2024.09.28
◎無視する、削除するという勉強方法について
「ない」ものとして、完結させる。
人間というのは、不完全な脳しか持ち合わせていない。だから、膨大な知識、情報をいかにして取捨選択するか、これが必ず必要になる。「取捨」つまり「取」と「捨」である。得てして人は「取」に囚われがちである。それは不安の為す技であることはもちろんである。完全網羅主義は、ここ「取」を100%に置いたものといえる。
勉強は何を「捨てるか」こそ本質とする。俗に「要点もの」は、かなり捨てたということである。要点とされたもの以外から出たら仕方ないという態度である。市販の要点もの
はまだ網羅的要点のきらいがある。何を標準とするか、ですが、 要点集で9割強取れる、これが私の理想です。そのためにわたしは実際に過去問を逐一解いていき、当局(出題者)が何を意図しているのか、分析してきました。鞄にはいつも過去問が入っており、暇さえあれば解いていたものです。大切なのは、いつも出題者の意図を探ることです。何が出されたから、いったい出題者は何を試そうとしたのか、そこを考えました。想像力を働かせて、何故これなのか、と考えたものです。なぜこれを問う? 他のあれではなく、なぜこれ? わたしがいつも考えたことです。それこそ想像力を働かせてイメージを膨らませ、あらゆる可能性を想像する。
知識の難易度が、線引きの基準なのだろうか。逆に、受験倍率から、出題者としては、とにかく、8倍なら7人はできないであろう、8人に1人しかできない問題を出さなければならない。そうなると出題の基準も過去問において、8人中7人が解けなかった問題が基準になる、その知識の属する層を、つまり同年代の地層を辿ることになる。少なくとも8人中8人が解けない問題では、選抜試験の意味がなくなる。つまり、メチャクチャな難問は出しても意味がないのだ。そういう問題は、1問作ればいい。すなわち全問をそういう8人中1人しか解けない問題にする必要はない。また平凡な問題にミスを誘い易い罠を仕掛けるなら、勝手に篩にかけられて、8人中1人を選ぶのも容易になる。難問をしかけるよりは、落とし穴、フェイクを仕掛ける方が実は基本の理解の深さを試すのには良問と言える。理解力のある子を取りたいなら、そういう子を難問で落とすのは得策ではないであろう。
天才をとるよりも、深い思考力のある、その意味で伸び代のある子を取りたい、と思うのではないでしょうか。
さて、わたしは、勉強とは、如何に知識を削除するかにかかることと確信しています。これからあなたたちは、様々な試験に立ち向かうこととなるでしょう。そういうときに、膨大な知識量に立ち尽くすのではなく、はたまたそういう知識を疑うことなくインプットしていくのではなく、どうか合理的に判断をして行動に移してほしいと思うのです。
勉強、理解の一つ方法として、整理というのがあります。整理しながら理解するということを私はよくやったものです。
ここでわたしは整理というものが、実は関係把握による理解であり、整理の基準、由縁を押さえることで、無駄な暗記を低減することができる、と見ています。また、知識は、出来るだけ抽象化すること、つまり、分類することが、全体を俯瞰するのに有益です。というか、勉強のコツは、具体的なものは抽象化していくことなんです。抽象化というのは、個々の事象の共通点でくくることです。
整理というのは、混沌、雑然の中から法則性を発見したり、共通点を見つけたりして、分類していくことです。
分類の基準、すなわち共通点、そこのところを押さえて、具体的なものは、推論で出るようにしておく、これがコツです。
論理的に説明できないものは、語呂合わせで覚える。これも基本です。例えば、リトマス試験紙で酸性なら青から赤になる。これは、アルカリ性は覚えなくていい。酸性だけ覚えれば足りるから。蜜柑はアルカリ性ですが、あれは青いのは酸っぱい、それで酸は酸っぱいだろうと勝手に決めて、蜜柑は青い実が次第に赤くなるから、酸性は、青から赤と覚える。論理で説明できないものは語呂で覚えるしかない。その意味で、受験は技術です。
表にすることは整理か。
表というのは、複合的な事象を様々なファクター、視点から分類したものです。この表は、表全体を覚えるのは困難です。
分類基準ごとに確認するのには便利です。その意味で、文章のままより、手間が省けるということです。参考書なんかには表、しかもカラーで色分けしたものなど豊富です。これらは読み流しているととんでもないですことになります。表は読むものです。分類表は帰納的に読まなければならない。分類前の状態に帰納するのです。
