2025.04.04
🟫機微を知る人になったとき合格はやって来る‼️
わたしが、失望するのは、例えば、算数の問題を解いているときの姿勢を見たときです。問題(事実)の機微を全く感知しない、それどころか事実を誤解し、事実を斑読みして、自分のうろ覚えの知識をこれはダメでしょという適用をする。事実の微細な違いとまでは言わないまでも、正確に読み取ってほしいと思う。 まず事実でしょ。解く前の重要な事実の読み取りを疎かにする。論に入る前に証拠収集でしょ。論より証拠です。
そもそも事実を読まない。事実の意味を理解しない。ここは図でしょ。図は、事実を可視化するための、事実の整理です。そもそも図をかかないというのは、それで事実の把握はできた上での式ということですよね。しかも、単位は全くない式です。あなたの思考を逆推理するのも困難です。単位は、自分の書いているの検算のためにも必要です。単位の計算で間違いを回避することができます。
例えば、時速5kmというのは、単位あたりの量ですが、5km /時と書きます。10kmの距離では、何時間かかりますか、というとき、
10km÷5km/時=2時間
ですが、これを単位だけ取り上げて計算すると、
km÷km/時=km×時/km
となり、kmは約分で消えて「時間」が残ります。これで「÷」が正しいとわかりますね。これが検算です。式に単位をつけないというのは、重大な欠缺のある式です。というか、単位のない式を書く子は、伸びないですね。
事実の読み取り、これは、実は、算数に限らず、すべての科目で前提となる作業です。
というか、仔細に語れば、事実と判断は、分けられなければならない。
事実は、「ある」か「ない」かの世界である。判断は、「べきである」「べきでない」の世界である。
判断は、事実を踏まえてなされる。だから、事実が間違っていれば、判断はそもそも成り立たない。判断は事実に依存する。事実の読み取り如何が判断の信憑性を左右する。論より証拠という。私たちは、事実こそが雌雄を決するということを知らなけれならない。事実は、関係性というスキーマによって、理解が助けられる。しかし、そのスキーマが、偏見ということもある。例えば、ロシアの常識は、日本から見れば偏見と思える。
試験は、論より証拠の世界である。私たちは、もっと事実にナーアヴァスにならなければならない。事実に、もっと細やかに注意を向けなければならない。シャーロック・ホームズのように事実の微細な違いに目を向けなければならない。
事実の機微と綾を理解したとき、私たちは、読解の達者になっているのだろうと思う。
知識は枠組みで掴む‼️
枠組みとは、大まかなフレームのことである。雑多な知識は、整理して、共通項で分類していく。整理とは、他ならない、分類をすることである。単一の知識は、抽象化することが、すなわち枠組みである。
細かな知識は、まず大枠で掴んでからだ。まず全体構造を掴むこと、である。要するに、何をしたいのか、何をするのか、を大まかに、掴んで欲しい。細かな知識は、後からでいい。置きに両サイドミラーを0.1秒見るのに似ている。
文章を読むとき、どのように抽象化しているか、抽象化されたものはどのように具体化されているか、を追うのである。文章中の定義は、著者の主観、価値観の表明に他ならない。私たちは、ありとあらゆるスキーマの力を借りて、読み解かなければならない。
常に、上空に舞い戻って、鳥瞰することである。これは、車の運転をするとき、前方に視点を据えながら、左右のサイドミラーをそれぞれ0.1秒、何秒置きかに見る、のと同じである。常に、全体に目を配ること、である。