2024.11.19
🟧完全網羅性は不可能
大阪紡績 令和5年の都立社会にこれが出た。といっても名称ではなく地図上の位置(選択肢の一つ、年代順を問う問題の変化形)を問うもの。さて、これは教科書の本文にはなく、写真の説明にある。高校受験用の大手塾、市販の教材には、一切触れていない。もっともこれを知らなくても他の肢との対比から解けなくもない。社会というのは、理科と違って、必ずそういう問題が出されるので、満点を取るのは無理だ。だから大阪紡績が載ってなくてもその参考書がダメなわけではもちろんない。ただ、教科書には載っていたこと、大阪紡績を知らなくても何かの、手がかり的知識は載っていなければ使えないことは間違いない。
こういう事例は、さまざまな試験ではよくあることである。耳慣れない、聞いたことのない言葉が出て、それが問題のキィーになっているとしたら、知らないことは、致命的である。
その致命的な状況をどう切り抜けるか。ほとんどの受験生が知らないとしたら。ただ、結論はわかる。どちらかに分かれる。前提となる仮定もわかる。ただ、過程に未知の言葉が使われているのだ。その言葉の定義で、結論が決まる。こういうとき、どちらかの結論を選択するしかない。このとき、現状維持か、現状の逆転か、どちらか。もちろん定義によって決まる。これまでの経験は、現状の逆転だった。つまり、ドラマになる方だった。ドラマが生まれる方だった。考えてみれば、問題は、難しい試験ほど、ドラマを求めている、と言えるのではないか。推理もときには賭けであるが、ドラマになる展開を選ぶことは、当然なのかとしれない。
してみると、ここで読解の方法が、一つ見えてくるのではないか。国語の文章、論説文は当然として、小説も、ドラマになる主張をしている。ドラマとは、何かのトラヴルを巡るストーリー、トラヴルを核とする物語、いやストーリーである。
論説文は、何かのトラヴルに関する議論である。なぜそのようなトラヴルが生起してくるのか、ここで事実の認識の一致が見られない場合、まずここで議論が分かれる。次に、トラヴルに関する価値認識の相違から議論が分かれる。そこでそれぞれがその根拠を挙げる。反論はそれぞれの根拠に対してなされるであろう。わたしたちは、文章を読むときは、まず事実を正確に、素直に、つまり、偏りなく読み取らなければならない。そのとき、私たちは、ここでのトラヴルは何かをつかみ、このトラヴルについて、文章が展開するであろうことを、予測しなければならない。後は、展開を追うだけである。常にトラヴルに対する考えがどのように変化していくのかを追わなければならない。
読解については、トラヴルが何か、そのトラヴルを巡って話しがどう展開さているのか、とにかくトラヴルを軸に追って行くことだ。
完全性を基準にすると、どんなに詳しく網羅されたテキストも、たった一つの知識がないために、途端にゴミとなる。
それならば、最初から不完全を前提として、足りないところは、如何に既存の知識から推測するか、という勉強をしていた方がいい。載っていない知識を推理する、そういう読み方を普段からしておくのだ。
100点取らなければならないのではなく、結果として、100点取れた、という取り方がいい。なければならないは、とかく肩が凝っていけない。なければならないは、思考に負荷をかける。
力の一番いい出し方は、落ちてもともとという心境だろう。試験というのは、ある何かの発見で一気にかたがつくものである。この何かの発見には、「なければならない」という心の持ち様は完全にマイナスである。落ちてもともと、これは心を軽くさせる。そうなのだ、発見しやすいのは、心が軽いときなのだ。
さて、こうして試験で実力を発揮するには、心を軽くすることだとわかる。俗に上がるというのは、ガチガチの緊張した心の状態のことで、思考はできる状態にはない。
心を軽くするには、自分の心をコントロールすることである。どうしても受かりたい、ではなく、落ちてもともとぐらいの立ち位置がちょうどい。言い換えれば、受かってもともとではない。
だから工夫する気持ちがムクムクと湧き起こる。落ちてもともとだから、なんとかしようと工夫するのだ。受かって当然なら工夫の場面はない。
根拠のない自信を自惚れという。自惚れは、工夫とは無縁であり、できて当然であり、できなければ問題がおかしいと言いかねない。自惚れは努力しない。現状のままである。したがって自惚れは進歩しない。自信と自惚れは紙一重。自信は得てして思わぬ失敗の前兆である。自信は往々にして油断を招く。思わぬ落とし穴があるのが、試験の常である。微かな自信がいい。
不安の効用
不安は危険を回避する、人間に本来備わった防御本能の表れである。しかし、あたかも自己免疫疾患に似て、不安の増大は、不安が心を支配する、自己不安疾患を起こし、正常な思考を追放し、不安から生起した偏見思考、マイナー思考が闊歩する。あるいは思考停止を結果する。不安は本来リスク回避のための神の授けてくれた能力であったはずなのに、不安が正常な判断を妨げる。
不安が高じると取り越し苦労、気苦労に取り憑かれる。物事を悪い方に取る癖,マイナーな方を選ぶ癖,総じてマイナス思考が支配する。だから読解問題を解くとき、選択肢問題で、不安が邪魔をして、もっともありそうにない肢を選ぶ。不安が選ばせるのだ。読み取り過程においても、不安が邪魔をする。判断するも自信がないままに読むのは意味がない。一文ごとに決定が求められている。読解とは正しい決定の連鎖にほかならない。
さてこれは由々しき事態だ。不安が、正常な読み取り、判断を歪めるのだから。本来、不安は自分を守るリスク回避のための,神が与えた能力とも言えるものであった。ところが人間の生存不安は極度に心配性という病にまで高じた。心配性は病気である。不安のもたらす害は日常の生活全体に及び,詐欺にひっかかるのも心配性が根にある。読解に際しては,まず不安を払拭し,偏見のない,既成の洗脳観念に縛られない,自由な読み取り・決定が大切である。雑念は判断を歪める。伝聞は客観的証拠がなければそれだけで信じてはならない。普段から論理だけで判断できるよう心がける。常に偏見を疑う必要があめこともちろんである。