ノートにまとめることは、サブノート勉強法といい、一般的な方法です。しかし、知識量が膨大な資格試験、いや大学入試も同じか、サブノートを作る時間などない。幸い予備校が完璧なサブノートを作っているから、それを利用すればいいとして、それでも膨大なことには変わりない。
反復「読む」。これしかない。
そこで「読む技術」が問われる。
テキストの空きスペースに、要点をまとめておく、これがベストである。
世の中には、有名大学の教授の書いた悪書が溢れているから要注意である。国語力に問題のある学者が多すぎる。東京大学の教授だからと言って決して信用できることはない。大手メディアの腐敗化はもはやジャーナリズムとしての生命を断つほどに深刻である。だいたい3.11の原発事故のとき、内部情報をいち早く入手した、大手メディアの家族を関西方面に避難させたという話しはかなり有名ない話しである。そもそも大手の朝日などの記者が原発から半径90キロメートル内から立ち退いたのはあたかも政府の命令にしたがったかのようなふりをしてきたが、その危険な圏内には、フリーランスの記者が身を挺して入り込み取材した情報を朝日などに売るということをやっていたわけである。取材しない朝日などもはや情報伝達の担い手でもなんでもない。あのとき、東大大学院の原子力の専門家というのが、無能ぶりをさらしたのを私たちは NHKで目撃したのであった。水素爆発を見て、司会者が「何が起きたのでしょうか」と問えば、「わからない」といみじくも申したわけです。その同時間に他局では京都大学助教の小出裕章が「あれは水素爆発ですね」と事もなく言いました。 小出裕章は原発の危険性をずっと訴えできた人ですが、とうとう定年まで助教のままでした。安倍や菅のとき、批判すれば閑職をかこつしかなかった。批判者はどんなに優秀でも助教のままである。だから東大教授までなったのなら、無批判の御用学者と疑ったほうがいい。
昨今は、医師、弁護士、警察官、教師などが破廉恥犯罪を犯す時代である。わたしたちは、騙されない、本物を見抜く目を常に求められる。地面師のような、悪意、狡猾なグループが、人を騙そうとかかるとき、公的な登記、証明書は全て偽造して、印鑑の印影まで精密偽造されると、もうお手上げだある。しかし、何かが普通ではない、そぐわない、自然な流れではないという違和感が漂うわけで、一瞬でも疑念が流れる、こういう打ち消されるべき運命にある疑念こそが実は真実を訴えている、というのが、この世を生きる確かな処世の術なのかなと思います。私たちは言葉で騙される運命にあります。言葉というのは、人を騙すためにあるのです。政治家が言葉で人を騙すのは有名な話しです。わたしたちは、最も簡単に言葉で洗脳されてしまいます。宗教然り、占い然り、昨今は、学校の教師、警察、医師と言葉でまやかしをやるニュースが増えてきました。というかそもそも朝日、毎日、読売とこれだけ真実、事実を報道しない新聞も珍しい。また論説主幹、天声人語などのコラムを書く記者は、立ち位置が左翼にあることは確かで、歴史的事実の偏見というか、超主観で、そういうところだけは、頑迷なのに、福島の現在などは一切報じないわけで、購読者数は激減中というが、新聞に未来はない。若者の活字ばなれもさることながら、事実を伝えない、今の新聞は必要なものか、が問われている。
夏のαに出た者と出なかった者の差が、あまりにも歴然としてしまった。家庭で自己の裁量でやる勉強が如何に無意味なことかを証明してしまった感じである。指導時間量の差がそのまま実力に反映してしまうのは、竹の会を始めたときからわかっていたことであった。実家帰省・盆正月帰省・習い事・稽古事・その他諸々の勉強を先送りする行為は結果として希望の都立には行けないで、単願推薦で私立へ行く道を選らんだことにな。塾にそれほどカネをかけられない前提ならしかたない。どこまで最低の節約型指導でやれるかやってみるしかない。ただ正直に言いますとそういう家庭は私立単願推薦がほとんどでした。節約型では中2までは優等生なら内申はとれます。しかし、中3になればその無意味なことがすぐにわかるでしょう。わたしはそういう生徒をずっと見てきました。塾代を節約し結局費用のかかる私立、それも高いカネを出してまで行く価値があるのかという私立に最低3年間はカネを注ぎ込むしかない。
高校受験は中2までの指導時間量で決まります。この夏に英語を飛躍させた者はこれからはさらに高みの位置に進められるのです。
自分の力についてもっともαの恩恵を知るのは当の本人なのだと思います。