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🎵行動 確固として果断 デカルト著「方法序説」🎶無駄な情報が病める頭を作る‼️

2023.07.29

🎵行動 確固として果断 デカルト著「方法序説」
   どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫してしたがうこと‼️

どこかの森のなかで道に迷った旅人
 あちらに行き、こちらに行き、ぐるぐるさまよい歩いてはならないし、まして一ヶ所にとどまってもいけない。いつも同じ方角に向かってできるだけまっすぐ歩き、たとえ最初おそらくただ偶然にこの方角を選ぼうと決めたとしても、たいした理由もなしにその方向を変えてはならない。というのは、このやり方で、望むところへ正確には行き着かなくても、とにかく最後にはどこかへ行き着くだろうし、そのほうが森の中にいるよりはたぶんましだろうからだ。
 どれがもっとも真なる意見か見分ける能力がわれわれにないときは、もっとも蓋然性の高い意見に従うべきだということ‼️
しかも、われわれがどの意見にいっそう高い蓋然性を認めるべきかわからないときも、どれかに決め、一度決めたあとはその意見を、実践に関わるかぎり、もはや疑わしいものとしてではなく、きわめて真実度の高い確かなものとしてみなさなければならない。われわれにそれを決めさせた理由がそうであるからだ。
 あの弱く動かされやすい精神の持ち主、すなわち、良いと思って無定見にやってしまったことを後になって悪かったとする人たちの、良心をいつもかき乱す後悔と良心の不安のすべてから、解放してくれるから。
 
 わたしたちは、究極の判断を迫られることがある。
 どの意見が本当に正しいのか、わからない。そういうことは度々あることではないが、確かにある。
 新型コロナワクチンの接種については、政府は打て打て❗️と言うけれど、彼らの狼狽振りと無知振りは目を覆うばかりであった。首相、知事が自らワクチンを打っているところをテレビで放映して国民を安心させようとパーフォマンスした。しかし、愚かな行政の飾りに過ぎないトップが、いくらパフォーマンスしても、わたしには、不信感が募るばかりであった。ワクチンに関する文献は、もう50冊はゆうに超えるほど読んできた。ワクチン推進派にはさしたる説明、理由付け、根拠は何も示されることはなかった。これに対して、ワクチン反対派は、様々な論文、報告書、事実の提示がなされてきた。極め付けは、血栓症が現実に報告され、実際に死者も出ていたことであった。これを「たまたま」不運と片付けるには、その数があまりにも多いし、京都大学准教授の宮沢孝幸の警告書は正当な指摘のように思われた。アメリカでは、今、輸血に際して、ワクチン未接種者の血液が求められているのだ、ということが、日本では、一切報じられないことは誠に奇異なことである。すでに政府に身売りした朝日はもはや事実を取材して報道するというジャーナリズムの枠から遠く外れて、久しい。もちろん政府の御用新聞である読売などには最初から信義などない。新聞は、その本来の使命を捨てて、広告収入、特に、政府広報による収入で喰っているただの一企業に過ぎないのだ。そのことを決して忘れてはならない。テレビも新聞もやがて消える運命にある。
 

