2019.07.08
第7章 見えない部分(前回未執筆)
問題とは、見えない部分を想定し、その見えない部分を定義と原理から推測して、想像する、という作りになっている。いや、そういう作りが、理想の問題なのかな、と思う。覚えてきたことを、正確に覚えているか、ただそういうことを試す問題に、いったい何を期待できようか。
暗記力、ないしは暗記の方法で勝ち抜ける試験で、選ばれることの意味は何なのか。
偏差値試験では、まず暗記が問われる。より暗記力の優れたものが、高い偏差値をとる。試験は、そうできている。確かに、思考力を問うような問題も出ている。しかし、これさえも、突き詰めれば、暗記と言えなくもない。和田秀樹の「数学は暗記だ」という本は、この点を突いたものであろう。理解は、暗記だ。そして暗記は理解だ、と言えるのである。極端なことを言えば、受験は暗記だ、という結論になる。これはある意味、真理であろう。
出題者が、暗記していなければ解けない問題を作ったか、である。もちろん流石にこれだけは暗記していなければだめでしょう、という知識の範囲というものはある。ただこういう基本ともいうべき知識を入試の問題にしてしまうと、入試が、選抜のためであるということが、機能しない。入試はどうしても、原則よりも例外、普通よりも特別なことを問うしかないのは、試験が選抜試験であり、できない者を想定した問題を作るからである。
そうなると暗記を問う問題というのは、選抜に適するのか、ということになる。超人的な暗記のための努力をした者が、合格するというのは、怠け者を排除することはできるが、天才をも振り落とすことにはならないか。ただ、天才は、暗記をも脳経済的に合理的な処理をするほどに天才であるから、そういう暗記型の問題でも乗り切る術を知っている。
出題者は暗記しているかどうか問うただけなのに、勉強する側が一枚上手で、暗記は大枠だけで、細かいことは、推理して、答えを出す、つまり暗記しないで、済ますということは普通にある。
昨今は、出題者が、意図的に、暗記しなくても解ける、つまり考えることによって解ける問題を作る風潮がある。暗記を敵視する意図も看取できる問題も多い。適性問題などはまさにそういう発想なのであろう。しかし、暗記といっても、先程述べたように、推理、推測できる形で、知識を整理していくという方法もあるのである。暗記を推理に変換する勉強というものがある。それが、大枠を捉える、流れを掴む、全体に流れる価値、意味を理解する、といった、いわば「森を見る」方法である。「森を見る」というスタンスは、多くの稔りある思考アプローチを生むであろう。鳥瞰するということは、角度を変えて見る、視点を変えて見る、という発想を生む。森を見るとは、具体的なこと、ミクロの世界を捨象して、大枠で見る、言い換えれば、抽象化して見る、ということにほかならない。
森を見る視点は、竹の会の指導の原点である。
第2章 使い勝手の研究
どんなにいいものと言われても、どんなに高級なものと言われても、使いにくいものは、自分にとって価値はない、のではないか。断捨離という言葉が、流行したのは、といっても、マスコミの扇動のような気もするが、もう十年ほど前であろうか。私もそういう類の本を買ってさらりと目を通してみたけれど、なんのこともない、自分のやっていることばかりで、なんで本に なるのか、わからなかった。が、世の中には捨てられない人間がうようよいる。こだわりの品、思い出の品、捨てがたい物、金にすれば高価かもしれない物、ととにかく物に埋まって身動きの取れない人間が溢れている。そういう事情なのだろう。
人間、死んでしまえば、物は、この世に置いていくしかない。金にならない物以外は誰かに捨てられるに違いない。なのに人間は物に対する愛着が、とてつもなく強い。物に支配されている人間は多い。そこは単純には、切って捨てられない訳もある。そもそも物とは、人間が、生きるために、生活するために、必要だから、切っても切れない関係にある。身につける物、生活する物、住む物、読む物、食べる物、冷やす物、寝る物、見る物、乗る物、人間は、物によって生きている。それは太古の人間の祖先が、道具を発見した時から、始まった。人間と物との表裏一体の関係の始まりである。ただ、「眠る」物をいつまでも自分の支配圏に置いておくというのは、私の本意ではない。十年も二十年も使われないままに眠っている物はやはり断捨離するしかない。生きるということを突き詰めていけば、太古の人間の道具、それは生活のための道具であったが、基準となる。物と言うが、私たちは、道具を選んでいるのである。道具とは、生活の中で意味を持つ。死ねば生活そのものがないのだから道具も要らない道理である。となると、死ねば要らなくなるから物は要らない、という論理はおかしい。ただ生活の道具というもともとの起こりを忘れて道具として死んでいる物をいつまで保管しているのは何か変だ。「もったいない」からというのが、人間が文明を発達させた、という説があった。そして猿には「もったいない」の観念がないから、ポイ捨てするから、文明が育たなかった、という。物を切れない人というのは、やはり「もったいない」という、ことがある。しかし、「もったいない」が、文明を発展させたのは、壊れた物、不要な物でも、工夫すれば使える、と考えたからである。ところが断捨離できない人の「もったい」は、工夫して使うという「もったいない」ではなく、ただ捨てるのがもったいないからである。いつか使うかもしれないというもったいないである。消費者としてのもったいないである。太古の人間のように、捨てないで、工夫して、新たな生活の道具を創作するというもったいないではない。
