2020.09.28
◎高校受験、わたしの得意な分野
高校受験はもともとわたしの得意分野であった。昭和60年10月竹の会開設以来わたしは主として中3を相手に高校受験を戦ってきた。断っておくが、中2や中1ではない、中3である。その頃は、高校受験は中3になってから、それまではほとんどの生徒がなんらかの部活に所属して、ほとんどが部活を中心に生活を回していた。もちろんそれでも勉強熱心な生徒はいた。そういう子もテニスをやったり、バドミントンをやったりと部活を節度をもってやっていた。親たちは、「そろそろ中3だから」と中3になる前あたりから塾を探した。節度ある子たちでさえも早くて中2からであった。中1からというのはほとんどいなかった。そういうわけで竹の会には中3ばかりがいた。次いでに言うと、高校受験を終わると今度は高校になっても続けたいという子も出てくる、すると高校生クラスができる、そんな感じだった。飽くまでも中3が軸だったからそういうことになる。
あの当時、中3の4月から指導を始めて都立の入試は2月20日過ぎだから、凡そ10か月余りで、鍛えて仕上げて合格へと導いていたわけである。
子どもたちのニーズは様々でわたしはその様々なニーズに合わせて戦略を練り、合格を勝ち得てきた。たとえオール1でも受かるところを探し、とにかく入れてきた。中には、オール1なのに都立へ行きたい、もちろん経済的理由であったが、そういう子を最低点戦略で、都立玉川などに合格させたりしたこともあった。渋谷区は都立21グループと22グループの時代で、第2学区とされ、その頂点に立つのが戸山であった。まだ、西、日比谷は行きたくても受けられなかった。やがて隣接区にある高校を受けられることとなり、都立西が初めて竹の会でも受験できることとなった。やがてさらに学区制そのものが撤廃されどこの都立でも自由に選べるようになった。こうして都立の序列化が進み、都立高校ピラミッドは完成した。こうした流れは全て都立高校の不振に端を発している。受験競争の弊害が叫ばれ、都立の改悪、つまり弱体化が進むのと並て、私立高校が躍進していった。優秀な子はほとんどが私立に流れ、公立中学には、一握りの秀才たちが残り、その少ない秀才がかつての名門都立をめざすという構図ができあがっていたと思う。
公立中は、9割の成績不振の子たちで埋め尽くされた。残り1割のまじめに勉強する生徒が、比較的楽に、つまり競争もなく、戸山、青山へと合格できた。頑張れば逆転もできた時代であった。
竹の会にも、公立中の凋落の波は押し寄せた。学校で落ちこぼれた、やる気のない、勉強に関心もない、何もしない子たちが親に連れられてやってきた。親たちは勉強に全く無気力な子どもたちに翻弄されていた。やりがいのない指導であった。すぐやめる、長続きしない、約束はまずできない、そういう子たちであった。いつしか竹の会で受験までやれる子は数えるほどしかいなくなった。思い返してみても、例えば平成20年で3人だった。竹の会の合格実績の数がそのままその年にいた受験生の数だった。そうなのである。竹の会は合格率は100%だったのだ。それもそのはずである。勉強をやる気がある子しかいないのだから。平成15年あたりだろうか、記録を見てみないと正確なことはわからないが、とにかくわたしは高校入試の募集を、やめた。それでも高校受験の子がいたのは、小学生からいた子に高校受験の指導をしたというのがほとんどであるが、たまに優秀な生徒が一人来て、高校受験をした、ということもあった。竹の会の高校受験の実績がこの十年を、見ても一人前後というのは、そのためである。しかし、考えてみれば、今の竹の会は東京23区をエリアとしている。23区ならそれなりの粒もいるはずである。さらには、都立独自校の復活も著しい。なら志篤き生徒を指導するのもありかなと最近心境に変化が現れたと思う。一つは都立中高一貫校受検の小学生の劣化がある。これは竹の会に限ったことなのか、最近入会試験に合格する子がほとんどいなくなった。少なくともかつて竹の会の名声が近隣に響いた時代、落ちこぼれたちが集まり、その指導に親たちが喜んだ、という苦い記憶、あの竹の会はわたしの想い描いた竹の会ではない。