2021.10.25
高校入試時代の合格請負人
かつてのわたしは自らを合格請負人と自負していた。竹の会が高校入試全盛時代の話しである。いつだったか、平成初期にプロの家庭教師と言う人が、「合格最低点法」なる合格法を本にしていた。その内容が私のやったきたことと余りにも近似していたので驚いた。それでまたそれなりの出版社から本を出せたということも驚きだった。あの当時、本をそれなりの出版社から出すなど考えられなかったからだ。
合格最低点法というのは、できない生徒のための方法だった。
わたしは、竹の会の定番となった過去問合格法を開発した。これはもちろん高校入試のための方法であったが、中学入試にも有効であった。
トップ都立はもちろん平成10年には、早稲田実業高校に渋谷区で唯一の合格者を出した。このときは、日大二高に合格した女子もいた。青山学院高等部には昔から縁があってか、よく合格している。
平成20年には、豊島岡女子学園高校に合格した。
過去問合格法は、大学入試では本質的に使えない。正攻法で行くしかない。私が大学受験した方法がベースになっている。これという参考書を一冊決めて、ひたすらそれをやる方法をとった。英語については、私の研究が進み、5文型思考による英文解析法と私が理解した高校英語文法論を実践した。特に、東大教養学部の英語教科書を使った指導は有益であった。青山学院高等部の女子を3年間指導して、平成14年現役で、慶應大学総合政策と上智大学経済学部に合格させた。その後、平成13年から竹の会から合格の都立西の生徒を3年間指導したが、その生徒が、東大受験。二度受験したが、結局慶應理工に進んだ。彼の東大受験が決して無謀なことではなかったことは、三大模試でいずれも全国順位20番台を取っていることが証明している。
大学受験で思い出深いのは、不登校の生徒を都立鷺沼に合格させ(ちなみに不登校生はオール1になる。彼は本番450点以上取っている)、その後3年間指導して、一浪はしたが、千葉大工学部、東京理科大に合格した。
中学受験では、20年代に慶応湘南に合格した子がいるが、これは大手にも通っていたので、竹の会の合格者としては公表していない。純粋に竹の会から合格した中学と言えば、獨協中学、立教中学、國學院久我山中学、吉祥女子中学、日大二中などが記憶に残っている。過去問合格法で十分対応できた。
私の関心は、天才の指導、都立中受検に移った。天才の指導は、もともとの私のライフワークであった。しかし、天才は竹の会に来ることはない。世の中の親は大手しか信頼していないからだ。
平成17年、正攻法元年
高校入試のためのレジュメ制作開始
平成18年小学生のためのレジュメ試作制作開始
今、思い出すと、毎日がアイデアと新作創作とその実践の日々であった。
本当に毎日のように新作を作っては次の指導で実際に使ってその効果を確かめた。
アイデアは尽きなかった。
今の算数レジュメのほとんどのものはこの頃作られたものだ。
高校入試と違ってと幼い子たちの指導教材はいつも手探りで当たって砕けろみたいなところがあって、何が効果があるのか、見極めるのが大変だった。
小学生指導についてこれほどまでに没頭研究したことはなかった。高校入試のプロも小学生には全くの素人と言うほかなかった。
この格闘は、平成23年頃まで続いた。
平成24年は転機となった。これまでワードで作っていた適性レジュメを思い切って数式ソフトに切りかえた。ワードの便利さはないが、手作業の職人になりきってコツコツとレジュメを仕上げていった。これまでできなかった図、グラフの制作が可能となった。円、多角形、立体、関数のグラフ、とにかくなんでも作れた。ソフトの腕次第で精妙な作図が思い通りにできた。もちろんカラーで色付けも自由だった。その後スキャナーの性能が向上し、ますます完璧な図、写真さえも挿入できるようになった。竹の会はようやく大手の教材独占を打ち破ることができた。24年の試作品は「竹の会入会試験シリーズ」とネーミングされた。入会試験だから何問か作って終わるはずだった。ところが、入会試験の作成が、わたしのこの数式ソフトの技術の訓練になった。私は次から次に試作品という名の下に適性レジュメを制作していった。いつしかその数は100題を越え、200題を越えて行った。ソフトの操作に自信をつけた私は次から次に新アイデアを新作に展開し、さらにはさまざまな名前のシリーズを制作していった。