生活者として、生活の道具という一点に絞れば、いい道具という発想も出てくる。高級品か、普及品か、という話しにもなる。そこから更に達観した領域になれば、使い勝手の良さという、別の価値も出てくる。高級品でも使い勝手が悪ければ、使わなくなるから、無価値と変わらない。
「もったいない」という精神は、人類を人類として進化させたが、道具論からは、使い勝手が、道具の価値を決める、というのが私の意見である。
使い勝手とは、合理性の精神を徹底させた場合に、道具論の最後に行き着くところかもしれない。使い勝手のいい道具を追い求めれば、「もったない」ことも厭わないということになる。してみれば、使い勝手は、もったいないとは、対極に位置する価値かもしれない。
使い勝手には、手間取る、面倒くさいなどという煩わしさからの解放、ストレスのなさというか、快適さというものが、新たに価値として、取り込まれているのかもしれない。
第3章 知能とは、意味を知ろうとする能力
知能とは、何なのか。親から、いや先祖から、受け継いだDNAの質かな。環境はあまり関係ないのでは、と思う。世間では、早期教育とか、英才教育とか、特別なことをやる親が、多いけど、語学はともかく、数理的な科目は、やはりDNA次第ということではないか、と思う。小6から進学塾へ行って、武蔵に受かり、現役で東大に受かった子を知っているけど、両親とも東大、祖父も東大という家系であった。ノーベル賞の物理学の湯川博士の家系もすごい。
父:小川琢治(地質学者・京大名誉教授)
兄:芳樹(冶金学者・東大教授)、貝塚茂樹(東洋史学者・京大名誉教授、文化勲章受章)
弟:環樹(中国文学者・京大名誉教授)
七人兄弟、兄や弟は、有名な学者である。
DNAが、生存競争を左右する。これが真理であり、塾というのは、こういう真実から目を背けて、バカを賢くするなどという戯言を真顔で言うものではない。
知能は高められるのか。私の経験からしかわからないが、それなら高められるのではないか、と思ったこともある。ただ私は小学六年のとき、学校で受けた知能検査で、担任を驚かせた、ことがある。担任が驚いたのも無理もない。教科の成績は酷かったからだ。2が2科目はあったと思う。3ばかり、4も一つくらいはあったかな。ただ不思議なことに、小1から小6まで、図工が、ずっと5であった。私は、風景画が好きで、田舎の風景を描くのが、得意だった。とにかく小6の担任はびっくりしたのだ。自分の思っていた評価とあまりに落差があったのだろう。担任は、わざわざ私の親に報告しに家に来た。わたしは、中学に入る直前から勉強というものに目覚めた。宮崎県の延岡中に転校した中1の初めての定期テストは、66番(550人中)だった。ここからわたしの知能に目覚めるための、苦悩に満ちた勉強への道が始まった。しかし、中2になっても、学年20番という定位置。なかなか抜けられなかった。郷里の中学に転校。一学年550人は変わらず。番数20番も変わらない。わたしは、自分の知能の限界と戦いながら、苦しみ、もがき、勉強に明け暮れた。高校で苦しみ、浪人して、わたしは、初めて自分の能力を見切った。知能が、訓練すれば、高くなるか、わたしにはわからない。もしかしたら、わたしの苦しみ抜いた時間が、わたしの中にもともと眠っていた知能を呼び覚ましたかもしれないからだ。ただ、いずれにしても、知能を高めるには、勉強で苦しむしかない、それだけは確かなことのように思う。
さて、知能とは、いったいなにか。
表題にあるように、意味を理解する能力ではなかろうか。知能がなければ、意味はわからない。考えてみれば、わたしは、いつも意味を求めてきたように思う。高校に入ってから、英語の勉強の意味が、わからなかった。なぜ、単語を覚えるのか、どうでもいいように思えた文法、自分が何をしているのか、意味がわからなかった。なぜ訳すのか、そんなことがわからなかった。化学の意味がわからなかった。化学式、構造式、周期表、いったい何なのか、わからなかった。生物を分類すること、遺伝の計算をすること、いったい何の意味があるのか、わからなかった。数学が何をするものなのか、わからなかった。三角関数の問題を解いていても、面白いとは思ったが、いったい何をしようとしているのか、わからなかった。
あなたは、何をするために、こういうことをやっているんですよ、と教えて欲しかった。今思うこと、まず、目の前のことを、ひとつひとつ理解すること、意味を理解すること、それを積み重ねていくこと。人間というのは、不思議なもので、「わかる」ということが、本能的に、面白い、という感情を生起させる。わかるというのは、勉強の意欲を掻き立てる。だから、わかるということは、勉強を支えている、脚みたいなものである。わからなければ、脚がない、支える脚がない。面白いというのも、脚があっての話しである。
さて、私が、化学がわからない、と苦しんだのは、見えない部分、大枠のところを見ようとしなかったからである、と今は、思う。木を見て森を見ず、の例えがあるが、物事は目に見える部分は全体から見れば本当にほんの少しで、目に見える部分だけ見て「わからない」と言うのは早計ということである。まず「森を見よ」!
