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12月18日 母の命日に寄せて

2022.12.29

竹の会のみなさま

2022年もあと2日を遺すのみとなりました。みなさま本年は熱心に竹の会に通ってくださり、ありがとうございました。

受検まであと1月を遺すのみですが、ギリギリまでどうか全力で駆け抜けてください。

12月18日 母の命日に寄せて ※本稿は母の命日の手記です。
 母は、わたしの支えでした。元気な頃の母は、毎晩郷里の別府から電話してきました。毎日母の元気な声を聞いて、わたしは母が元気なことが嬉しくてしかたありませんでした。毎年8月下旬、竹の会の夏季講習が終わってから、子どもたちを、連れて帰省しました。父と母、姉の家族、弟の家族が、集まってみんなで楽しく食べる夕食は、ほんとうに幸せでした。母が笑い、父が笑い、みんなが屈託なく笑いました。
 東京に帰る日は、母は涙を流して悲しみました。わたしも段々年老いてゆく母の姿を見ていると、いつか来る今生の別れを予感せずにはいられませんでした。本来長男である私がいつも母の傍に居て泣き笑いしながら暮らさなければならないのに、わたしにはそれができなかったのです。
 母から昼間にあった電話は悪い予感が当たりました。母は、白血病で、これから大分の医大に入院するのだ、と悲しそうに言いました。「ちょっと行ってくる」と言いましたが、入院したらもう帰れないことはわかっていました。医師に余命1週間と宣告されたのですから。私は、父に懇願しました。家で看取ってあげてください。12月と言えば、わたしは受験生を何人も抱えて心を砕いていた時期でした。1週間だけ、保護者の皆さんにお願いして、私は母の元に飛び立ちました。
 母は、部屋に寂しそうに座っていました。私を見ると、苦渋の表情を和らげて、微笑んでくれました。母は、父が家にいていい、と言ってくれたことを大層喜んでいました。私は泣きながら、母を抱きしめました。初めて母を抱きしめました。母はこんなに小さかったのか、こんなに軽かったのか、わたしは母の苦労を思い胸を締め付けられました。わたしたち3人の子どもを育てるために母は生活をやりくりしながら世知辛い世間から私たちを守ってくれたのです。父とは折り合いが悪かったわたしとの間でいつも泣かせてきました。父から一刻も早く離れるために家を出て東京に出たのでした。裕福な商家に嫁にいった姉、電電公社に就職し結婚をした弟、わたし一人が就職もしないで、いつも祖母と母は、わたしのことを心配していました。そんなわたしと父はいつも衝突して、その度に母を泣かせてきたのです。わたしが、東京で塾を始めたと聞いて母は喜んでくれたでしょうか。
 こんな元気なのに本当に1週間で死んじゃうの、わたしは信じられませんでした。88歳の母の誕生日をみんなで祝うことができました。それから1週間たった18日母はこの世を去りました。わたしは後ろ髪を引かれる思いで、母の最後までいることができずに、東京で待つ子どもたちのもとに帰るしかなかったのです。わたしはこの時ほど自分の職業を怨んだことはありません。私は、母に別れを告げて郷里を離れました。夜もまだ明けない頃、空港バスに乗り、大分空港へ、空港のラウンジで、座り込み、泣いていた私を見て人々は通り過ぎて行きました。死ぬ前日に母から電話がありました。「たけちゃん、元気にしちょるかい、また明日電話するから・・・」。しかし、その明日は来なかった。わたしはまた大分に飛びました。仏間のベッドに横たわった母の顔は白い布に覆われていました。母の死顔を見ました。母は、すべての苦渋から解放されて、穏やかな安らぎに包まれていました。「母さん、お疲れ様でした。今までありがとうございました」。わたしは、母に語りかけました。親不孝ばかりで母を苦しめてきた私でした。母はいつも私を庇って私を守ってくれました。私が法律の勉強をするために東京に出た日から母は寂しくて毎日泣いていたと聞きました。最後に、私が母と暮らしてあげられなかったことが、ずっと心残りでした。母さん、ごめんなさい。わたしは何度も何度も詫びました。
 母は心の支えでした。その心の支えを失った私はこれから何を頼りに生きていけばいいのでしょうか。 

