2024.08.01
🔛成績の構造
教育にカネをかけない、かけられない家庭が、都立へ行く構造は、2000年前後のリアルであった。中学受験、難関高校受験をするのは、少数の恵まれた家庭に限られた。勉強ができてまじめな優等生は、たいていは都立駒場や新宿、青山を受験した。教育にカネをかけられない家庭の子たちが、公立中学に集まった時代であった。その中でも少数の出来のよい、いわゆる優等生タイプが、都立駒場、新宿を基準として、その上の青山、戸山、その下の都立大附属、広尾、目黒を受けた。
できない子たちは、22グループの松原、千歳、千歳ヶ丘、深沢などの都立に行くか、単願で聞いたこともない私立に流れた。そういう時代であった。
都立西はグループ外で受験は不可能であった。
この時代の竹の会の指導は、過去問合格法と名付けた方法に拠った。首都圏の100以上の高校の過去問を利用して、次第に偏差値の高い高校の過去問に持っていく方法である。一つの高校は過去7年分を使った。しかし、慶應なら過去30年分と高校によってまた違った。わたしは、ほとんどの高校の過去問が頭に入っていたから、適宜最適の高校の過去問を使った。だから竹の会には、首都圏のほとんどの高校の過去問が資料として蓄積していた。これは中学受験も、変わらない。過去問合格法は竹の会の定番の指導法であった。
高校受験のためのレジュメ制作を始めたのは、平成17年、これは19年に完成した。平成20年前後から小学生のためのレジュメの試作を始めた。試行錯誤によるレジュメ制作は平成23年まで続いた。ワードと数式ソフト、どちらかというとワードだった。ただし、高校受験レジュメは全て数式ソフトで制作した。これで数式ソフトの腕を相当レベルアップさせた。都立中学のための本格的な適性レジュメの制作は平成24年からだった。算数については、20年から23年の間に、今の算数レジュメの原型のほとんどを書いている。過去問合格法からレジュメ指導への移行が竹の会の最大変革であった。24年最初は入会試験の制作のつもりで、書いた適性レジュメは、「入会試験シリーズ」として、200枚ほど書いた。その後、「合格答案への道」、「算数をクリアーにする」シリーズと次々に作品を発表してきた。あの頃は、微細な図、カラフルな図をパソコンで描くことに注力した。解説は、まず自分で解いてから、解説を構成、精緻な図を駆使して、的を射た解説にこだわった。
作文レジュメは、問題と解説に分けて、必ず自分の作文例を示した。採点基準は、「問いにどれだけ正確に答えているか」である。これしかない。問いが「体験を具体的に」求めているときは、その体験が、本文の主旨に即したものであること、あとは、具体性である。子どもたちには、この具体的という意味がわかっていない。また、本文の読み取りができていないから、的外れの解答を書く。
要するに、この人は、何が言いたいのか、その言いたいことを的確に掴むことさえできれば書けるのだ。
浅い読み取りの原因
語彙力の欠如
語彙を繋いでできる、新しい関係的意味、これがあなたたちが、読み取らなければならない正体である。
一文、一文は、接続されて、新たな意味を作る。私たちが、読み取らなければならないのは、「関係的意味」である。だから読解とは、「関係」、「関係と関係」の関係の理解である。
だから本文を読むときは、さてどんな関係が提示されているのか、そういうところに気を配らなければならない。一つの文は、必ず他の一文に「文意」を伝達している。突如として何を言っているのか、抽象語が織り込まれる、そういうときは、必ず直前の文意を引き継でいること、後に続く文に説明があること、その説明の中に、受け継がれてきた、引き継いできた文意がかならずあること、に留意しなければならない。わたしたちは、その文意(筆者の価値観)を追い続けること、これである。読解とは、文章に体言された文意を追い求めること、文意の受け継がれ方は、関係で繋がれるということである。私たちは、常に関係を、つまりどう関係づけられたかを読み取り、文意がどう受け継がれていったかを、つまり、文意の再認識、再確認をしながら、読み進めるのである。文と文は、関係づけられている。接続助詞、接続詞は、その繋がれ方を教えてくれる。順接と逆接が繋ぎの典型である。順接は、「したがって」で繋ぐもので、前の文章が後に続く文章の前提になっている形である。逆接は、「しかし」が代表である。「しかし」と言うからには、「しかし」の後には、筆者の本音を表す文章がくる。筆者が批判している文は、筆者の考えは、批判的論理の中にあることになる。
繰り返すが、読解するとは、文章の中から意味のある関係を読み取ることである。一文一文が、筆者の本音を直截に顕すことはなく、比喩、例示、引用などによって、ぼかされる。わたしたちは、筆者がなぜそのようなことを言うのか、考えて見なければならない。そのような主張をする、やむに止まれぬ所以を考えるのである。読解で考えるというのは、ここである。
想像力こそ学問のバネ
想像力を働かせて欲しい。文字を文字のままに理解して終わらせてはならない。文字からいろいろと想像できるはずである。なぜそう言えるのか、なぜそういうことになったのか、想像を働かせて欲しい。
なぜ? 言葉ひとつひとつに「なぜなの」である。そのなぜが「なるほど」になるには、想像力をはたらかせるしかない。考えるとは想像力をはたらかせることである。