ったことは間違いない。学校でかなりまじめで、向上心もあり、周りからも優等生と思われていた子たちさえも本来つけられるべき学力をつけないままに一年が過ぎ去るはずである。
これは大手にほとんど無批判に、ほとんど信仰に近い心理なのだろうか、子どもを通わせる親たちに共通の事実に違いない。払う代償は大きいはずなのに、そんなことも気づかずに、公立中でも同じ過ちを繰り返す。もっとも小学でしくじった子たちが中学で復活することはない。落ちていくだけである。
竹の会で一年過ごした子たちなら本当に実感するであろう。実際、竹の会で、大手出身の子たちの基礎学力の酷さは言語に絶するものであった。竹の会の子たちはそういう大手の子たちをたびたび目撃してきたわけであるが、自分たちの選択の正しかったこと、その幸運を喜んでいる光景を幾度となく見て来たし、大手から来た子、いや親たちが一人の例外もな「もっと早く来ればよかった」とわたしに悔やむ話ならこれもいつものことである。
竹の会に入るか、迷いに迷い、結局入らないで、大手に行ったという人たちももたくさんいた。竹の会を選択した子たちが確実に学力をつけていく様子を見ていると、あの人たちは竹の会の本当の凄さを、知らないままに、素通りしていったけれど、大手では成功したのだろうか、竹の会にたまにやってくる大手からの子を見ていると、いつもそう思う。
竹の会の指導のことなら今子どもさんを竹の会に通わせている親御さんたちがいちばんよくわかっているのか、と思います。一年経ち、二年経ち、初めてその効果が目に見える形で現れてきて、あるいは入会した途端に目を見張る親御さんが後を絶たないのも竹の会の光景なのかなと思います。