実は平成17年に開始した高校入試のためのレジュメ化は平成19年にはほぼ完成し、平成20年には、私のレジュメ世代が、豊島岡女子学園、都立西、立教、桐蔭理数などに合格していった。桐蔭理数に進んだ生徒は東大経済に、都立西に進んだ生徒はお茶の水女子大に、それぞれ進学していった。
レジュメによる指導は、決して過去問合格法との訣別を意味しない。レジュメの出典は精選した「過去問」だからである。ただ本来の過去問合格法とは全く違うけど。過去問合格法の詳細については、竹の会の過去ブログをご覧下さい。
平成20年高校入試レジュメ指導体系確立
竹の会には昔から都立志望の生徒が集まった。グループ制時代は、渋谷区は21と22グループに所属し、グループ内のトップ都立は、戸山だった。その後、隣接区の特例ができて、都立西を受けられるようになった。竹の会に日比谷志望者がいないのはそのためである。やがて学区制全廃となり、都内の都立なら住むところに関係なく受けられるようになった。
まあ、しかし、竹の会のような小塾には戸山、青山、新宿、駒場、小山台のような都立をめざす生徒がほとんどだった。
私立難関をめざす生徒は迷いなく大手に集まった。サピックス、早稲アカ、河合塾など。
竹の会が、わたしが、実は、難関校指導の名手だと知る者は誰もいない。平成10年竹の会っ子、鈴木君が、立教新座、早稲田実業普通、早稲田実業商業、慶應高校一次と次々に撃破したのは、竹の会の面目躍如であった。が、だからといって竹の会にやってくる天才は皆無であった。誰も私の真実を知らないから仕方ない。みんな大手に行く。私なら駿台模試全国1番なんか簡単に取れる。開成だって国立だって夢でない。よく○○塾の宣伝には「駿台模試全国○番」なんて載っけてるけど、竹の会なら天才を指導すれば1番を取ると思う。
私をどこまで信頼するか、ただそれだけである。鈴木君は私を完全に信頼していた。難関校志望の小学生や中学生が、わたしの指導を1,2度受けただけで見切りをつけて、大手に行ったことがあった。根っこには竹の会という胡散臭いところよりも信頼できるのは大手という意識が垣間見えた。長らく竹の会にいてもろくすっぽ竹の会の指示にしたがわないで大手に行く中3もいたが、私の真実がわかるほどの器ではなかったというだけのことだ。
わたしの言う通りに、100%実行できるほどの天才なら、模試で都1番、全国1番さえも取ることはそれほど難しくはない。
竹の会が開設したのは、昭和60年10月のこと、その年の12月に東京の有名塾を渡り歩いたというS君がやってきた。彼はその時は、河合塾グリーンコースにいて、東大の家庭教師2名をつけていた。彼は私の指導1日目で、あまりにも感動し、「僕はこれまでいろんな名塾に行きましたが、ここが一番いいです」と爽やかに言ったものである。かれは他の塾、家庭教師もすべてやめて竹の会1本にすると言った。
第一志望青山学院高等部
彼の偏差値は60ほどだったか。
彼の指導は個人指導とした。時間の約束はあったが時間無制限で指導した。
前哨戦の市川高校に合格。第一志望の青山学院に合格。しかし、彼はこっそり開成高校を受けていた。それほどまでに力をつけていたのだ。
あのときからもう30年以上が過ぎた。わたしは難関校の攻略法をわたしなりに積み上げてきた。正攻法による、竹の会流難関校合格法は私の中に厳としてある。確かな自信とともにある。