🎶無駄な情報が病める頭を作る‼️
 

 人はみな一家言あると思っている。ほとんどの人は自分を独創的で、個性的な人間だと思っている。
 人はみな自分が特別で他人にはわからない自分があると信じている。
 果たしてそうであろうか。
 いや、正確には、人は、自分が、相当に特殊な人間なのに、自分だけは「極めて常識的、普通の人間だと思っている」のではないか。そして、他人を「かなり変わった人間、特殊な人間」と見ている。それが大多数の凡人の思想風景なのではないか、と思う。
 となると、わたしたちが、「変わってる」、「特殊な」、「特別な」人間と見ている、当のその人たちは、実はごく普通の人たちなのではないか。わたしたちは、自分が普通と思うには、あまりにも、ありとあらゆるバイアスに侵されてきた。自分からバイアスを引き算すれば、それができれば、わたしたちは最も普通の判断ができるのであろう。しかし、現実には、それは不即不離、つまり、私たちは、バイアスという、ある意味のウィルスからの感染からは逃れることはできないのではないか。バイアスの極端なものは、宗教による洗脳であろうか。信仰、教え、教義から生命さえ奪われるほどのバイアス世界である。政治による洗脳、属する集団による洗脳、テレビ・CMによる洗脳、権威ある大学・研究機関・有名大学の教授による洗脳、自分が偉いと信じて疑わない医師・弁護士による洗脳、いったい、わたしたちは、バイアスで混沌とした社会の中にどうすれば普通の自分を維持できるのであろうか。
 まず情報を断つこと、情報こそがバイアスなのであるから。
 政府は人民を騙す。嘘の情報を流すのが政府の仕事なのであるから。
 法律、政策は、建前という嘘を流して国民を騙すの如しである。
 わたしたちは、嘘の情報の河に溺れ流される賢くない人である。
 テレビで建前論、ベキ論を得意げに、時には憂いを仄めかして結局はわたしが一番いいこと言ってるでしょ、と言わんばかりに話しを結ぶコメンテーター、どうせどこからかパクってきた、他人の意見なのでしょうが、こういう番組しか流さないテレビは要らない。いずれテレビは失くなる。無駄、不要、そんなどうでもいい情報を垂れ流すテレビに明日などあるはずがない。
 わたしたちは、情報に依存し、嘘、偽に翻弄されてきた。新型コロナで政府の無策振りはただただ呆れるばかりであった。わたしたちはこんな程度の人たちを信用して政治的決定を委託して来たのか。
 優秀とされる官僚、東大などを出て学力優秀とされてきた人たちの誰一人として、まともな判断ができなかったのだ。
 考えて見れば、学歴というのは、既存の答えのあるテストで、つまり予め答えがある試験で答えを出せる人を優秀として選んできたのである。こういう人が、答えのない、見たことのなた問題に対応できない、ことはわかっていたことではないか。こういう人たちは、問題が起きれば、過去の似た事例を探して似た解決をしてきたのだ。答えを見つけられるのは、予め答えのある問題だけなのだ。
 この点は、大学に籍を置く教授、准教授、専門病院に籍を置く医師、テレビでコメントを求められる弁護士も同じで、まさにこういう連中が、ただの烏合の衆であったことを曝け出したのが、新型コロナという試験紙であった。ただの素人であった。政府のワクチン政策に無批判に片棒を担いだ御用医者、御用知名人の罪は、無知な大衆を誤判断に誘導したということで取り返しのつかない事態に陥らせた。今は、ワクチンのその後の検証を回避し、ひたすらほじくらないという政府得意の臭い物に蓋をする政策を知らんぷりして進めるだけである。
アメリカでは、輸血の際に、ワクチンを打ってない血液が価値がある、とされているのは何を示唆しているのか。もちろん日本のメディアがこういう事実を報じることはない。日本のメディアは国民に真実を知らせない、いや隠すのが本来の仕事と成り果てたのだから。
 テレビが正義を気取るのは見ていて、そのうち消えて失くなることを虚しくも白状しているかに見える。そういえば、写真週刊誌が他人の私生活を暴いて、正義の名においてみたいな正当化をしていたことがあるが、芸能人、有名人は私生活を正義の名において暴かれても仕方ないという論理は、何とも鼻持ちならない口吻であった。そもそもお前が正義を語るのか、その言うところの正義とはいったい何なのか、いったいあんたは何様なのか、とこの世の中の鼻持ちならない人種の蔓延ることが罷り通る世の中の何とも恐ろしさを感じたものである。
 大山鳴動して鼠一匹、ということなのか。
 デカルトの言葉は現実にはそのまま実践できない。
 新型コロナワクチンには、賛否両論あったけれど、大多数は政府に先導されて、我を競ってワクチンに駆けつけた。ワクチンの害はもう古くから言われてきたことである。それでも国家的な主導のもとに国民に奨励されてきた。開業医が儲かるだけというのに。科学的には効くわけはないのに、洗脳された人々がワクチンを射ってきた。インフルエンザワクチンによる死亡者は、年間一万人ほど出ても、コロナのようには人々は騒がない。恐れない。不思議な話しである。
 ワクチン政策で失敗した政府はそのツケ、マイナスを国民に転嫁するための、悪だくみを早速弄し始めた。これまで出したカネの回収に入ったのだ。
 既存の法律に様々な名目で、悪条文を付け足して、まさに国民ではなく人民であり、搾取の対象としてのそれである。
 IQの低い、国民の圧倒的多数を占めるB層を騙せばいいのだから、こんな楽なことはない。ちなみに、B層は、「大学出ましたけど」、頭の硬い、要はIQの低い,雰囲気で物事を決める人たちである。空気を読むというが,これは周りの空気に従う,雰囲気に従うということであり、自分の意見など端からない。