 葬儀が終わると、すぐ東京に飛びました。私には受験生が待っていました。元代々木教室の子たちは、きっとわたしがいなくて不安だったと思います。わたしは受験から逃げることはできない。私はプロなのだから、そう繰り返しました。そう自分に言い聞かせるしかなかったのです。支えを失ったわたしは、深い悲しみに沈んでいたと思います。ただ子どもたちを指導すること、そのことばかり考えて、子どもたちの前では、無理に明るく振る舞っていました。母が死ぬなんて、いつかは来ることだとはいつも思い恐れていましたが、あってはならないことでした。わたしの中では決してあってはならないことでした。だからわたしはこの理不尽をどうしても受け入れることはできなかったのです。
 孤独の中で、ただ耐えること、悲しみと苦しみを忘れるために、私は指導に我を忘れるほど没頭しました。指導中に力尽きて死ぬのならそれは本望だと思うようになったのは、母の死からです。正直に告白します。わたしには母のいない世界がどうしてもありえないことだったのです。指導に全力を尽くそう、それで死ねたら、母も笑って許してくれるだろうか、母さん、ごめんなさい。
今年も、命日がやってきました、母に謝ること、そればかりです。 
 母さん、ごめんなさい。
 生きるとは、ただ「耐える」ことなのだと悟りました。どんな悲しみも自分の内で耐え抜くことしかないのだ、私の辿り着いた結論でした。何があっても「耐える」、ただ独りで、じっと我慢するしかない。考えてみれば、これは、幼いとき、父と母から教わったことでした。「ひもじい』という言葉はすっかり忘れていましたが、幼いときは、我慢したものです。何かが欲しいときも、親に買ってもらえることはないことはよくわかっていましたから、我慢することには慣れていました。幼いときの蒲鉾はわたしにはご馳走でした。遠足、運動会の弁当、お重には、必ず蒲鉾が入っていました。あと大晦日、お正月のご馳走には蒲鉾が定番でした。一年で食べられるのは、その時だけでした。いつか、蒲鉾の詰め合わせを貰ったことがありました。わたしはそれを盗み食いしたのが、見つかり、母から叱られました。母は父には言わないでくれました。父にわかれば殴られることはわかっていたからだと思います。幼いときの父の記憶はいつも殴られ、時には蹴られ、熱い茶の入った湯呑みを浴びせられたり、家の裏の柿の木に縛りつけられたり、真冬に裸にされて水をかけられたり、怖い存在でした。いつもビクビクしながら父の顔色を窺っていました。わたしを父から守ってくれたのは、父が一番大事にした祖母、それから母でした。母はいつも優しかった。高校になって父と衝突が絶えなかった。喧嘩、家出を繰り返し、いつも母と祖母を泣かせてきました。わたしのことをいつも心配してくれた祖母が死んだのは、私が九州大学に合格した年の8月のことでした。合格の日、祖母と母が手を取り合って喜んでいました。長年母は祖母との折り合いが悪く、よく泣く姿を見て、私は祖母に「母ちゃんをいじめるな」と怒鳴ったものです。その二人も歳を重ねるに従って、祖母は「母ちゃん、母ちゃん」と母を頼りにするようになり、母も心から祖母を敬愛していました。祖母が死んだとき、声をあげて泣いた母の姿を見たのは二度目でした。最初は母の父が死んだときでした。
わたしは、父との折り合いが悪く、早くこの家を出たいといつも思い続けてきました。東京に出たのは、私の宿命でした。まさか東京で塾をやるようになるとは、このとき誰が想像したでしょうか。わたしは、まさにストレイシープでした。右も左もわからない東京で、不安に押し潰されそうになりながら、とにかく自由になった、その一歩を踏み出したのです。
 母も父も死ぬ直前、ベットに深々と埋まる顔は驚くほど小さく、こんなにも小さかったのか、幼い頃、あんなに怖くて恐ろしかった父がこんなに小さくなって、胸を締め付けられた。怖くてもいい、恐ろしくてもいい、元気に食べるている父が生きてさえいてくれれば、と思いました。「お父さん、お母さん、こんなにも小さくなって、本当に苦労を重ねてきたのですね。これまで苦労をかけました。ありがとうございます。」
 親が二人ともいなくなった。耐える。耐える。耐える。でも涙だけは止まらない。泣いても泣いても涙は止まらない。耐える。耐える。耐える。

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