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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

この理解の深さはいったいどこから来るのであろうか  

2021.12.18

 

この理解の深さはいったいどこから来るのであろうか

 理解の深さとは
 思い出す理解の深い合格者たちに共通したもの
 気がつくかな、と危ぶむとき、きちんと対応している、こういう子は理解の深さを感じる

 言葉遣いが、きちんとしている。礼儀を知り、敬語を知る。
 総じて大人の女性であり、紳士である、ということなのかなと思う。
 大人とは何か。社会には大人になっても精神は子どもというのが蔓延る。
 考えてみれば、大人ほどダーティーなものはいない。
 大人とは、少なくとも責任を感じる人でなければなるまい。
 大人とは、実行する人でなければならない。これは、責任と裏腹である。責任をとる覚悟があるから実行するのである。
 ところが政治家、大学教授、医師、どんな立派な職業についていても平気で嘘をつき、責任を逃れようとする。政府の新型コロナ対策は、とても責任ある人たちの、いや賢い選択ではなかった。
 こういう地位のある人たち特有の保身から出た言葉、行状は、無責任な大人が、社会の多数であることを教える。
 社会に出れば、保身が生き抜く術となるのは、古の昔から変わらない。
 自ら信ずる道を貫き通すのは、つまり信条に従って生きるのは、大きな不利益を被る覚悟をしなければならい。正直で良心的な赤城氏が自殺するしかない社会なんて。
 だから大人の定義に責任ある行動を含めるのは誠に疑義あることかもしれない。

 しかし、子どもが成長していくのは、確実に、責任を伴う行動に根拠がある。
 責任ある行動は、子どもに自信をもたらし、精神の安定をもたらすことは疑いない。
 責任ある精神が、人生に目的を与え、将来の進むべき道に指針をもたらし、勉強に集中する、先生の教えに素直に従う、ことにつながるのである。わたしは、自ら考えたこと、先人に指示されたこと、をひたすら実行する、その積み重ねが、責任を培い、実行の積み重ねが、生き方に自信をつける、引いては、責任ある大人になっていくのだ、と思う。
 頭の中で、観念だけで、結論を出してはいけない。事実を根拠に行動する。これが責任ある行動である。事実は常に歪曲されて伝えられる。世の中の事実は、伝聞がほとんどである。テレビは意図的に誤報を流す。テレビも新聞も政府の広報を鵜呑みにして記事を書く。事実の取材は軽んじられる。3.11のとき、大手新聞、テレビの記者は、80km圏外に退避して、新聞は、フリーランスの記者の取材した記事を買った。
 私たちは、事実をのみ観察して、先人の知恵を借りて自分で判断しなければならない。
 世に飛び交う根拠のない伝聞情報、フェイクニュース、ネットで恣意的に飛び交う、場当たり的情報を垂れ流す人間に耳を貸してはいけない。真面目な人間でも毎日のようにネットで喋り続ける人の意見は信用してはならない。武田邦彦さんは、真面目に日をおかずYouTubeで発信していますが、一年前に、新型コロナについて物から感染すると断じていたが、一年経って色々わかってきて、感染症、ウィルスの専門家が、エアロゾル説を主張するようになった。武田さんは、自らの過ちを認めておられるようだが、正体不明のウィルスについて、「これしかない」と断じるのは、やはり根拠がなかった。人間は自分の論理に都合のいい事実のみを都合よく拾うものである。 

 大人とは、敬語を使い、年長者を労わる、優しい心の人である。
 周りを見る、他人を思い遣る、礼節を知る、そういう人のことである。
 バランスのある精神が、普通の感覚、常識を培う。木の癖というのがある。崖っぷちにへばりつく木は、日光を求めてかつ崖に根を張り巡らさなければ自らの支えを失うから、誠に癖のある異形となる。人は自らの環境に規定される。親ガチャというが、それは環境ガチャでもある。経済的な環境が子の教育に及ぼす影響は大きいが、ゆとりのある親が、過保護環境で、甘やかせれば、子はろくなものにならない。そんなことは芸能人の子どもを見ていればわかる。
 教育とは、自分を律する精神を造る営為である。足りない環境に置くことが一番の教育法である。何もかも与える、手に入る、他人によって満ちた環境、そんなところで育てば、ろくな人間には育たないのは分かりきっている。裕福というのは、親ガチャ当たりということなのかもしれないが、反面一つ間違えば、自分を律することを知らない、人に批難されるとすぐキレる、我慢の効かない、自己中心的な、わがまま人間をいとも簡単に生産してしまう。
 教育は、子どもが我慢すること、「ない」ものを辛抱すること、ないことに耐えること、を教えることである。「律する」精神、自己を制御する精神、欲を抑える精神、それは我慢する精神であり、耐える精神というのは、責任の根拠を自己とするものであり、我が儘放題に育った人間が、悪いのは全て他人のせいだとするのとは、対極を為す。
 竹の会の指導は、考えるという精神の制御を通して、律する心の芽生えることを期待している。

