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「結界」を張る!

2022.08.27

 

「結界」を張る!
 集中している人間は、他人の付け入るスキがない。ほかでもない。集中という精神は、俗にいう「」のチカラによる結界を張ることである。
 集中というのは、精神世界において、ある一点に気を集めることと言っていい。雑念をシャットアウトして、一つのことに気を集中すること、この時、雑念が無意識に浮かぶことは多くの人が経験してきたことであろう。雑念が、湧き起こる段階では、まだ気は集中しきっていない。俗に言う、気が散るというのは、外界の雑音が耳に入り、気を集められないことを言う。こうして見ると、集中というのは、気の濃度の関数と言える。凡人は、気を散らすが、天才は、気を上手にコントロールして、一点に集めることに長けている。
 算数を考える、数学を考える、専門書を読む、これらは、気を逸らしては、なし得ない行為である。本というのは、まず理解するのが最初の仕事である。文章の意味を理解する。ここでは、何度も読み返して、国語的に分かりにくい、英語流で言えば、やたら関係代名詞で繋いだ文章、あるいは形容詞句、節を二重三重に被せた文章の解釈をする。読解というのは、「係り」と指示語を読み解く、国語の文法的な力が前提の作業である。専門書の場合、様々な専門語の定義を前提に書かれているから、まず定義を押さえることが、なによりも重要な作業となる。
 このような作業は、かなり気を集めないとなかなかできることではない。気とは、何なのだろう。精神の気である。その気になる、少し気になる、気をつける、気を確かに持つ、気長に待つ、気負う、気が散る、こういうときの気とは、心のことであろうか、「思い」なのか。気とは、意識して思うこと、と定義していいだろうか。それにしても、気は、気体の気の風合いがある。空気の気は、気体の気であろう。もともと意識とは、脳の神経を流れる電流(パルス)、それも瞬間的に点いたり、切れたりする、持続性のない、もので、継続的に流れ続けるのは、あり得ない。気を集中させるとは、脳の神経に継続的にパルスを流すことであり、かなり脳に負担のはずである。気が続かないのは、脳がこのような負荷に耐えられないからである。気を緩めるとは、脳神経に流れるパルス、信号を切る、つまりスイッチを切ることである。娯楽や趣味に興じることは、これにほかならない、気を緩める、気を張らない、気ままな、ある意味、弱い電流が流れることなのではないか。好きなことには集中するのは、気に緊張がない、それは、緩める、ときに集める、だから楽なのではないか。
 気というのは、瞬間的かつ断続的に発生しては、消え、消えては発生するものなのではないか。それは脳神経に流れては消える、電気信号みたいなものかもしれない。そうであれば、いつも電流を流していれば、ニューロンは鍛えられ、太くなる、いやその数を増やすのかもしれない。
 私たちは、まるで気体のような、「気」を脳に集める、その時、脳の空間は、「気」で濃度を高める。集中とは、気が飽和濃度に達した状態ということになろうか。
 「気」を操れるのは、自分である。楽なことに気を使うのは、おそらくニューロンに緊張がないのだろう。ゲームに興じる気は、なぜたくさん集まるのか、いくら好きとは言っても長時間ゲームをやれば疲れる、脳はグッタリとなる。とすると、ニューロンに与える負荷は楽も苦も変わらないのではないか。楽なことに気を気軽に使えるのは、電流風に言えば、ニューロンの回路に抵抗がない、ということなのかもしれない。なぜ楽なことには抵抗がないのか。私たちが、難解な本を読むとき、ニューロンの抵抗が大きいのはなぜか。ニューロンは、知らない、理解できない情報が、流れるのが嫌なのではないか。理解して、いや納得して、初めてニューロンは受け入れるのではないか、とすれば、難解なとまでは言えなくても、なかなか難しい内容の文章は、理解というフィルターを通さなければニューロンには流れない、そういうことなのではないか。
 拾い読みという方法の薦め‼️
 無作為に開いたページの項目から読む。この方法のいい点は、重要事項にポイントを絞りながら、読めること。だからスッと中に入っていける。私の場合は、長時間の集中というのが、できないので、この方法が、かなり有効である。そもそも本は最初のページから読まなければいけない、などという決まりはないのである。ポイント読みというか、重要なところを拾い読みすること、これを続けていると、いつしかほぼ8割がた潰していることを知るであろう。拾い読みも通読も変わらなということは、脳科学者の茂木健一郎が書いている。
 気になるところ、曖昧なるところ、理解できないところ、などは、拾い読みで、何度も読み返すのが有効である。
 因みに、わたしは、そういうところに線を引いたり、マーカーで塗ったり、印をつけたり、しない派である。もっともこれは専門書など読むときの話しで、新書は、黄色マーカーで、よく線を引く。これは後から探す手間を省くためである。新書は、情報を得るための手段と思っているので、マーカーを引くが、実は、マーカーを引くようなところはたいてい三箇所もあればいい。私の場合は、いいことを言っているな、というところで、示唆に富むのは、新書本全体の2%ほどか。
 受検直前に、他人の立ち入る隙を無防備に与える子、すなわち結界を張れない子の如何に多いことか。俗に頭がいい、という子も直前期に結界を形成できないままに、弛みのある精神のままに受検した子は、然るべき結果しか出せないことは既にして自明である。
 結界を張れた状態というのは、どのような状況か。
 まず共通して「寡黙になる」、無口、無駄な会話が消える、意図して他人に話しかけることもない。与えられたレジュメにひたすら取り組む姿が心を打つ。
 結界を張れなかった子とは、どんな子?
 おしゃべりをやめない。いつも誰かと話している、人に教えたがる、これは他人の勉強を手助けしてやるということで、自分のほうができるという余裕のなす業なのであろうが、試験というものが弱肉強食の世界に身を投じることだという認識の欠如はともかくとして、他人に教えるという「驕り」の精神が、試験の天敵だということを知らない無知さが、「賢くない」という烙印を鮮明にする。
 結界を張れなかった子は、いつも友だちと「連れ」ている。結界のない子は、不安なのである。だから、自分と同類の結界のない子たちと連む。
 結界どうしたらできるか。
 ひたすら内面の世界に入ることから、生まれる。つまり、外部との交渉をしている限り、結界の発生することはない。結界は気を操ること、コントロールすること、気の加減を塩梅を常に心がけているところから生まれる。
 

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