2025.01.19
🟪現代受験論 高校受験こそ私の指導が一番活きる❗️
遅い、鈍い子は結局受験では勝てない。打てば響く、そういう子が自己を高めることができる。この「響くか」が、受験適否を決める。学に才がないのなら、無理に勉強という枠にはめるのは酷である。そういときこそ親が生きる道を算段してやることである。
現代における教育は、特に、ペーパーテストで優劣を決める体制の下では、いわゆる受験秀才はカネで作られる。カネを使っても受験秀才になれない者が無理をするから精神破壊を来たすことになる。現代の大手進学塾は上位10%にのみ機能する。その他多勢は、騙されてカネを注ぎ込むだけである。
さて高校受験に如何にして臨むか。中高一貫校制がスタートしてよかったのは、それまで塾とは無縁の層が、曲がりなりにも塾に行くという体裁を取るようになったことであろうか。ここでも中高一貫型塾というのが蔓延して弊害を拡大生産している。知識の詰め込みと問題集を解かせるだけの、脳の虐待である。
竹の会の、指導は知識の詰め込みではなく、思考型の脳を作ることに本質がある。理解の段階に応じた脳内環境の整備と言ってもいい。だから竹の会の教材は思考育成に特化した体裁になっている。思考段階ごとに脳内環境を整備していくのだ。これを大手に洗脳された親が、家庭で教えて、子どもが提出してくる。それで◯なら次に進むというのだろうが、それではわたしの塾での思考育成という過程が抜かれている。それで思考が育ったかと言うとちっとも思考は向上してない。大手のような解き方と答えが分かったら次という、そういう教材ではない。大手でも自力で考えて解きながら進めていった子と塾の講師や親などに教わってようやくわかったという子ではまるで効果が違うはずだ。
そもそも親が教えると言っても、たいていは数学を使って算数を強引に解こうとする。また算数的な解き方にしても、一貫性のない、思いつきで解く。思考を作るとは、子どもの脳内に、一定の思考の型を組み込み、そこから最初は型に当てはめて考えるということをやらせる。型を使い慣れたら、初めて型を外すということもできる。最終的には、型なしに、自由なる思考を使いこなせるような脳内環境を作りあげることはもちろんのことだ。親のやる、問題のたびに一貫性のない、つまり型のない解き方では子どもの中には拠り所が育たないのだ。ましてや方程式を使って解くなどはもってのほかだ。算数というのは、まさに数学のように、情報の欠如を未知数として記号言語と式を使って論理的に答えを出すという学問ではなく、足りない情報を前提に、面積図などによる情報の欠落のクリアという工夫、つまり思考の妙味を駆使して解く、思考の芸術である。数学には記号言語による、数学的仮説(定義)の積み重ねという、別の面白さがあるが、わたしは、算数ほど思考、つまり頭を使う学問はないと思う。思考そのものに、思考の妙味に、思考の芸術を見るのである。こんな感動的な学問を知らないままに、通過するなんてなんてもったいない話しだ。
算数が解けないと悩むのは算数を誤解しているか、よほどに自尊心が高いかのどちらかであろう。算数は思考を楽しむものなのに。解けないからあれこれ悩み工夫する、それが算数なのだ。解き方なんてない。公式を覚えて解こうとする。それ違う。解き方がわからないというのは、予め解き方というものがあって、それを知らないから教えてもらういう考えにつながる。それこそ大手の思うつぼだ。算数というのは、解くほどに楽しくて頭を良くするすばらしい方法だ。解けないので思考停止するというのは違う。解けないからなんとかして解いてやろう、それが算数の本質であり、そのあれこれにこそ算数の醍醐味がある。
それはそれとして、算数で鍛えられた頭こそが高校入試には是非とも必要である。算数で悩んで解決を楽しんできた者は数学も速い。思考というものを知っている脳こそが高校入試には必要なのだ。そういう子なら高校入試こそが一番だ。下手に都立中に入り上位25%に入らなければ、日東駒専がオチというなら、高校受験のほうがよほど道が開ける。都立独自クラスに入れば、難関校受験という訓練をしてきたのなら、上位25%にさえいれば悪くて早慶という話しである。竹の会ならそういう道を自ずと歩むことになる。