2024.11.11
🟩冬季の申込がない場合の退塾について
竹の会では冬季の申込がない場合、退塾とする扱いです。
その趣旨につきましては、再三このブログでも取り上げてまいりました通りですが,今回未申込者がいますので再度その理由を述べておきたいと思います。
季節講習が、通常指導の前提になっている、ということに尽きるかと思います。この点は、大手のポリシーとは違うところかもしれませんが、大手にしても季節講習の重要性は変わらないと思います。竹の会の場合は、季節講習で先取り、前倒しの指導を可能にするという狙いがあります。そこには、学校の授業進度の遥か彼方に進めるということ、いや高校受験なら中2の夏までに一応のところまで仕上げるという狙いがあることはもちろんです。この季節講習に出ないということは、このような竹の会の指導の外にあるということです。竹の会の指導は成り立たないことを意味します。
出ない理由は、それぞれにそれなりの事情があるのかと思いますが、竹の会の指導ができないという一点、つまり塾の責任が果たせないという一点は、変わりません。特に、経済的理由の場合は、季節講習に通えないのは、そもそも塾に通うことが無理なのかと思います。
繰り返しますが、季節講習は、通常指導の「おまけ」ではありません。おまけというのは、通常指導だけでも十分との認識に立ちますが、通常指導だけで受験に成功することはあり得ません。このおまけ感覚が講習をスキップすることに抵抗感がまるでないことの証明になるのかなとも思います。しかし、それは完全なる誤解・誤感覚です。
🟧貴方たちが考えているようには時間はない❗️
受験とは、時間勝負なのだということが、まるでわかってない、わけです。わたしは「まだ中1だから」、「まだ小4だから」という考えが全く理解できない。まだ時間が「ある」から勉強以外のことに時間を使う、というのは、2つの誤解、誤りを犯しています。まず、時間があるというのはただの思い違いです。実際は、とても時間が足りない、ということです。中3ないし小6になってわかるのは、多くのことが終わっていないということです。もし中1・小4の時間のあるときに、やるべきことに時間を使っていたら状況は変わるでしょう。例えば、理科、社会については、遅くても中2の夏には仕上げておかねばならない。しかし、多くの中学生は、中3になっても終わらせることはできていないのです。中1の時に、やらなければならないことを何かと「二度とない機会」という伝家の宝刀を使い、先送りしてきたツケはもはやどうにもならない状態で、受験期に突入するということになります。
まだ中1だから他のことをやる時間があるというのは、浅い認識に過ぎないということです。
また2つ目は、普通に時間を使えたとしても、とても終わらせる量ではない、ということです。なにしろ最低の必要事項だけをやりきるにも時間が足りないのです。やらなければならないことは次から次に出てきます。要するに、今の高校受験の求めているものは、中学で、のんびりと過ごしていてはとても消化しきれない量なのです。この大量のこなさなければならない量をどこまでこなせるか、これで行ける高校が、決まります。
この親の誤解が、2つの誤解が、何やかやと勉強を先送りして、親の「二度とない機会」とやらで潰されてしまうのです。
⬛️竹の会の指導は季節講習を前提としたものです❗️❗️
通常の指導時間だけでは、とても受験・受検には対応できません。季節講習こそが一気に前倒し・先取り指導を可能にして、通常指導だけではとても間に合わないであろうマイナスをカバーしているのです。都立中学受検でも、高校受験でも、通常指導だけでは、とても間に合わないことはわかりきっています。高校受験では、中2までに中3の履修範囲どころか、ある程度の高校(偏差値65)レベルに達していなければならないのです。これを通常指導だけでやるのは不可能です。だから季節講習は必須です。ところがこの季節講習をスルーする家庭が必ずいます。少なくとも受験目的で塾に来ていてありえない選択です。もちろん経済的に無理というのは仕方ない。しかし、通常指導だけでは受験は無理なことはわかっており、少なくとも竹の会なら経済的理由なら退塾を選択するしかないとおもいます。それが受験塾だからです。実際これまでも案内要項を見ただけでほとんどが退塾しています。あるいはコロナ時期は任意参加としたのですが、季節講習に出なかった家庭は成績急落で結局退塾しています。通常指導でも遅れ気味なのが季節講習に出なかったことでさらに学力低下をもたらしたからです。
小4ないし中1だとどうしても受験まではまだ大分あるという認識を持ちがちです。しかし,実際はあなたたちの想像を遙かに越えた量の知識量が大きくのしかかり潰れることになるのです。季節講習に参加しないというのはそういった意味でわたしから早くに受験の失敗を予期でき失望するほかないのです。