2023.04.19
難関受験者が、いれば竹の会の指導の華は、開花し、来年には、さらに進化した華を咲かせる‼️
竹の会は、受験生が肥やしとなって、その指導の枝から新たな芽を吹き、成長し、伸びて、実を結び、その一年を終えた。翌年に、もし難関受験生という肥やしが撒かれれば、竹の会はまた成長し、枝を成長させ、新たな実を結び、次なる竹の会という幹を一回りも二回りも大きくして、そのDNAを、進化させ、それを受け継いで成長してきた。
竹の会は、受験生が肥やしとなって、生長し、新たなる形質を獲得し、新たな受験生を肥やしとして、進化してきた。竹の会とは、不思議な塾であった。
比喩的に、竹の会という塾を説明してきましたが、竹の会が合格者を生む、合格者を出すのは、そのときの受験生の強い思いをわたしが真摯に受けとめて、「この子は合格させなければならない」とわたしの心の深奥に突き刺ささり、わたしが手を緩めず、いやそれどころか、「手をかけて」きたときです。都合、成功者を出すのは、わたしが「手をかけて」きたからです。「手をかける」とは、日夜その子どもの全体を把握し、その足りないところを鋭く観察して掴み、手当てをしていくことです。手当てのアイデアでまた頭を日夜悩ませ、たいていは朝に閃き、その処方を具体化して、手当てしてゆくのです。いつもその子どもを診て、観て、観察し、少しでも悪い兆候を発見したならば、悩み、日夜悩み、解決してゆく、そういうことをわたしは含めて指導という名で呼んできたのです。
竹の会の指導とは、そういうものでした。だから指導という言葉だけとって、言葉の概念だけから、指導の意味を早計して、竹の会を外部の人がもうなんでもわかったような体で批判するのは、的外れもいいとこです。そもそも人は事実を何も知らないのに、自分の中にあるステレオタイプと置き換えて、批判する。世の中の批判というのは、たいていこのようなものです。受検というのは、落ちて当然の試験です。だから竹の会は、子どもたちが、公立中学に行くことをもっともありうべきこととして、その時に困らないように、基本にこだわり、基本を完全にするまで繰り返してやらせてきたのです。受検という目先のことだけにとらわれて、あなたたちの未来を無駄にしてしまう愚挙を回避してきたのです。
これまで竹の会の落ちた卒業生が中学で成功した話しを耳にして、その時こそわたしはよかったと安堵してきたのです。落ちて恨まれるのが、大手と違う個人塾の宿命です。だからこそ、わたしは密かに公立中学で困らないようにと心を砕いてきたのです。そのことがその時にわかってもらえなくても、いつかわかる時がくる、そう思ってきました。