2024.03.05
🔛高校受験と竹の会
竹の会は、首都圏の高校入試とともに歩んで来た。地元密着型の塾であった。近くの代々木中学、上原中学がテリトリーだった。竹の会が、昭和60年10月に誕生してから、都立高校は、数度の制度変更を重ね、今のような入試形態に落ち着いた。平成十年代は、都立の凋落が、世間で叫ばれ、改革の一環として、平成18年には、公立中高一貫校制度がスタートした。公立中学では、増える学習不振児が問題とされた。都立高校改革も進められ進学指導重点校制度など都立の見直し作業が進められた。竹の会は、このような状況に、高校受験の募集を止め、公立中高一貫校の指導にシフトした。高校入試は、小学から通う1、2名に限られた。都立中高一貫校志望の小学生が、不合格となり、そのまま高校入試をめざす、そこで竹の会に残る、そういうパターンで高校入試をやる機会があった。竹の会で基礎を作った子たち、1名、2名、高校受験をめざすこととなり、竹の会にも高校入試の子たちが久しぶりに戻ってきた。わたしはもともと高校入試の指導が得意であったから、素直に喜んだ。竹の会の高校入試の体系は、すでに平成20年の都立西、豊島岡学園の合格をもって完成していた。平成20年以降高校入試の生徒は細々ながらいたりいなかったりで、わたしには一人二人に指導を集中できてよかった。二十年代は、都立中高一貫校対策の研究に没頭した時代であり、こちらは相手が小学生ということで、まだ主体性、勉強習慣、スタンスのない未熟ない年齢ゆえの指導の難しさが試練であった。都立中高一貫校対策の研究には試行錯誤を重ねてようやく今のような確固たる指導体系が完成するに至った。
猫も杓子も受検というのは、やはり無理がある。「受検したい」とやってくる親子、入会試験に合格するほどの子は、滅多に来なかった。入会試験0点という子も来た。8倍という都立中の試験に、入会試験0点では最初から無理であった。昔なら学習障害児というレベルの指導困難という子たちが、力をつけて受検というのは、無理であった。入会試験はほぼ満点でなければ、都立中に合格することは難しい。
大手のenaや栄光ゼミナール、Z会などに一年、二年といた子が、竹の会に小5の終わり、小6の初めにやって来ることがあった。そういう子たちは、例外なく、計算未熟、割合はほとんどだめ、という子ばかりであった。
竹の会にいたら、少なくともこんなことにはならなかったのに、とよく思った。
中学受験で、大手に行く子たち、その大半が、思考欠落、思考不全のままに、公立中に吸い込まれていく。中学受験ということで、本来じっくりと培うべき基本的なものをほとんどすっ飛ばして受験対策という名の無駄ばかりやらされてきた子たちである。わからないものをやらされるから、それは丸暗記しろ、ということなのだろう。過去問は特に、そのためだけに使われる。こういう過去問の使い方は最悪なのに、そういう塾ばかりなのは、実は他にやりようがないからだ。まさか過去問と同じ問題が出ると思っているのだろうか。どうもそのようだ。塾はほかにやりようがないから過去問でもやるかなということなのだろうが、子どもは同じが出ると信じてやっている。同じ問題が出ないのはわかりきっている。だから本番の後必ず「今年は新傾向だった」と言う。判で押したように同じことを言う。同じ問題でなかったら新傾向、新傾向だから対策していないのでできない、こういう論理である。そうではあるまい。肝腎の思考力をつけてこなかったからであろう。
塾は、何がなんでも基本だけはしっかりとつけてやらなければならない。わたしは、竹の会は、そのことを優先させてきた。親は不満だったかもしれない。しかし、基本もできない子にどうやって受験対応の知識を理解させられるのか。わたしにはわからないし、できない。そういうレベルの子は受験なんて考えないほうがいいのだ。親たちは自分の子の能力も考えないで、受験受検と、迷うところがない。私には何を考えているのか、さっぱりわからない。
