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別れ/小石川

2019.07.16

令和元年七月十六日 火 梅雨の雨 農家には恵みの雨

第1章 別れ

 まだ母の生きていた頃、年に一度だけ郷里の別府に帰った。塾の仕事は、なかなか休めない、まとまった休みというものが取れない。夏休みの最初とか、最後に一週間ほど休んで帰った。家族で帰ったから、父も母も喜んだ。弟の家族や姉の家族も集まり、再会を喜び、それぞれの健康に感謝した。すぐ近くに住む弟は、なにかやと世話をやいてくれた。隣市に住む姉もあれこれと心配してくれた。夕食は、大賑わいであった。大分の美味しいもの、城下カレイ、苦瓜のこねり、だんご汁、サザエの煮付け、切り干し大根、きんぴらゴボウ、ひじきと油揚の煮込みと、幼い頃から慣れ親しんだ食べ物が並んだ。毎日宴であった。母は私たち家族の世話をやき、あっという間に一週間が経つ。「別れ」の朝は、いつも悲しいものであった。母は、玄関横の窓からいつも見送った。顔はいつも涙で濡らして、年老いた母に、もう会えないかもしれない、という思いが、さらに私の胸を締め付けた。迎えにきたタクシーに乗り込む、中から母を見る、諦めたような顔、苦痛に満ちた顔。別れがこんなに切ないものとは。毎年、帰るたびに繰り返されてきた母との別れ。そしていつか永遠の別れがやってくる。いつか必ず来る。私はその時が来ることを恐れ怯えた。いつも別れは唐突にやってきた。突然鳴る電話。不吉な予感は、なぜか外れがない。絶望しながら、何度電話を終えことだろう。
 祖母との別れも突然だった。わたしはこの年に九州大学に合格し、夏休みで、帰郷していた。8月のことだった。台風が近づき、低気圧に覆われていた。もともと血圧の高かった祖母は、夕方、近くの温泉に行って、やがてタクシーで運ばれてきた。苦痛に衰弱した顔。初めて、祖母のこんな弱々しい顔を見た。すぐ意識混濁に陥った。それから三日昏睡。朝、この世の最後の息を大きく吸い込み、この世を見納めるかのように、大きく目を開き、すぐ崩れていった。それが最後だった。この世を去った。
 いつも別れは、突然訪れる! こちらの予期せぬとき、そう、何かに夢中になっているとき、突然やってくる、いつもそうであった。
 何もない日が、どんなに幸せなことか。バカを言って、喧嘩して、泣いて、笑って、怒って、普通の生活が、何事もなく終わる一日が、どんなに素晴らしいことか。
 何事もなく、一日が終わることが、どんなに幸せなことか。江戸の時代、お百姓さんが、お天道様に、今日も無事に終わったことを感謝したように、一日一日が、私たち人間にとっては、生きられるかどうかが、実は、危ういことだったのではなかろうか。抗生物質もない、医学も未熟な時代。天気予報もない、江戸時代が、危険に満ちた時代であっただけに、なおさらである。
 科学の進歩した、現代でも、一寸先は闇、というのが、本当のところではないか。
 別れは、必ずやってくる、私たちは、別れを悟るときが、必ずくる。人間というのは、もともと悲しい宿命を背負った生き物であったのである。困ったことに、人間は、都合の悪いことは忘れるようにできている。将来確実に来る死でさえも死の直前まで考えない。自分は、いつまでも死なないと思っているのが人間である。若いとなおさらである。生存ということが、人間にとって当面の目的であり、生き抜くということは、死を、考えることと相容れないからか。つまり、生存にとって、都合の悪いことは忘れる、死などあり得ないと考えるのが、都合がいいのである。
 だから、死は突然くる。やってくるように見える。しかし、死はいつ来てもおかしくなかったのである。なぜって、生存とは、死と表裏だからである。生存と死は表裏の関係にある。生きるとは、すなわち死の裏返しである。突然裏が出てきてもおかしくはない。ただ、生きるのは、意思の為せる業であり、死は、神の為す業である。死を自らの意思で裁断するのは、神の領域の侵犯であろう。
 人間は、別れを予感して、裏側を実は感じている。別れが悲しいのは、死を予感するからだ。親しい人との別れ、愛する人との別れ、人は本能的に、予感する。恐れながら、信じたくないと、目を背ける。そうなのだ、人間は、信じたくない。だから見ようとしない。いつも現実に埋没して、考えることから逃げようとする。
 だから、別れは、突然やってくる、いつも突然やってくる。
 死について普段考えないのは、死が、生(生きる)と表裏一体の関係にあるからである。すなわち、生きることに懸命になっていれば死は頭に浮かぶことはない。死を考えるときは、生は後へ退いている。これから生きることを考えながら、死について考える事はできないような体の構造になっている。
 若い時代に、死について考えることが、例外なのは、そのためである。
 繰り返す。死は突然訪れる。それは、生きることに懸命な場合ほど突然である。
 だから、「別れ」 は、人が、死の影が刹那に心を過ぎるのを見る。瞬間的に見るから、悲しいのである。
 いつも「別れ」は、突然やってくる。
 心の準備もない、心の余裕もない、生活に明け暮れているときに、突然やってくる。
 父さん
 あなたはウヰスキーのお湯割りを本当に上機嫌で飲んでいましたね。ビールを飲むときも本当に美味しそうでした。日本酒も、焼酎も、本当に好きでした。タバコもなかなかやめられず元気な時までのみました。私は、あなたに呼び出されてホルモン焼き屋であなたとお酒を飲んだことがありました。あなたはあんなものを本当にワスワス食べていました。噛んでも噛んでも噛み切れない、そういうと、あなたは、「丸呑みすればいい」と言いました。一度は丸呑みしたものの、私にはとても無理な食べものでした、あなたは後年、胆嚢を患い、最後は胆管ガンで、この世を去りました。
 こういうと、あなたはお酒好きで食べたいものを食べたように見えますが、あなたは頑ななまでに真面目で、頑固で、融通のきかない人でした。いつか私がDVDをコピーしたら、烈火の如く怒りました。悪いことはしてはいけない、あなたの信念だったと思います。あなたは真面目で、勧善懲悪の人でした。人間を行いがいいか悪いか、で分けました。高校時代からあなたにずっと反抗した私にあなたはいつも「行いが悪い」と言いました。
 今は、あなたの頑な言動が懐かしく、それでもいい、あなたが生きていてくれさえいればと、一人涙目で酒を飲んでいます。なぜかあなたと食べたホルモン焼きを思い出します。元気なあなたの姿が懐かしいです。

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