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「読む」ということ

2015.11.28

 遅くなりました。多忙を極めております。渋谷Bはまだ生徒はほとんどいないのですが、それなりに忙しいです。いつも渋谷Aの指導日が終わると、すぐに次回の指導日に使う、今年の主力レジュメ「適性問題Ⅲの研究」の創案に入ります。過去問全国版から拾うことが多いのですが、某私立中の過去問、あるいは公立中高一貫校の中でも、出色の3、4の学校にしぼってアイデアを探しています。どこの適性問題が優れているかというのはわたしの目から見れば一目瞭然ですが、これは公開するのは控えさせていただきます。竹の会の企業秘密みたいなものです。それから来年の問題の予測には、日本評論社から出ているのでいいのがありますね。あるいはニュートンの特別号にもいいものがありました。まあ、そういうものからヒントを得ます。問題をレジュメ化してから、それを印刷し、まず解いてみます。その上で解説原稿の案を練ります。それができあがって初めて正式に仕上げの原稿を打ち上げていきます。2日とか、3日がかりです。

 今日は、「読む」ということで一言書いておきたいと思います。

 よく小5や小6が、「読書している」ということを聞きます。かつて「うちの子は読書が好きで家で本ばかり読んでいるのに国語ができない」と嘆いていた母親がいましたけど、「本を読んでいますか」と尋ねると、「はい」と答える子の多くが形だけの読書で実は読書してないのと変わらない、という認識をもっております。親は、子どもが本を読んでいると、喜ぶかも知れないが、どうも中身は保証の限りではないようです。

 活字を追うだけ、文を「読める」というだけの読書をしている節がある。そうであるならば通常読書に期待される効果は望み得ないであろう。

 「行間を読む」という言葉があります。活字で書かれてあることを読むのは当然として、筆者が当然の前提としていること、筆者の思い、価値観といったものを想像し、推測しながら、読むのが「行間を読む」ということの意味だと思いますが、かつて司法試験指導者の中には、この言葉に論理的にありえない、書かれていない内容を読み込むのだ、などという不合理極まりない暴言を吐く者がいました。

 ところで、「読む技術」というのがあるのか、です。わたしにはそのようなものはわかりませんが、ひとつだけ言えることは、「読むことに集中する」ということでしょうか。そのときにいろいろと思いを駆け巡らせるということだと思います。それを想像力というかはともかくとして、「読む」という営みは、頭の中に錯綜する思いを巡らす、そしてその中からあるひとつのものを推し当てる、そういうことなのかなと思います。

 まずは、とにかく筆者の主張に耳を傾けるしかない。自分の意見はさておいて、ひたすらに筆者の意見を聞き取る、読み取る、その輪郭、その骨子、そのかたちをつかむことが先決です。

 このときに先入観念に支配された頭は使えないでしょ。先入観念に支配された頭は相手の意見をねじ曲げて理解することにほかならないからです。作文の添削では、先入観念と決めつけた作文は添削の施しようがありません。そういう子をまともな作文が書けるように導くのは実は不可能に近い。いい作文を書く子というのは、そういう束縛、呪縛のない、素直な子です。

 読書においても、思い込みは、ねじ曲がった理解、曲解、誤解、勘違いをもたらします。自分がそうだと気づかないだけ厄介です。思い込みの強い人は自分の思い込みで曲解していることに気づかないのです。「読む」ということはそういう意味ではかなりに技術的に所為であるのかもしれません。

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