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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

🟧習い事・稽古事、部活(吹奏楽・バレーボール等)、野球・サッカー等のスポーツ(総じて勉強妨害事由)をやりながら受験・受検をやったのなら落ちても仕方ない❗️潔く諦めて欲しいものだ❗️

2024.11.12

🟧習い事・稽古事、部活(吹奏楽・バレーボール等)、野球・サッカー等のスポーツ(総じて勉強妨害事由)をやりながら受験・受検をやったのなら落ちても仕方ない❗️潔く諦めて欲しいものだ❗️

 こういう人たちの大きな勘違いは、受験で必要とされる知識量、それに伴う時間の量は、平時毎日5時間やったとしてもとても終われない量だということである。この5時間には、学校の授業を理解するための勉強、宿題などを含まない。トップ都立、難関校なら普通にやっていてはとても間に合わないということである。この意味から季節講習の果たす役割はとてつもなく大きい。毎日夢中で勉強だけに頑張っても間に合わない量だ。ここから考えても先の勉強妨害事由を同時に抱えることの無謀さは自明過ぎることではないか。
 私には自ら自分の夢の足を引っ張る人の心情がとても理解できるものではない。
 これは、よく小5の終わりに入会したのに「まだ入会したばかりで慣れないから」とか、「まだ小4だから」とか、言って、季節講習をスキップする理由にしたりする場合に使われる。しかし、「まだ」の論理は親の嘘であり、いったい何に慣れるのか、何が早いのか、わたしには、さっぱりわからない。
 私の経験では、小2から指導できる子は指導するにこしたことはない。小2というか、小3、小4でも集中力とは無縁の子もいるのであり、勉強に関心を持てない、情緒不安定な子も多数見て来たから、すべての小2が指導できるとはとても思わない。
 ただもし私の指導が受けられるのなら、それはかなり幸運な子ということができる。それはわたしの指導が、名人の域にたっしていると思うからである。
 私は最初は何の迷いもなく「わかりやすく教える」から始めた。わたしの教えた子たちは、優等生ばかりではない。代々木中で学年180人中180番というような子や、自閉症の子、中学の不良(中にはスケバンみたいなものもいた)、かと思えば、筑駒中学の生徒というのもいた。あるいは区立中学の1番(これは何人もいた)。区立の1番が多かったのは、中1から教えていたら1番になったというのが1番多かった。類は友を呼ぶで、学年のトップグラスの子たちが自然あつまってあきた。とにかくいろんな子を教えてきた。教えるということの難しさを知らしめられてきた。わたしはどうすれば子どもたちを救えるのか、そのことばかりを追求していたと思う。いつしか「教える」ではなく、「指導する」という域に到達した。「わからない」というとき、そのわからない問題を教えるのではなく、わかるためのより基礎的な問題を通して思考を積み上げて、改めて考えさせた。その上で、それまでの知識から、その難問とされる問題が、基本の、知識の亜型に過ぎないことを示した。わたしのかのようなやり方は迂遠な方法かもしれないが、実際には、多数の事例をこなしてきて、手際よく進められ、子どもたちは「わかる」段階をステージアップしていった。
 わたしは、自分の指導体験をレジュメに再現した。わたしのレジュメは思考過程を図を駆使しながら、示したものであり、思考指導を受けた者にはこれほどわかりやすいものはないと思われる。実際子どもたちは私のレジュメを読んだだけで理解していった。ただし、ここまでくると、上級者と言えた。
 わからないという子どもたちを直接指導するのは、経験をようすることである。子どもたちの「わからない」というじれを何百、何千と経験することを積み重ねて、わたしはいろンな教え方の技術を体得していったと思う。その子の理解の段階を考えて、使える概念、使えない概念を峻別し、使える知識をなんとか工夫して、わかりやすい形にして、子どもたちに示した。教えるというのは、工夫であり、指導とは、夥しい工夫を適宜取り出せることとも言える。
 繰り返すが、今の私の指導を受けられるのはかなり幸運なことと思う。それは指導とは何かを追求してきた私の今に出会えたからである。
 東大生は、天才しか教えられない。それは彼らが、わからない、を経験したことがないからだ。世の中には十人中八人が「わかる」ことを「わからない」という子たちが、たくさんいて低層の能力集団を形成しているのだ。公立小というのは、そういう子たちが8割いるところだ。「よくできる」が5割に満たない子達が圧倒的に多いのが公立小なのだ。わたしはこういう子たちのどれだけが救えるのか、そういう研究と実践をしてきたのだ。東大生は子どもたちが、当たり前のことをなぜわからないのか、わからない。頭が悪いからだと終わらせる。しかし、本当に頭が悪い子よりも、境界児童が多数いるのだ。境界児童は地道に長い時間をかけて当たり前のことを教えていく。この積み重ねが普通の子にしていくのだ。ただ親がこれで不満なことはよく知っている。しかし、それは欲張りというものだ。自分の子の限界を知り、普通並みになれば、ということもあるのだ。わたしはできないことをできるなどと言ってきたことは一切ない。できないものはできないのだ。過去できないからと入会を断った事例なら腐るほどあった。私は自分の信条に合わなければすべて断る。それは現会員でも変わらない。
 指導40年の経験は、
 教える、指導するということの達人に近いという感覚、自負は持っています。
 私の指導にしたがえば
成績は上がるだろうし、受験・受検も成功する蓋然性は高い、と思います。
 今の私は、最高水準の指導技術を自在に駆使していると思います。
 忠告すべきは、自己の判断を持ち込む人は失敗する、ということです。

 

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