竹の会で指導するとき、心がけていること、「森がどうなっているのか」、森の様子を説明すること。理解させる、わからせる、というのは、まず森から説く、ことである。
技術的には、私が30年以上の指導経験を通じて培ってきたノウハウというものは確かにある。しかし、ノウハウは、必ずしも固定的ではない。子ども一人一人の反応を見て、「わかる」の程度、「わからない」の症状を読み取り、その原因を読み解く。しかもその時間は瞬間であり、一瞬で原因を読み取り指示を出す。指示は簡潔を旨とし、たいていは一言で決める。解説、説明は、簡潔で、これも、一言で決める。これができるのは、森を教えたからである。既に森を知っている子に対する指示、説明は簡潔で済む。だから、指導する極意は具体的なものの指導に入る前にいかにして「森を説く」かである。まず、考えろと言う前に、森のイメージを的確に与え、森の外観、鳥瞰を与え、考える指針を与えなければならない。
第4章 勉強パッションの濃度と危険水域
急に熱が冷める子がいる。あれほど受検したい、志望校に入りたい、とまるで熱病に取り憑かれたかのようにうなされていたのが、突然、受検の気がなくなる。まあ、こういう子は、幼いということです。周りの雰囲気に染まりやすい。こういう子にとって受検は、オモチャみたいなものです。似て非なるものに、突然やめるというのがある。受検はしたくなかった、という。受検はしたくないは、勉強したくない、と同値である。仮に受検しなければ、勉強から解放されるのか、もう勉強しなくていいのか、違うでしょ。高校受験を視野におけば、早くからの脳形成は、どちらにしても必須なのです。受検というのは、少なくとも竹の会では、脳つくりの機会と捉えて、取り組んできました。
課題をきちんと溜めないでこなしていくことは、将来、中学、高校において、大切な勉強を先送りしない習慣の経験値を積み上げているのです。小学時代につけた、この積み残しをしないで、生活する習慣というのは、この時期にしか定着できない、貴重な、将来の目に見えない能力となるのです。
この時期に課題さえもまともにやれなかったという記憶はやがて自分はそういう人間だという諦念にまで成長し、中学、高校と自分を苦しめることになります。やらない人間、実行しない人間になってはならない。落ちていく人間はいつもこのパターンをとる。小学生だから、まだ許されるということはないのです。小学生の勉強、生活習慣が、人生の礎となるのです。小学時代に、課題をやらなかった者は、中学でもやらないし、高校でもやらない、というのが、ほんとうのところです。いつかやるというのは、完全な幻想であり、堕落人間のお決まりの戯言です。
受検したくはなかった、受検はしない、という選択が、ただ勉強からの逃避であるという実質があるならば、たいていはそうなのですが、それは将来をも捨てる、愚かな判断なのだが、当の本人がそのことを知る、悟ることはないでしょう。だからこそ人生に脱落する人間が、多数なのである。自分の判断が、愚かな人間たちの層に滑り落ち、社会の底辺に張り付くことになる。ゲームに耽溺する、テレビに無為を貪る、ごろりとして何もしない、部活にはまる、習い事、稽古事に一家で夢中になる、そういう判断が、結果将来の自分を規定することには思い至らない。人間というのは、過去は「忘れる」ことで精神の、当面の心の安らぎは保つが、未来は、現実ではないという、それだけで、能天気になれるのである。過去は忘れて、未来は、考えない。それが、敗者の常である。
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