🎶網羅的に知識を囲む勉強は「推理」の入り込む余地がない!

 推理を働かせるための勉強という視点から知識を考えるとき、知識は推理の延長線上にある。如何に効果的に推理を働かせるか、そういう視点から、教科を眺めると、風景は全く違って見える。あの完全主義・網羅主義に纏わりつく、忌まわしい、知識漏れに恐れ慄くこともない。普段の勉強は、如何に効果的に推理を働かせられるかという基準から教科を読み、チェックすればいいだけなのだ。わからないときは、推理でしのぐという、強い意志が垣間見える。知識完全主義、網羅主義は、知識の欠落そのものが重大事であり、常に完璧を期して知識の修得に余念なきが求められる。決定的な欠陥は、知識を追うことに意識が追いやられ、思考、推理の働くことが一切ないことだ。だから問題を解くとき、頭は覚えている知識を想い出すことに占められる。問題から取っ掛かりを見つけ、そこから「合理性」「論理性」を手段として、答えを推理するという頭の作用を一切放棄するところに最大の欠陥がある。
 理想は、「ない」ことだ。不足することだ❗️ 欠乏することだ❗️
人間は、「ない」から考えるのだ。工夫するのだ。
知恵というのは、「ない」から必要になるのだ。「欠乏は知恵の母だ❗️」
網羅主義は、欠乏を無くす運動であり、それはとりも直さず知恵の否定である。
さて、ここで、わたしは、これから執筆に取り掛かる高校入試 社会ポイント集の執筆方針に自ら一つの確信を付与したことになる。
 わたしは、自分の著書について、
⚪︎決して網羅的であることを目指さないであろう。
⚪︎わたしは、問題を解くとき、「わからない」、少なくとも迷う、という場面を想定して、そういう場面に如何に対処するのかを執筆の核とするであろう。問題を読んだとき、多くの受験生が「迷う」、そういう状況設定をしてそのときどう推理するか、わたしはそこのところを書くことこそが新たに本を書く意味である、と考えている。
⚪︎知識を追うな❗️

 知識を追えば必ず知恵のない人間になる。世の中の知ったか満載の専門家然とした連中が、知識を披露するだけで、そこに1ミリも学ぶべき知恵を感じられないのは、なんとも嘆かわしい話しである。
 知識というのは、使い捨てである。弁護士、医師は知識を披露するけれども、彼らに学ぶべき知恵はない。テレビは、彼らが人間万能の識者とでも考えたのであろうか。人生相談、世情談義、国際問題についての意見、事件の解説、何でも求めたがる。テレビそのものがバカであり,そのバカに満面笑みで答える専門家はもちろんバカである。わたしたちは、こんな奴の解説、意見など1ミリも聴きたくないし、それでお茶を濁して、垂れ流し、使い捨てで終わる知識などばら撒かないでほしい。
 大切なこと、それは、「欠乏」である。「」である。欠缺(けんけつ)こそ知恵が動き出すエネルギーである。
 勉強の極意とは何か。

 それは欠缺を前提として、推理で乗り切る姿勢である。決して完全・網羅を追い求め、迷路に入ってはならない。わたしたち人間が本来不完全な存在であることを忘れてはならない。不完全な人間がどうして完全を追求できようか。自己の不完全なることを認め、謙虚に学ぶ姿勢、欠缺に対して推理で蓋然性で立ち向かうことそれが不完全な人間のなし得る最善の策である。

 

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