 幼児的な立ち位置の子は、適性問題に対応できない。適性検査とは、大人の、つまり物事の深い理解からする判断を求めるものである。子どものような片面的な視点、普通ではあり得ない注意力の散漫さ、思いつきで結論を出す、こういう子は最初から排除される。
 言われたことを言われた通りにやれない子は、最初から振り落とされる。選抜の狙いは、入学して、まともにやっていける子を入学させることにある。頭の悪い子が頑張って入れるシステムとはなっていない。勉強すればできるようになるという単純なものではない。飽くまでも求められているのは、才能である。生まれながらにして持って生まれた才能である。才能がなければない。それが選抜当局の意思である。
 才能があって、初めて真面目さ、努力、素直さといった性格が意味を持つ。勘違いしてはならない。
 落ちたら高校入試をするしかない。しかし、高校入試で成功するのは、ここでも才能ある人に限られる。頑張れば合格するというシステムにはなっていない。
 ただ高校入試では、才能的にはやや足りなくても高望みしなければ成功する可能性はある。才能が足りなければ高望みはできない。なのに親はいつしか才能のことは忘れて勉強すれば受かると錯覚を起こす。それで成績が上がらないと塾を責める。違うでしょ。もともと才能がなかっただけのことでしょ。
 区立中学というのは、全体の8割が落ちこぼれる。それなりの都立に行けるのは、全体の1〜2割である。つまり、8割の生徒は、部活や無為、怠惰のためまともに勉強しない。高校全入の現代では、単願、つまり無試験でどこやらのなんでも高校に入れる。つまり、区立中学は、8割の将来の貧困層を生産する。
 残り2割が、トップ都立、優良都立、高偏差値私立を争う構造である。
 公立中学のカリキュラムを優秀な成績でこなしても、それなりの都立には合格できない。
 内申制度は、生徒を学校の管理の道具化としており、教師に阿る、媚びる知恵のある生徒が、いい内申を取る。また中学教師のレベルが低く、女子、特に、外見のいい女子が、高い内申を取り、男子の内申は女子に比べて圧倒的な低い。
 こういう中で、定期テストで90点以上取っても、酷いときは「3」、よくて「4」というのが実際である。男子で日比谷を受けるとしてもかなりのハンディーを背負っている。
 区立中学というのは、実力があれば評価されることにはなっていない。実力のない生徒が内申点が高いというのはありふれたことである。こういう生徒は、推薦狙いで日比谷なんか受けるけど、いざ一般受験となると、目黒あたりまで下げなければ受からない、というのが現実である。
 さて、区立中学の2割が、良質な都立を狙えるとして、さらにトップ5内にいること、これが、独自校クラスを受ける条件になる。もちろん部活などやってればそれはない。部活に囚われて、将来を捨てた生徒なら腐るほどいる。中3になっても夏合宿とか、練習試合とか、大会とかで、本来なら受かっていたであろう都立に落ちた生徒はたくさんいた。中学の部活で将来を捨てる、そんなことしていいのか、わたしにはそういう親や子の気持ちはわからない。将来、青山や戸山に受かるかもしれない道を捨てて、部活に興じ、都立に行けず、偏差値の低い私立に単願で入ることが、なぜそれほどまでに大切なのか、わたしにはわからない。
 青春を燃やすという名の下に、あるいは苦を厭い楽を選んで、自分の未来を捨てるという選択がわたしにはどうしてもわからない。特に、一部の親には、そういう子どもの姿勢を支援している風があるのは、理解を超えている。下級国民は本能的に自らの子を下級国民にしている、ということなのか。
 一所懸命という鎌倉時代にできた言葉がある。御家人が主人のために一生懸命に奉公するのは、すべて恩賞としての土地のためである。一所とは、所領のことである。土地のことである。懸命とは、命を懸けるということである。
 部活懸命でいいのか。あてにならない内申懸命でいいのか。
 懸命にならなければならないのは、実働時間で担保された勉強ではないのか。
 青山、戸山に合格するには、勉強懸命に実行すればいいだけのことではないのか。
 わたしは、個人の意思を尊重する。中学生でも主体たる大人たる個人を尊重する。だから勉強しなくても文句は言わない。ただ竹の会を静かに去ってもらえばいい。
 はっきりしていることがある。わたしの期待したとおりに勉強しなければ成績は確実に落ちていく。わたしの指示を最優先しなければ、戸山、青山へはもはや案内できない。わたしはただの案内人である。部活で勉強を蔑ろにする人間など案内できるわけがない。家庭の事情を勉強に優先させる、つまりは私の指示を先送りする人間を日比谷その他に案内できるほどわたしは有能ではない。
 今のわたしならもし逸材、天才が、わたしの指導に素直に従うなら駿台模試全国1位を確実に取らせることができる。
 模試で日比谷で1番を取らせることもできる。
 わたしはようやく高校受験のプロフェッショナルになったと周りに言えるほどに指導に確信が持てるようになったことを実感している。
 都立中高一貫校の指導も変わらない。わたしの指導を最優先するなら、逸材であれば、小石川など造作もない。
 都立中高一貫校合格には、竹の会の入会試験で満点近い点を取るくらいの子でなければ、受検など考えない方が無難である。8倍ほどの倍率である。だれでも努力すれば受かる試験ではないことは、自明である。
 高校受験なら、日比谷クラスでも2倍前後、普通は1.5倍かな。ただし、内申点で受験の可否が決まる。
 私は日比谷を目標に勉強するのはバカだと思う。わたしがバカというのは、必ずしもIQが低いという意味ではない。寧ろ高い。バカとは、浅い人のことである。物事の本質を見抜けない人のことである。物事の表面だけ見て批判する人のことである。事実を曲解して、誤解して、事実を知らないで、ただの想像と誤解で批判する人のことである。
 日比谷に合格したいのなら、開成、筑駒を目標にしろ‼️
 

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