2024.06.26
🔛基本が欠落したままに、大手の早慶コースを申し込むお客様家庭のこと
その心底には、一発逆転、ワンチャンあり、の思考が垣間見える。
しかし、問題なのは、自分の実力が足りない、しかもかなり足りないのに、早慶合格基準にある子たちと伍して授業を受けること、講座で配られた教材もほとんど理解できないのに、個別指導塾や家庭教師で補いつつ、飽くまでも早慶合格にこだわる、その心底にある。
基本ができている子とそうでない子の差は、できてない子が、個別指導塾や家庭教師によって、講座テキストの解説をしてもらって、補えるほど、単純なものではない。つまり、1+1=2にはならない。
基本ができている、理解しているということは、誰の手も借りずに講座テキストの問題を解ける、さらには、そこから新たなる発見をし、さらなる発展が望めるということである。
つまり、基本の大切さは、想像を超えた、伸びを秘めているところにある。
そして、その基本というのが、ほかでもない、算数ということである。
算数は持って生まれた能力に左右される科目である。それは仕方ない。ここで言いたいのは、普通に能力的に問題のない子たちのほとんどが、算数の面白さを知ることなく、いや算数そのものに触れることもない子どもたちも大勢いる、そういう子たちが、公立中学に進む、そこで初めて塾という子たちもそれなりにいる。中には、中3になるまで塾には行かないという生徒もいる。その中には、必ず一人や二人、学年トップクラスという子もいたりする。わたしは、そういう子の没落を何度となく目撃してきた。いやもちろん日比谷推薦合格という生徒もいた。しかし、その9割超は受験失敗と思う。塾にはやくから行ったとしても、没落は変わらない。これは算数をやってこなかった、それなりに能力のある子たちの共通の末路である。
中学受験で算数をやっていたら、いいのか。いやいやそうはいかない。中学受験には能力のない者もたくさんいるからである。
わたしが言っているのは、算数という科目を受験として暗記的に対応してきた子ではだめだということである。
算数は思考を作る、深める、練り上げる、科目である。この算数的思考の世界にじっくりと腰を据えて思考のシナプスを作り上げていく、ということである。脳の皺を増やす、脳の襞を殖やすということである。
算数は思考をつくるのにこれほど優れた科目はない。ただし、算数をものにできるのは、努力だけではだめである。いわゆる境界知能児は、算数の中に入ることはできない。かれらは説明を受けることしかできない。永遠に。その説明はおそらくほとんど理解できない。神様は生物多様性に従っただけである。人間社会が生存競争の中にあり、生き抜くには何が必要かを必然化させて来た結果、学問、学歴の高い人を最上層に置くこととしたのだ。わたしたちは、生物多様性を否定することはできない。生物多様性と生存は表裏の関係にあるからである。
日本の歴史、いや世界の歴史を紐解いても、生物多様性はあるものとしてこの世界は成り立ってきた。単一の人間だけが生きる権利があるとして、乱獲、乱伐を続け、クマもイノシシ棲む自然が失くなり、炙り出したのはほかならない人間ではないか。
人間に限ってみても、人間多様性は否定されることはない。しかし、多様性というのは、また生存競争という別の原理と両立してきた。多様性は、生存競争の勝者と敗者を多様に振り分ける。しかし、その比率は圧倒的に敗者が多い。私たちは、生きるということの厳しさを人生を通して知ることになる。難関国立大、早慶、医学部を出た者が、確実に、いい生活をしている蓋然性が高いことを早晩知ることになる。もちろん飽くまで蓋然性である。
わたしたちは、生きる、生き抜くために、勉強している。勉強することが生きることになる。
わたしは、そのことを竹の会の子どもたちに示してきたつもりである。
勉強しろ、とは、生きよ、生き抜け、それが勉強だ。小学低学年から算数をやるのは、生きるためだ。この世を生き抜く知恵をつけるためだ。知恵を身につける。知恵とは、考える、トラブルを知恵で切り抜けることだ。算数はすごい、人間にとってこれほど脳を活性化させる知的手段をわたしは知らない。算数では、文字、つまり記号を使えない。いや使わないで知恵と工夫で解くのだ。問題に向かい合うたびに、さて今度はどんな知恵、工夫をすればいいのか、と思い巡らす。よく大手の子たちが、問題を見て直ちに公式というか、解き方みたいなものを使うのを見てきたが、それでは、覚えているかどうかがすべてで、算数の本当の学び方を知らないままに終わることになる。
竹の会では、公式などというものを知らない。問題を読んで事実を読み解く。特に、図をかく、これが大切である。最初は、図かかけない小が多い。見よう見まねで次第に知恵を覚えていくことになるが、これも知能によって、つまり理解度によって違う。そもそもわたしの説明がわかっていなかった、そういう境界知能児なのではないか、と疑わしい子もいる。
算数は、まず計算達者にすることから指導を始める。低学年には二種類いる。黙々と言われたことをやれる子と、飽きっぽくなかなか集中できないう子。自分の字が殴りがきのため、読み違いなどで計算をしくじる子も多い。もともとそういう子は不適格なのかと思うが、その後の指導を続けるのがいいことなのか、迷うところではある。乗り越えてさらに一段階上に行く可能性を否定しきれないからである。幼なさの故に、今やっていることの重要性が分からない。親に言われたから、先生がやれというから、このレベルの精神年齢だとなかなか指導は難しい。小学低学年には、學に関する関心が異常に強い、集中する時間が長い、やりあげたことに喜びを感じる、そういう子がいるのです。本当は指導できる低学年はそういう子が望ましい。勉強そのものではなく、振る舞いや態度を注意しなければならないというのは、また一つ下の指導段階にある子だということである。
わたしは、勉強、学習指導の総合ドクター、総合診断医と考えている。
常にその子の全体を診て、その原因を総合的観点から特定し、最も効果的な処方を施す。それがわたしのやり方だ。わたしの言う指示をきちんと守る、実行する子なら必ず伸びていく。
自尊心が高い子、秘密主義の子、厳しい指導を自分に対する攻撃だと捉える特殊な子、そういう子の指導は、残念ながらうまく行くことはない。精神的な幼なさ、過保護による過度な自己主張などは精神的未熟さがそのままに、学習することなく、定着してしまった子の能力開発は困難である。
低学年児の指導は我慢と辛抱なのかもしれない。とにかく理解の入り口を見つけること、そこからいろいろな処方(レジュメ)を試すこと、これを辛抱強く続けることになる。いつか何かのきっかけで目を開くときが来ると信じて続けるしかない。ある日の指導で突然「つながる」ことがある。「なるほど」という意識が脳に繰返されるとき、伸びている「あかし」なのだと思う。