大手に限らない。とにかく塾に行ってたんだろ❗️ なのにこのありさまは、どう説明をつけたらいいのか。
いやいや、塾だけを責められまい。親の責任もある。
巷の塾では、対応できないだろう。もともと学習障害児は塾でなんとかなるという話しではない。巷の塾には、入会試験で排除しない限り、有象無象の子どもが集まってくる。生活のためには、そういう類いも入塾させるしかない。つまり、やっても無駄なことも、もっともらしいことを言ってカネを取るのが、巷の塾と思っていた方がちょうどいい。教えれば伸びる、そういう子ばかりが来るわけではない。生活がかかっている巷の塾を責められない。
ただ大手が、基本も欠落したままの子どもたちに、親子の誤解のままに、受験コースと称して集金するシステムをやる限り、基本的な思考欠落人間は量産され続ける。過去問に毒され、過去問の解き方を覚えるだけ、これを一年も続けたら、本来の思考回路はすっぽり抜かれて、結局、失敗することは予定の範囲内なのが大手なのだから、そのまま公立に行くとなると、あまりにも無責任ではないか。貢がせるだけ貢がせて後は知ったことではない、というのが、大手なのではないか。
塾の良心として、竹の会は過去指導不能には退塾を勧めてきたが、良心に従えば、恨みを買う、のだということを学習した。退塾させるとろくなことはない。それなら受検は無理だが、基礎だけは修得させようと頑張ってきたが、それさえも怪しいほどに、学習「障害」が立ちはだかる。
成績が上がる見込みなどないのに、もっともらしいことを言って、熱心さ、親身さを前面に出して、繋ぎ止める、巷の塾とは、そういうところだ。そういう限界児については、本来指導などできないのに、巷の塾や大手塾は商売にさえなれば、あるいは生活のために、受け入れるシステムを作りあげ、熱心さ、真摯さでなんとかごまかす。
わたしは、本人には、受験は無理だ、将来のために基礎だけはしっかり身につけなさい、と事あるごとに話してきた。親の目安として、入会試験0点か、それに近い点数なら、半年とか、一年を退塾の目安とされてはどうであろうか。
わたしは、中学受験、受検という世間の時流に流され、我が子を結局どうにもならないまでにしてしまう、大手塾、巷塾、親の浅はかな判断を彼岸から眺めてきたけれど(自分には関係ない問題として)、竹の会だけは良心を貫いてきた。竹の会を訝り、逡巡してきた人も多いが、一度竹の会に入れば、竹の会の真実を知る。そしてもっと早くに来たかった、と言う人も多い。しかし、それは無理な話しで、それまでは竹の会など眼中になく、大手しか頭になかったし、竹の会が耳に入っても訝り怪しんできた人たちなのだから。
竹の会を誤解する人もいる、しかし、竹の会も塾であるから、おカネはかかる。そもそもが教育投資とは莫大なカネのかかるものである。竹の会なら安くて受かるなどと思っていると、落ちて文句を言うことにもなる。最低の費用でできるだけカネをかけなくて合格したいということで竹の会を利用するのは誤解です。受験にカネのかかることは私立受験の親なら当然弁えていることである。しかし、都立一辺倒の親には理解できない世界である。昨今の都立中は私立受験者の併願校化によりもはやカネのない人がカネをかけないで行くところではなくなっている。
わたしは塾というものをもっと冷静に見てほしいと思っている。塾はうそをつく。言葉というものはそもそもうそをつくためにある。だから親は何が大切なことなのかを判断しなければならないのだ。大手というブランド=信頼できるという図式そのものが嘘の図式なのである。
本物の塾、そういうものが本当にあるのか、見つけられたらラッキーである。ただわたしはかなりに懐疑的である。できる子、カネのある家庭しか教えられないと巷の塾や大手塾が正直に言えばたちまち潰れるでしょうから、塾はうそをつくしかないのだ。