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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

常に「いる」ことが、大切なことです。いえ、勉強のことです

2024.09.24

◎常に「いる」ことが、大切なことです。いえ、勉強のことです
 まず学校のレベルはかなり低いものです。竹の会のレベルから見た場合のことです。
 夏に例のコースを選択した者とそうでない者の差がこれほど歴然と明暗を分けたのは、もちろん想定通りのことですが、この差が実は重大なこととわかるのは、中3になってのことです。
 わたしの指導は、高校入試を見据えてのものです。定期テストは取れて当たり前です。過去竹の会を去っていったほとんどは定期テストさえ取れないという落ちこぼれです。 
 わたしは常に中3になってのことを考えて今の指導をしています。中3の6月には、駿台模試があります。つまり、中3になって、2ヵ月でもう、全体模試が始まるのです。
 高校受験というのは、中3の期間すべてを「準備」ではなくて、「対策」に当てなければなりません。ここで準備というのは、まさにまだ高校受験に必要な知識、思考の準備です。要するに未完成の状態ということです。これに対して「対策」は、高校受験を今でも受けられるという前提で使っています。こうして、中3は「対策」の年です。同じことは小6についても言えます。小6は対策の学年でなければならない。中学受検のほうは、それほど単純ではありません。なにしろゼロから始めるのですから、基本知識から使える知識まで、さらに思考力など「準備」に時間がかかるのです。
 高校受験の準備は、小6の2月からということにしています。ただし、これは小学期の基本ができあがっていることが前提です。
 小学期の基本とは、高度な計算能力、な中学受験の割合問題を解ける力、要は、公式を使うのではなくて、事実を分析して、時には図化して、関係性を発見し、工夫して発見するというような能力をいうかと思います。
 この過程が抜けている小学生は、中学では使えません。つまり、落ちこぼれは小学生から決まっているということです。
 一つの目安は、内申です。内申が悪い子の95%(主観)は少なくとも中学でトップレベルにはなれない。もちろん竹の会には例外が何例かあります。それは内申が悪くても高知能の子がいるからです。それだけ小学の内申は信用できないものです。もちろん中学の内申だっていい加減、曖昧なものを感じる。
 小学生は、常に「いる」ことです。なかなか真理の世界が見えない子が普通にいるものです。もちろん瞬く間に理解してしまう子もいます。見えない子、そういう子もいつか、そうです、ある日ある時突然「見える」、そういう日がある。もちろん誰でもというわけではない。もし「世界が見えた」とき、その子はその日を境に変わるのです。これまで見えなかった世界が見え始める。このときから、実は本物の指導ができるようになる。そういうことです。
 見えてない子を指導することはそもそもできない相談です。
 だから指導というのは、今は、見えない世界のことをあれこれ手を尽くして伝えているわけです。見えない世界がどうなっているのか、わからない、見えない者には、余程想像力を働かせないと、イメージは湧かないと思います。そうなんです。理解力とは、まだ見えない世界の仕組みを想像することなんです。
 あなたたちが生きていく上で、想像力ほど大切なものはありません。偏狭で一面的にしか見ない、一義的にしか受け取れない、狭い世界の言語世界しか知らない。
 見えないものを、見えるようにする、これは、自分の言語世界を広げることが、有益な方法です。とにかく見えない、あなたたちは盲人と同じです。いろいろな知らない言葉の意味・背景を知ることは、確実に想像力に影響します。百聞は一見に如かずといいます。世界を

 雨の日も風の日もいつも「い」続けること、これは何の秘訣かわかりますか。
 人生は偶然でできています。なにもかもが偶然です。偶然にはさすがの人間も容喙できない。事に際しての選択がさらなる偶然をもたらす。偶然は真理であり、だから偶然を前提に、そこに法則を仮定していろいろなまやかしがうまれてくる。星占い、血液型基準がどんなに科学の匂いをさせても、偶然という真理は厳然としてある。
 受験は、偶然の入り込む余地が相対的に低いからこそ、勉強すれば点が取れるという、別の真理が相対的に高くなる。しかし、受験は偶然に満ちている。塾に行かない選択、行くとしてどの塾にするかという選択。塾が成否に関わる偶然。学校の内申という偶然、選択は意思の問題であるけれども偶然と無関係ではありえない。 
 要するに、私たちは、偶然という宿命の中にある。だからいつも「いる」ことが意味を持つ。いつも「いる」ことは、神の偶然という悪戯に対する、唯一の有効な対策なのである。
 いつ見ても君はそこにいた。同じ場所にいつもいた。母がいつも「いた」実家はわたしには「いる」というそれだけでどれだけ私を安心させたことか。そうなのだ。わたしたちは、本能的に偶然と闘う術を心得ていたのだ。
 先送り,積み残し,どうでもいいこしの優先,それらはすべて「いる」ことを蔑ろにします。過去落ちた例にはなんと「いる」ことを蔑ろにした親と子が多かったことか。

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